6. 鳴る心臓
まだ朝靄が森一帯を包み込むほどの早朝に、アセナとウプウアウトは歩き出した。
清冽な空気が肺に流れてきて、それが血液と一緒に体内を循環しているのを感じる。胸のうちにあるなにか黒々としたものを洗浄してくれているような感覚だ。
アセナは1歩をたしかに踏みしめる。
土の柔らかさ。岩の堅実さ。苔の温かさ。草の誠実さ。
それらを足の裏全体ではっきりと心の隅々に刻み込む。決して忘れることのないように。それをいつでも記憶の引き出しから取り出せるように。
「疲れたか?」
「まさか」
「そうだろうな」
どことないぎこちなさだった。
これが最後なわけではない。しばらく会えなくなるだけで、これだけのぎこちなさが降りてくるのだから、どうしたものか。
「人の世界。どんなかんじなのかな」
「驚くぞ。狼王の森とはまるで異なる。あらゆる部分が決定的に違うのだ」
「空も?」
「大地も、木々も、鳥も、花もだ」
アセナは手のひらを自分の胸に当ててみる。
晴れの日だ。昨日の夜の時点で身体の隅々まで川の水で清め、爪も手製のナイフで綺麗に磨いておいた。
おそらくは自分史上いちばん清潔な手を、心臓に当てる。どくんどくんと、それははっきりとしたリズムで拍動していた。
「どきどきする」
その言葉に、狼王の大きく雄大な耳がぴくりと反応した。
「ふむ。学んだな、アセナよ」
「まぁね。どきどきだよ。どきどき」
「擬音語が扱えるようになったのなら、日本語はほとんどマスターしたも同然だ。まさか本当にこの短期間でその域にまで達するとは」
「まだ難しいけどね。擬音語とか擬態語とか」
「それを学ぶためにも、お前は人間界に行くのだろう」
アセナはこくりと小さく頷いた。
しっかりと形よく膨らんだ、思春期の女子的なやわらかい胸からそっと手を離す。
手のひらには、まだ小刻み「どきどき」が真夏の熱みたいに質量を伴って残っていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
男は、予定の時間の2時間も前からそこに正座していた。
夜明けとともに冷たい水で身と精神を清め、新品の装束に袖を通す。濃紺の、真新しいさらりとした手触りの生地が肌によく馴染んだ。
──今から、16年振りに狼王様に会う。
男の内側を占めるのは、その圧倒的な感動だけだった。
狼王信仰として有名な大神神社の権禰宜、牙崎宗太郎は、その瞬間を今か今かと待ちわびる。森の奥を注意深く見つめ、狼王様の姿が見えたらいつでも平伏できるように構えていた。
「お兄ちゃん」
細い声だった。
背後から同じように身を清め終えた妹の瑠璃子が、髪を頭の後ろで括りながら宗太郎を呼ぶ。
瑠璃子は神職に就いているわけではないので、今年の四月から入学した高校の制服を着ていた。
「瑠璃子。早いな」
「お兄ちゃんほどじゃないわ。いつ寝たのよ?」
「2時から3時まで寝た。だがそれ以降は目が冴えてダメだ」
「狼王にお目にかかるんでしょう? 寝不足でいいわけ?」
宗太郎は振り返って瑠璃子の顔を眺めた。
昨夜にアイロンを掛けていた制服はシワ1つなく、それは瑠璃子の身体の曲線に従って正しく「着られて」いる。
瑠璃子は薄く化粧をしていた。
宗太郎はあまりメイクについて詳しくないが、彼女が普段使いしているものよりも、唇や頬の発色が上品らしいことには気がついた。
瑠璃子も、準備は完全にできていた。
「俺は狼王に御挨拶するだけだ。むしろここから重要な仕事に取り掛かるのは、お前の方だぞ」
瑠璃子は、そんなこと遥か昔から知っているというように頷いた。
「わかってるわ。狼王様の娘、アセナさんのお世話でしょ」
「ああ」
「······どんな子なのかしら」
「16年前のあの日から、アセナさんは美しい赤ん坊だった。きっと綺麗な女性に成長している」
宗太郎はそう言いながら、あの日のことを思い出す。
子供の頃の記憶なんてほとんどぼやけてしまっているのに、あの日のことだけは鮮明に憶えている。
きっと一生忘れることはないだろう。
牙崎の一族は代々大神神社の神職を務める血筋だった。
宗太郎がまだ小学生だった当時、境内を箒で掃いていた少年の鼓膜を、たしかな泣き声が刺激した。
先日に妹が生まれたばかりの宗太郎にとって、それは聞き慣れた泣き声だった。つまりは赤ん坊の泣く声だ。
それは、森の奥から響いていた。
「声?」
宗太郎は一時的に掃除を中断し、両目で森を見据える。
声ははっきりと聞こえていた。どう考えても、赤ん坊の泣き声にしか聞こえなかった。
「でも、どうしてこんな森に赤ちゃんが」
手に持っていた竹箒を1度置いて、宗太郎は声のする方向へ近づいてみることにした。
日頃から、その森には立ち入ってはいけないと親から言いつけられていた。神聖な森は、人を寄せ付けない。人が気安く踏み入ってはいけない。
その教えがあったからこそ、宗太郎は進むしかなかった。
もし本当に赤ん坊がそこにいるのだとしたら、人の身にこの森は危険だ。助けなくちゃ。
「えっと、······あっちだ!」
声はすぐそこだった。
あの薮を掻き分けた先から、助けを求める声が聞こえる。宗太郎は夢中になってそこに向かって走っていった。どうしてか、心臓が痛いくらい鳴っていた。
『──ヒトの子、この赤子の知り合いか』
巨大な銀色の塊が、そこにうずくまっていた。