おばあちゃんとくろでん
白い髪のおばあちゃんが、腰を曲げてダンボールの中をごそごそと探しました。
一本のきゅうりを取り出し、
「これ、痛んでるわ」
と、悲しそうに言いました。
おばあちゃんは、朝早くから畑できゅうりを収穫してきたのです。
今日は、おばあちゃんのかわいいかわいい孫がやってくる日。
こうた君と、はるき君という元気いっぱいの兄弟です。
おいしいきゅうりを丸かじりさせてやると、昨日、ぼくを使って約束していたのです。
おばあちゃんは、一本、一本、きゅうりをていねいに水であらいながら、キズがないか見つめています。
きれいなキュウリをたくさん食べさせてあげたいというおばあちゃんの優しさでしょう。
「こうたとはるきは、お寿司のほうがええやろか」
おばあちゃんは台所の上にしいた新聞のうえに、太いきゅうりを並べながら、ふと考えこみはじめました。
そして、あわてた様子で小さな台に乗っているぼくの前にやってきました。
そんなに急に動いて大丈夫でしょうか。痛そうにさすっているひざが心配です。
「はよ、たのまんと、なくなるわ」
おばあちゃんは、ぼくの隣に立ててあった紙をつまみ、電話番号を口ずさみます。
大きな受話器を耳に当てて、
「六、四……」
しわの入った細いゆび先を、十個の穴のうち、六に入れて右にくるりと回しました。
ぼくは音で答えました。
ジーコロコロコロコロコロコロ。
次は四です。
ジーコロコロコロコロ。
おばあちゃんは、なんどもなんどもぼくを動かしました。
ここからがぼくのお仕事です。
おばあちゃんの望むとおりに、お寿司屋さんに電話をつなぐのです。
さあ、どうぞ。お寿司屋さんが電話に出てくれましたよ。
「シゲちゃん、お寿司四人前たのむわ。ぜんぶワサビいらんから」
おばあちゃんは楽しそうに笑いました。
今日の夜はお寿司パーティですね。ぼくも食べてみたいなあ。
おばあちゃんのおうちに、こうたくんとはるきくんと、お母さんのサチさんがやってきました。 おばあちゃんは待ちわびた顔で、にこにこ出むかえました。
「よう来とくれたの。なんかのむかい? お茶がええか? 牛乳は?」
「ぼく、ぎゅうにゅう!」
「はうきも、にゅうにゅう!」
お兄ちゃんのこうたくんが元気よく片手を上げ、弟のはるきくんが隣でぴょんぴょん跳びはねます。
おばあちゃんは、「そうか、そうか」といそいそと冷蔵庫を開けています。
こうたくんとはるきくんはすばやくイスにすわり、牛乳が出てくるのを待っています。
その時、ぼくは大きな音を鳴らしました。
リリリリリリ。リリリリリリ。
おばあちゃんの楽しい時間をじゃましちゃってごめんなさい。
でも、この電話はつながないといけないんです。
電話をかけてきた人は、こうたくんとはるきくんのお父さんです。
サチさんが、ぼくの黒い受話器を取って耳に当てました。電話の向こうがわでは、なにやら電車が通るような音が聞こえます。
ガタン、ゴトン。
たくさんの大人の話し声も聞こえます。
もしかして、お父さんはお仕事中でしょうか。
「うん。さっきついたところ」
お父さんは、三人がおばあちゃんのおうちについたのか心配だったようです。「よかった」と安心するお父さんの声が聞こえました。
おや、話し声が気になったのでしょうか。
こうたくんとはるきくんが、出された牛乳をおいて、ぼくに近づいてきました。
サチさんが、にこりと微笑みました。
「こうたも話す? お父さんだけど」
「……うん」
こうたくんが少ししんけんな顔でうなずきました。はるきくんは「はうきも、はうきも」と、とびはねています。
サチさんが、ずしっと重いぼくの受話器を渡しました。
小さな手には大きかったようです。もう少しで落としそうになりました。
あぶない、あぶない。
「もしもし?」
こうたくんは、受話器を耳に当てて、小さな声でお父さんに話しかけました。
はるきくんは、その様子をしずかに見つめはじめます。お兄ちゃんを心配しているようにも見えます。
でも、大丈夫。危なくないよ。
そこに、おばあちゃんがやってきて、笑いながら言いました。
「こうた、電話がぎゃくや」
そうなのです。
ぼくの電話は、くるくるまいたコードがのびている方を、口に当てないとダメなんです。
こうたくんは耳に当てる方と、口に当てる方が反対になっています。
これでは、いくら話しかけてもお父さんとお話ができません。
「こうたは初めて見るんかい?」
「前にきたときは、こうたも小さかったから忘れてるだけやと思う」
首をかしげたおばあちゃんに、サチさんが答えました。
電話が終わったようです。
「うん、また明日!」とこうたくんがはきはきと言うと、サチさんが受話器を受け取って、ぼくの頭の上にカチャンとのせてくれました。
これで電話はおしまいです。
はるきくんが、自分もさわりたいと泣きはじめました。サチさんが、「また今度、また今度」とだっこしました。
おや? こうたくんはぼくをずっと見つめています。なんでしょう?
