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今回はまた間取り付きです。2階建ての一軒家
「でも、良かったじゃないですか」
湯気の中、アスタリの声が反響する。
「ほーんと! びっくりしちゃった。けど、けっこういいとこあるじゃん! うちのオーナー……、きゃっ!」
「うぐぅうぁ」
バシャッ! クロが湯を跳ね散らかし、マレーヤが小さく悲鳴を上げた。
富士見湯。
お時が経営する銭湯で、ふだんはお時自身が番台に座っている。
いま、その女湯はマレーヤ、アスタリ、キア、それにクロの貸切状態だ。
つい数十分まえ、夷やに現れたお時。
『ふん! おまえたちね、誰に断ってあたしの店に、その得体のしれない生き物を住まわせようっていうんだよ』
お時の口上とその迫力に、マレーヤだけでなく源大朗たちまでもが、
『ま、まぁ、だな、とりあえずは』
『そうですね、お座りください。いまお茶を淹れますから、はい』
たじたじとなる中、
『ふん、お茶なんざいいよ。ここには、先々月分の家賃をもらいに来ただけだからね。それとも、先先々月だったかねえ』
『ま、まぁそんな、込み入った話もあったっけかなぁ……、ぅっ!』
とぼける源大朗、お時に一瞥され、言葉を失う。視線がさまよう。
『でも、でもでも! クロはいい子だし、誰にも迷惑かけないし、外にいたらいじめられちゃうし、どこにも行けないし、住むところもなくて、嫌われてかわいそうなんだもん! だからマレーヤがいっしょにいてあげるの! ぜったいちゃんとするから! お願い! だから』
『わたしも、マレーヤと分担して面倒見ます。お部屋は汚しませんし、ご迷惑もおかけしません。それで、なんとかお願いできませんか』
マレーヤにアスタリが相次いで声を上げ、懇願するも、
『おまえね、『でも』から始まる言葉を人に浴びせるんじゃないよ。はなっから、あたしの意見は反対です、って言ってるのと同じだよ』
『で、でも……、ぁっ』
ここで口を開いたのは雄二だ。
『まぁ、少しいまは興奮しているんですよ。わたしからもあとで説明に行こうと思っていたところでね』
『わかってますよ。そんなことだと思ってたのさ。なんだか予感がしてねえ。で、来てみたら、案の定』
『そういうことだし、危険な生き物では決してないので、なんとか少し大目に見てやってもらえませんか』
もはや雄二以外に、お時に対抗できる者はいない、と全員が思っていた。と、意外にもお時が笑みを見せた。
『だからさね。得体のしれない生き物は金輪際ごめんだって、言ってるのさ。あ? なにぼさっとしてるんだい。いますぐその子をここへ連れておいで。あたしが知ってりゃ、得体のしれない生き物じゃないだろ。雄さんの見立てが安全だって、言ってるんだ。ほら、早くおし!』
「それで見せたら、『なんだいこりゃあ。真っ黒で、みっともない。こんな生き物は初めて見たよ』って。二階で寝てたクロがまたさー」
「寝ぼけてお時さんに抱き着いて、『やめとくれ! 抱っこちゃんかい』って。あ、やっぱりダメかも、って思ったら」
そのうえ、
『なんだか変な臭いがするねえ。汚いままじゃ住まわせられないよ! 富士見湯に連れておいで! ただし閉店してからだよ。ほかのお客さんに迷惑だからね!』
というわけで、こうして夜中の銭湯に三人とクロが入っている。
「なんで……」
キアは無理やり連れて来られたクチだった。
「ばーーー、ぁう!」
さっきからクロ、湯舟の中で大興奮で、ずっとひとりではしゃいでいる。
