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新訳・赤ずきん ~狼王と女子高生~  作者: 唐木まごい
第1章 おもにオオカミ語、たまに人間語
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5. ホーホー・フクロウ

 あれから7日間が経過した。

 狼王ウプウアウトはこの7日で幾度も心から驚いた。


「お父さん。おはよう、おはよう」


 アセナの薄い桜色の唇からこぼれ落ちるのは、狼王の三角形の耳で聞いたところによるならば、それは日本語だった。

 アクセントの位置や、区切りの仕方に未だ不自然さが残るものの、それを日本語以外に聞こうとするのは難しい。


「ああ、おはようアセナ」

「どう?」

「ん?」

「わたしの言葉。変じゃない?」


 ウプウアウトは舌を巻かずにはいられなかった。

 おそろしくなるような言語習得速度だ。

 人間の脳には、狼王と違って限界がある。もちろん人間のなかには例外もいるが、それでも大半の人間が7日間でまったくゼロの状態から日本語をマスターすることはほとんど不可能に近い。


「変ではない。だが、もう少し流暢りゅうちょうになるといい」

「りゅ?」

『オオカミ語でいうなら、「草原を鷹が低く飛ぶように」だ。今のままだと、少し硬質で鋭利過ぎる』

「ナルホド」


 ウプウアウトはアセナに日本語を丁寧に教え込んだ。

 初めの1日で、必要最低限な単語や連語を、文法や発話方法を徹底的に解説した。

 次の日から今日に至るまで、父娘のあいだで交わされる会話におけるオオカミ語の分量を少しずつ減らし、日本語の割合を増やしていく。

 補足説明が必要なときは、オオカミ語を用いる。なにかを指導する言葉として、オオカミ語はかなり優れていた。


「日本語はおぼえたけど、ねぇ、これからどうするの? 今からもうわたし1人で人間界?」

「そんなわけがない」

「それじゃあ······」


 狼王の頭には、明確で現実的な計画が存在していた。

 アセナを苦労させることなく人間界に送るための、手段を、ウプウアウトは実のところ10年以上前から用意していた。


「知り合いの権禰宜ごんねぎがいる」

「ごん、なに?」

「権禰宜。神社の神官だ。森を抜けた少し先にある。狼王信仰のあるやしろ大神おおかみ神社だが、私を神として祀っている。そこに住む男だ」


 難しい言葉はまだイマイチ理解に苦しむ。

 けれどアセナはそのなかで要点だけに絞って、言われていることの主旨だけは的確に理解した。そして然るべきリアクションを取る。


「お父さん、わたし以外に人間の知り合いがいるの!?」


 まずそこに反応しなくては。

 今まで、この16年間、お父さんがわたし以外のヒトと喋っているなんて素振りにも見せなかったのに。

 狼王と人間。

 その組み合わせは本来なら異常なことだ。あり得るはずがない事態だ。そのゴンネギさんという人は何者なんだろう。


「アセナ。権禰宜というのは職業の名前だ」

「あっ、そうなの?」


 アセナはまた1つ、その優秀な海馬に「権禰宜」という単語を記憶した。これまで森での生活を続けていたせいで、アセナの脳はまるで乾ききったスポンジのようになんでも素早く吸収する。それでこそ、難しい日本語も容易く習得できたのだった。


「その権禰宜には妹がいてな、ちょうどお前と同じ歳だ」

「16」

「ああ。しばらくはその妹がお前の面倒を見る手筈になっている。私は言葉を授けることはできるが、人間の、特に少女にはそれなりの準備がいる」


 狼王は優しい声音でそう言った。

 あのウプウアウトが、人間の、それもかなり世俗的な事情に精通しているというのは、なんだかおかしい。

 アセナはあははっと小さく笑った。


 お父さんの知り合いの権禰宜と、その妹。

 わたしが人間界でお世話になるヒトたち。どんなヒトなんだろう。アセナはそのことばかりが気になった。


「明日の朝には、森の外まで移動する。この狼王の森は広大だ。ヒトの足で端からここまでは来れないからな。こちらから出向く」

「そうだね。それがいいと思う」

「今夜がお前と過ごす、当面の夜の終わりだな」


 その日の夜。

 草花のすべてはシンと静まり返っていた。フクロウだけがホーホーといつまでも歌っていて、アセナはその歌声に耳を澄ませながら、父の横腹に身体を預ける。

 もふっと柔らかいクッションのような感触で眠る、「当面の」最後の夜。

 なんだかそのことを妙に意識してしまって、逆にアセナは上手く眠りにつくことができなかった。


「眠れないか」


 ウプウアウトはこんなときでも、アセナの練習の足しになるようにと日本語で話しかけてくれる。


「ちょっとね。なんか寂しくなっちゃって」


 そう言うと、お父さんは鼻をふんと鳴らしてた。

 その振動が頭を寄せている腹にまで伝わってきて、アセナはくすぐったい思いになる。


「永劫の別れではない。しばらくは会えないというだけだ。アセナが人間としての生き方を取り戻すまでは、狼王という存在はお前の道を歪めるだけになってしまう」

「うん。わかってるよ。わかってる」

「賢い子だ」


 白銀の毛布に頬を埋めて、少女は色々なことを考えた。

 明日からの、色んなことについて。

 権禰宜の人はどんな見た目だろう。その妹と同級生になって共に暮らすけれど、可愛い娘かな。そもそも人の世界は森とはどう違うんだろう。


 ホーホーと途切れなく囁くフクロウの声を聞きながら、アセナはウプウアウトに問いかけた。


「ねぇ?」

「なんだ?」

「もしわたしが人間としての生き方を取り戻したら、全部捨ててここに帰って来てもいいんだよね?」


 ホーホー。

 やっぱり鳴いている。

 泣いているように、鳴いている。


「そうはならない」

「どうして?」

「お前がそうなる頃には、きっと人間界で捨てたくないものを見つけているはずだ」

「······そっか」


 ホーホー。

 月の明るい夜が、更けていく。

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