「お母さん、あれ電話なん? ひらべったくない」
こうたくんの言葉に、お母さんは、「電話やで。めずらしい形やろ」と笑いました。
ぼくは、ちょっぴり胸をはりたい気持ちになりました。
ぼくのような黒電話はなかなかいないはずです。
大きくて、ずんぐりむっくりした黒い体に、ふしぎな十個の穴があいた輪っか。どこを探しても、めったに見つからないと思います。
お店にだってないでしょう。
「昔は、黒電話ばっかりやったんや」
「黒電話っていうの?」
「そうやで」
おばあちゃんがしわしわの手でこうたくんの頭を撫でたあと、ぼくをぽんぽんとかるくたたきました。
ぼくは嬉しくなりました。
「電話っぽくない」
こうたくんが、不思議そうな顔でぼくをのぞきこみ、黒いコードを指でつまんで、びょーんと引っ張りました。コードもめずらしいのかな。
「はうきも、くおでん!」
はるきくんは、自分もさわろうとして、お母さんの腕の中からなんとかぬけ出そうとあばれています。
「くおでん、くおでん!」
「黒電話」
こうたくんが、はるきくんの小さな手をにぎりながら、教えるように言いました。
そして、くるりと振り返ってぼくを見ました。
「まあいいや。くろでんってよぼう。電話じゃないし」
ぼくはびっくりしました。
ちゃんとした電話なのに、こうたくんには電話に見えないようです。
「くろでん、ええ名前や」
おばあちゃんもこうたくんに賛成しました。
少しおどろいたけれど、おばあちゃんが言うならしかたありません。
今日からぼくの名前はくろでんになりました。
「さあ、今日はお寿司もあるから」
「やったあ!」
「はうき、たまご!」
おばあちゃんが、テーブルに寿司おけをどんと起きました。
おけの外がわには、きれいな金色のつるが書かれています。中にはいろんな種類のお寿司がたくさんならんでいます。
どれもおいしそう。
こうたくんがまっさきにイクラに手をのばしました。オレンジ色の宝石みたいなつぶが、こぼれおちそうです。
はるきくんのお皿には、サチさんがふっくらとした玉子をふたつのせました。
「いただきます!」
「いたらます!」
声をそろえて言った兄弟は、きょろきょろと自分の手元をさがしはじめました。
どうやら、おはしかフォークをさがしているようです。
おばあちゃんが、「お上品やなあ」と笑い、
「手でつかんだらええ」
と、白い魚のお寿司をひょいっと口に放り込みました。
二人はたちまち目をかがやかせました。
「いいの!?」とお母さんにかくにんしたこうたくん。
あれ?