小さくて足が底に着けないが、身体が浮かぶらしく、パシャパシャ湯を跳ね散らかしていた。
「クロぉー、こらぁー!」
マレーヤがクロをつかまえようと追いかける。見かねてというより、自分も遊びたくてやっているようにしか見えない。
「マレーヤ! ちょ……、やめて、って……、もぉー!」
頭から湯を浴びて、アスタリも閉口する。キアもとうぜん湯を浴びているのだが、
「……」
どうせ濡れるからいい、という態だ。
「そーらっ!」
ようやくマレーヤがクロを抱きとめ、それでもまだ手足をバタバタしていたクロだが、
「だぶーぁ」
マレーヤに抱かれているのをこんどは気に入ったようで、キュッ、と自分から抱きついて来る。
「きゃっ! あはは、あったかーい。抱っこちゃんって、これかなー」
マレーヤも笑う。
「この子の手足、うろこみたいに硬いのかと思ったら、こんなふうにお湯の中であったまると、柔らかいんですね」
「うん。緊張してさ、敵を見たりすると固くなるみたい。ネコが、フーッ! ていうのと同じだね」
ネコ、と言われてキアがちょっと表情を動かす。が、
「ん? キア、なに? キアも抱っこちゃんしてみる?」
じっと見ているとマレーヤが。キア、首を振り、
「どっちなの」
「どっち、って」
「男の子、女の子」
「あー、それ」
そこまで言うとマレーヤ、クロを抱いたまま、掲げるように湯から出す。ざーっ、と湯がしたたり落ちる中、
「わかんないんだよね。ほら、なんにもないし」
とは、クロの股間のこと。アスタリもジーッと見て、
「なんにもないのは、女の子ということでは」
「んー、それがさー、お尻の穴? はあるんだけど、それ以外ないよ。だから、わかんなくない?」
「えっ、そうなの。ぁ……」
「……ない」
雄二はなにも言っていなかったが、どうやらクロ、性別不詳である。
「ったく、いつまで入ってるんだい! もう湯を落とすよ!」
番台からお時の声が響いた。
それからというもの、クロはマレーヤとアスタリに引き取られ、喫茶店の二階の彼女たちの部屋で育てられることになった。
といっても、ふたりは平日の昼間は登校で留守。そこで、
「……なんでオレなんだよ」
「いいじゃん! おっさんどうせヒマなんだしさ。夷やのお店にはラウネアさんがいるし、何かあったら通り一本の向かいだから声も届くし」
「いやそういうことじゃないだろ。仕事をかかえた大の大人がだな、貴重な営業時間にこんなところで」
「あ! マレーヤたちが留守の間、そのへん勝手に開けたりしないでよね! 下着とか見たらぶっ殺すよ!」
「おいおい、誰がガキのパンツなんか見るか、こら!」
「怪しー! 帰ったらちゃんとチェックするからね。誰がガキだっての、マレーヤ、こう見えてもCカップはあるんだぞー!」
「なんだよそれ、Cくらいで有難がってたらな、ウチの……、いや、なんでもねー。てかまえもやったろ、これ!」
急に顔を背ける源大朗に、
「ぇ、……ははぁ、さてはおっさん」
「あー、わかったわかった! いてやるだけだからな。面倒なことはしないからな。ごちゃごちゃ言うならやんねーぞ、ほら!」
と、捨て台詞の源大朗。
ところが、実際に始まってみると、
「ぁあ? なんっだこりゃ。ちったぁ片付けろよ。ったく……」
マレーヤとアスタリが登校したあと、喫茶店の二階の、ふたりの部屋へ足を踏み入れて、源大朗、ため息をつく。
十畳ほどの部屋は、ふたり分のベッドを両端に置くと、もうさほどスペースはない。
にもかかわらず、乏しい床は脱ぎ散らかした服や靴、カバンや小物などで埋まっていた。