はるきくんは、もう口に玉子をおしこんでいますよ。
おばあちゃんは、ひっしにお寿司をほおばる兄弟を、じいっと優しい目でながめています。
見ているだけのおばあちゃんは、まったくお寿司を食べません。
こどもたちのお皿に、どんどん次のお寿司を運んであげるだけです。
サチさんが、「おばあちゃんも、食べよ」と声をかけましたが、「わかっとるよ」と言ったきり、こうたくんとはるきくんを見ているだけです。
思い出したように、「きゅうりもおいしいから」とつぶやいたけれど、お寿司にはとてもかなわなかったようです。
こうたくんはキュウリを半分だけ。はるきくんは一度も食べてくれません。
おばあちゃんは悲しかったでしょうか?
いいえ、ちがうと思います。
おばあちゃんは、ずっと微笑んでいたからです。
おばあちゃんは、しわくちゃの両手をぱちんと鳴らしました。
「わすれとった。たのんだろ思とったのに」
そう言ったおばあちゃんは、ぼくの方にやってきて電話をかけます。
この電話番号は、あのお寿司屋さんですね。
「シゲちゃん、何度もごめんなあ。タイあるかい? 大きなやつがええ」
電話の向こうで、シゲちゃんという男の人が、いせいのいい声で返事をしています。
少しして、眉毛のこい白い服のおじさんが、焼いたタイを運んできてくれました。風にのって、焼き魚のいい香りがただよってきます。
おばあちゃんが、寿司おけをどかして、タイの塩焼きをテーブルにのせました。
すごい大きさです。はるきくんとお友達になれるくらいでしょうか。
とてもするどい歯が口にはえていて、ちょっぴり怖いです。
「すいぞくかんで見た魚や!」
こうたくんは興味しんしんです。
体を乗り出し、白いタイの目とにらめっこ。そして、くいっと持ち上がった尻尾をつまんでゆらゆら動かしました。
いつもすぐにお兄ちゃんの真似をするはるきくんは――
「にいに、たべられう」
おやおや。
タイの顔がこわかったのでしょうか。それとも大きすぎるのでしょうか。
はるきくんは、だんまり顔でお母さんの後ろにそっとかくれてしまいました。
「タイの塩焼き、おいしいのに。お母さん全部食べちゃお」
サチさんがうれしそうに言い、おばあちゃんが大きな笑い声をあげました。
ある日のこと。
おばあちゃんがぼくを使ってサチさんとお話をしていたときです。
「サチ? サチ? 聞こえとる?」
おばあちゃんは受話器を片手に首をかしげました。
ぼくも不思議でなりません。サチさんの声がとぎれてしまったのです。
おばあちゃんは、もう一度サチさんのおうちに電話をかけました。
けれど、何度ためしても声が聞こえません。
「壊れた?」
おばあちゃんは、悲しそうにため息をつきました。
ぼくを持ち上げて、横からながめたり、下からのぞきこんだり。でも、どうして声がきこえなくなったのかわかりません。
おばあちゃんはもう一度大きなため息をつきました。
こわれてないよ! と大きな声で言いたくてたまりません。
おばあちゃんは、しばらく「うーん」と考えこみ、とうとう壁からのびている細い灰色の線をぬきました。この線は、ぼくが電話の世界に声を届けるためのものです。
それを抜いてしまったということは――
もうぼくはいらないのでしょうか。泣きたくて泣きたくてたまりません。
リリリリリリリ、とおばあちゃんに電話がかかってきたことを伝えたいのに。
こうたくんやはるきくんとの電話の時間を作りたいのに。
おばあちゃんは、ぼくを両手にもって外に出ました。
玄関を出て、階段をしんちょうに下りていきます。
おばあちゃんは、ひざの痛みに顔をしかめながら、一歩一歩歩き出しました。
どれくらい歩いたでしょうか。
太陽がじりじりとてらす道を、ふうふう言いながら歩いてきたおばあちゃんのおでこには、いっぱいの汗が浮かんでいます。
ようやく立ち止まって、何度も深呼吸をしたおばあちゃんは、汗をぬぐって小さな電気屋さんに入りました。
炊飯器や扇風機、季節外れのストーブなど、いろいろなものがかべぎわに並んでいます。
おばあちゃんは、店の奥に向かって言いました。
「ヒロシさん、ちょっとお願いや」
すると、つるりとした頭の、めがねをかけたおじさんが出てきました。五十さいくらいでしょうか。
短いあごのひげが、ちくちくしていて痛そうです。
「どうしたの?」
「この子、直してもらえんやろか」
ぼくは飛び上がりたくなりました。
おばあちゃんは、調子の悪いぼくを直してくれるつもりだったのです。
けれど、嬉しい気持ちは、ヒロシさんの一言ですぐに消えてしまいました。
「古い電話やなあ。もう買いかえた方がいいんちゃう?」
「そう? 直らん?」
「直らんことはないけど、今はもっと軽いのあるし、声もはっきり聞こえるで。お孫さんの声も聞きやすいと思う」
ヒロシさんは、「こんなのあるで」と棚から小さなダンボールを下ろしました。
中をあけると、小ぶりな白い電話が出てきました。ぼくよりとても小さくて軽そうです。とてもきれいな白い体が、まるで光っているようです。
おどろいたことに、受話器からくるくるまいたコードものびていません。
おばあちゃんは「へええ」と目をまあるくしました。
電話を両てに持ち、「軽い」とびっくりしています。
「どうする?」
ヒロシさんは、おばあちゃんを見つめて返事を待っています。
とうとう、おばあちゃんは言いました。
「買うわ」
幸いなことに、ぼくはすぐに捨てられませんでした。
ヒロシさんが、「その黒電話、こっちで捨てよか?」と聞いたときに、おばあちゃんが首をふってくれたのです。
ぼくと新しく買われた白い電話は、おばあちゃんと一緒にヒロシさんの車で送ってもらえることになりました。
ヒロシさんはなれた手つきで、壁に白い電話のコードをさし、ぼくは少し離れた台にぽつんと置かれることになりました。
なんと悲しいことでしょうか。
ぼくはもう、おばあちゃんのために電話をつなぐことができなくなったのです。
三日が経ちました。
おばあちゃんは、白い電話をがんばって使おうとしています。
ぼくの輪を回すのとはちがって、電話をかけるときには、大きなボタンを押して使うようです。コードもないから、こんがらがることもないように見えます。
こうたくんやはるきくんの声は聞きやすかったのでしょうか。
ぼくは、あきらめはじめました。
泣きたくてたまらなかったけれど、おばあちゃんが使いやすいのなら、ぼくのお仕事は白い電話にゆずってあげるべきなのかもしれません。
そう思った日の夕方のことです。
しずかにねむっていたぼくは、おばあちゃんに持ち上げられて目を覚ましました。
目の前で、おばあちゃんが申し訳なさそうな顔をしていました。
「起こしてごめんね。やっぱり、あんたじゃないといかんのや」
おばあちゃんは、ぼくを胸にかかえました。
「はるきが言うとった。くろでん、くろでんって。ずっと心残りやったんや。こうたとおんなじように、大きくなったあの子にも、あんたをさわらせてやらなって思たんよ」
おばあちゃんが、ぼくを台の上にそっとおいて、白い電話の受話器を手に取りました。
「それに、やっぱり新しいのは使いにくいんよ」
おばあちゃんは小さな声でつぶやき、白い電話のボタンをおしました。
その電話は、ぼくの修理をヒロシさんにお願いするものだったのです。
「もったいないなあ」
ヒロシさんが腕をくんで言いました。
「サチにでもあげるから。それより、これで直ったんかい?」
「もちろん。ちょっと部品を変えたからもう大丈夫」
「ありがとう」
おばあちゃんは、深く腰をまげてお礼を言いました。
「さっそくかけてみよか」
おばあちゃんが、細い指先を五の穴に入れて、なれた動きでくるりと右に回しました。
ジーコロコロコロコロコロ。
ぼくははずんだ音でこたえました。
おばあちゃんがうれしそうに話す声が、いつまでもぼくの中でひびきました。