「足の踏み場もないってのはこのことだな。こんなに散らかしといて、なにが下着見るな、だよ。いや、さすがに下着は……、あー……」
ベッドの中、毛布からはみ出すように、ブラやショーツが脱ぎ散らかされている。
「アスタリはなにやってるんだ。あいつはきれい好きっていうか、整頓好きなほうじゃなかったのか」
源大朗、床に落ちたソックスを拾い上げて、ベッドの上へ投げ捨てる。
言うとおり、アスタリはふだんからこの部屋を片付けているのだが、そのはしから散らかすマレーヤのせいで、片付いた状態、が保っていられないのだ。
「しかしこの部屋……、ほぼ屋根裏部屋だな」
源大朗も入るのは初めてだが、夷や同様、この喫茶店の建物も築五十年以上は軽く経っている。
二階建てにしては屋根が低い。その外見どおり、二階のこの部屋は、天井板がなく梁などが剥き出しで、屋根の傾斜どおりの勾配天井だ。それも、天井高自体も二メートルあるかないかの低さ。
トイレのついた洗面所は一階廊下にあるが、風呂はない。それで毎日、大家であるお時の風呂屋、富士見湯へ行っているのだ。
「てなことぁ、どうでもいいんだが。さてと、肝心のあれはどこにいるんだ。部屋でいっしょに寝起きしてんじゃないのかよ」
文句を言いながら源大朗、あたりを探す。ベッドの下なども覗き込むが、
「こんなとこにもパンツが……、あいつ、ダメ過ぎだろ」
あきらめて階下へ。洗面所のドアを開けると、
「ここにもいない、か。ぅん?」
見回し、別のところを探そうとしかけて、足を止めた。視線が、動いたものをとらえたのだ。
それは洋式トイレの便器の裏側、わずかなスペースに身体を押し込んで、うずくまっている黒い物体、いや、
「クロ、なんでそんなとこにいるんだ。ほら、出て来い」
源大朗、クロをつかんで引っ張り出そうとする。が、
「ぅぎゅるぐぅぅ、ぐぅぅー!」
うなり声を上げ、抵抗して出て来ない。
じつはマレーヤとアスタリが出ていく直前まで、ふたりといっしょに部屋のベッドにいたのだが、ひとりになると怖がって隠れてしまったのだ。
「出て来いって。よ、っと……、うぁっ!」
源大朗、クロの後ろ足で蹴りつけられ、あわてて手を引っ込める。手の甲が赤くなっていた。
「痛ってえ! ったく、性悪のバケモンだな。……いや、爪は出してないし、これでも手加減した、のか」
手をさすりながら源大朗、クロを見下ろす。
便器の配管の隙間から、真っ黒な顔にこれまたぽっかり黒い目が、まばたきもせずにじっと見上げていた。
「はいはい。じゃあ好きなだけそこにいろ。メシはあとで出しといてやるからな。トイレは、自分でするんだっけか。まぁ、手間のかからねえほう、か」
「うぎゅるぅぅ」
まだ小さくうなっているクロを後目に、源大朗は部屋へ戻る。しかし、
「ここであいつの面倒見ろって、無理だろこれ」
乱雑に散らかったマレーヤたちの部屋に、男がひとりでいること自体、いろいろ抵抗がある。だいいち、
「居場所がねえっての」
あきらめて源大朗、階下へ降りる。
一階はコーヒーショップなのだが、ここも狭い。夷やも狭いが、こっちは建坪も二十平米超しかなかった。
コーヒーショップといってもテイクアウトとデリバリー専門で、テーブルや椅子など、中で飲めるスペースは基本、ない。
わずかに、店の前にベンチがあるだけ。
「まぁ、お時婆あが、あのふたりのために作ったような店だからな」
ときどきテイクアウトや、外のベンチでたむろする客の姿もあるが、デリバリーといっても歩いて行ける範囲で、つまりはほぼ夷や専門。
それも、ふたりが登校している平日昼間は休業状態だ。
「そういや、あのふたりが婆あんとこに来たいきさつってのも、聞いたことなかったな。急に店の前の空き家にコーヒー出前の看板が出て、あいつらが来るようになって」
それがもう、当たり前になってどれくらい経つのか。
「半年……、一年、いやもっとか。まぁいい。しかしこっちにいたんじゃ、店にいるのとあまり変わんない気が……」
カウンターとその中を除けば、あとはコーヒー豆などを仕舞っておく物置しかない。しかたないので外のベンチに座った。
道を挟んで夷やの間口が見える。
不動産のチラシをべたべた張ったガラス戸の向こうにラウネアがいる。まだキアは帰ってきていない。
六・五メートルほどの幅員の道路だ。センターラインなどないが、車がさほど気を遣わずすれ違える幅。
(こんなふうに見る自分の店ってのも、なんか不思議なもんだな)
さほど交通量もない道の向こう側を眺めながら、源大朗、あくびをひとつ。目を閉じると、案の定眠りに落ちる。
「……ぬぁ?」
がくっ、と頭が落ちて、その反動で目が覚めた。
なんだか身体が強張る、重い。
そんなに寝ていたつもりはない、と思いながら源大朗、なにげなく視線を落とすと、
「ぁ」
その膝の上に、黒い物体が。いや、クロが丸まって、ネコのように眠っていた。
「……ぎゅぅぅ、ぐゅぅるる、ぎゅぅぅぅ」
寝言のようなうめきを漏らしている。ネコならなにかしら愛らしいが、
「なんか、キモいなこいつ」
赤ん坊ほどの黒い塊がときにもぞもぞ、ビクッ、と蠢きながら声を漏らす。目を閉じると、真っ黒で顔もよくわからない。が、
「ま、いいか。こいつもさびしかったんだな」
さっきまで警戒してトイレから出て来なかったのが、こうして膝の上で眠るなど、よほど人恋しいのか。
「思ったより、かわいい……かも、な」
無意識にクロをなでながら、源大朗もいつのまにか口の端を緩めていた。
そこへ、
「あー! おっさん、家の中にいないとダメじゃん! クロも外にいるー! 逃げちゃうよー!」
学校から戻って来たマレーヤが駆け寄って来た。
「あ、あの。ありがとう、ございます」
アスタリも足早に近寄ると、頭を下げる。
「逃げねーよ。こんなになついてるだろが。って、おい」
源大朗が言うそばから、マレーヤがクロを抱え上げる。
「うぎ」
「おー、よしよし。いい子いい子。変なおっさんとふたりで、怖かったでちゅねー!」
「おい」
「もう安心でちゅからねー。よく我慢できまちたね。えらいえらい、クロ、えらいでちゅよ。ちゅっ!」
すっかりママ気取りのマレーヤ、クロの顔に何度もキスする。
「おい、嫌がってるだろ。オレの膝の上へ置いとけって」
「えー、おっさんの膝の上とかキモくてイヤですー、って、クロも言ってるよぉ」
「言ってねえよ。ほらこっち寄こせ」
「イヤだってば、あ、ちょっとぉ」
「ぎゅぅ」
「ほーらいい子だ。乱暴なママでちゅねえー」
「ああ? なにそれ。おっさんのくせに、「でちゅねー」とか、マジキモいから。ほらクロ、こっち、ママのところがいいでちゅよねー」
「だからやめろって、無理に抱っこするな」
「そっちがやめてよー!」
「ぅぎぃ」
なぜかクロの取り合いに。
「すいません、ほんとに」
あやまるアスタリ。ふと振り返ると、
「ぅふ」
通りの向こう、夷やの店の前に立ったラウネアが微笑んで、うなずくようにわずかに頭を下げた。
通りは渡れないラウネアだが、ずっと源大朗を気にしていたのだ。
「……」
そしてそこに帰って来たキアも。
この場面からだいたいの事情を察したらしく、ラウネアの傍らに立つ。源大朗とクロを見つめる。
誰もがすっかりクロを守るように、そこにいた。
夜にもまた更新!