4. どこまでも人間的で
「速い」という言葉が遅く聞こえる。
ウプウアウトは両脚に軽く力を込め、それを順序よく大地に流す。やがて狼王は銀色に瞬く一筋の光と化した。
『平気か、アセナ』
風景という風景すら視認できないほどの超高速で移動しているにもかかわらず、父の声は耳元で囁かれているようにありありと感じる。きっと、なにか特別な話法があるのだろうとアセナは考えた。
『うん、平気。もっと寒いかと思ったけど、お父さんの毛皮あったかい』
アセナはできる限り姿勢を低くしていた。その体勢から極力動かないように全身を強ばらせる。
しかしこの姿勢さえ動かさなければ、ウプウアウトの背の上はきっと地球上で最も安全な場所だと言えた。
真に高速で空気中を走り抜けるものの表面には、どうやら「膜」が発生ようだった。
たとえば、ウプウアウトのような尋常ではない速度で移動している物体の前に、ふいに小石が飛んできたとする。それはこちらが停止している状態ならただの小石でしかないが、ほとんど音速に近い速さを出しているとなると話が変わってくる。
小さな小石が、ライフルの弾丸ほどの威力をもって飛んでくるに等しくなるのだった。
そんな小石やら羽虫やら砂やらの飛来物を防ぐために、空気の膜は発生していた。
膜の内側にいれば、ウプウアウトがどれだけの速度を出そうと安全だ。なにかにぶつかってアセナの上半身と下半身が2つにわかれる心配もない。
『速いね!本当に』
『人の子を背に乗せているのだ。これでも速度を抑えている』
それにしたってすごい轟音だ。
空気膜の内側に入れば衝撃も寒さもやって来ないが、音は聞こえる。白銀の肉体がとんでもないスピードで空を切る音は、たしかにアセナの鼓膜を震わせた。
ごごぉっという雷鳴のような音に負けないように、アセナは腹の底から声を出す。
『ねぇ! どこまで行くの?』
『ヒトのいない海を探している』
『ヒトがいない方がいいの?』
『海とは本来、ヒトの領域ではない。アセナの初めて目にする海は、純粋なものであるべきだ』
『······まぁ、でもそうだね。もしヒトがいるところにお父さんが来たら、みんなきっとびっくりしちゃうよ。だって人間ってみんなわたしと同じくらいの背丈しかないんでしょ?』
『そうだな』
狼王の瞳が青い炎のように輝いている。
アセナは想像力を働かせてみた。
地上からウプウアウトが空を駆ける姿を目にしたら、どんな感じなんだろう?
少しだけ目を閉じて、考える。
すると数秒後、その光景はとてもリアルにアセナの瞼の裏に浮かんできた。きっと、実際にそう見えているに違いない。
それは流星だった。
アセナは流れ星なら見たことがある。
空気がおいしい夏の夜は、森で1番高い木に登って星を眺めた。すると間もなく、星は思い出したように流れるのだった。
手を伸ばせば摘めるような気がして、当時の幼いアセナは何度か木から落ちかけた。その度にウプウアウトにきつく注意を受けた。懐かしい思い出だ。
今のお父さんは、そんな、青空を流れる青い流星だ。
瞳の光が尾を引いて、光芒となって美しさを撒き散らしながら進んでいく。聖なる光だった。
『着いたぞ』
『ここは?』
『日本の最果てのような場所だ。この島国では最も静かな海が広がっている』
アセナは登ったときと同じルートで、ウプウアウトの躯から降りる。
白い裸足を砂浜に下ろすと、足裏を優しく刺激するその不思議な感触に、アセナは思わず感嘆の息を漏らした。
『うわっ、柔らかい!』
『森にはない類の砂だ。珍しいだろう』
『うんっ! すごいすごい!』
アセナは時間を忘れてしばらくのあいだ砂浜を駆け回った。
普通なら砂に取られてすぐに疲労してしまうはずだが、アセナは森育ちだ。身体能力は常人のそれではない。いつまでも100パーセントで砂浜を走ることができた。
意味もなく砂を蹴飛ばし、意味もなく貝殻の匂いを嗅ぐ。
目に映るすべてに無限の興味がある。
自分のなかを圧倒的な好奇心が支配しているのがわかる。
『ここが海』
アセナは声を弾ませた。
『どうだ。初めての海は』
『うん。想像してたのと大体いっしょ』
本当に、わりと寸分の狂いもなく。
アセナが狼王の森にいる時点で思い描いていた「海」と、目の前に広がる現実を見比べても、目立った間違いは見つからなかった。
──けれど。
『でもね、やっぱり全然違う』
『ほう?』
そんなの、当然だ。
当たり前に決まっている。わたしのこれは、どこまでいっても想像する力でしかない。
アセナは海に向かってゆっくりとした歩調で近づいた。
ざぶざぶと膝が浸かるくらいまで海に入ると、手のひらでひと掬い、海水を持ち上げる。
『たとえば匂い。これはここに来なきゃわからなかった』
そう言いながら、アセナは掬った水を鼻の前に掲げた。
『湖のとは違うね。もっと濃い。生き物の香りがする。血とか、涙とか、そんな匂いもあるよ』
『やはりいい鼻だ』
『へへん! これでも狼王の娘だもん!』
それにね。
アセナは言い足りないことが山ほどあるというように、改めて声に張りを持たせて続ける。
『それにね、味も。あんまり知らない味だけど······そうだなぁ、クマとかイノシシの肉と合いそうな味だね』
『塩という』
『シオ』
『そう。塩だ。悪くない味だろう』
『なかなかね。このシオも、森にいたんじゃ想像もできなかったんだよ』
『ああ』
次第に口数が少なくなるウプウアウトを見て、アセナはぷっと吹き出した。お父さん、変なの。
ウプウアウトもそれには自覚的だった。つまりは自分が徐々に喋らなくなっていることに。なんだか、これから起こることを予想してしまって、上手く口が回らない。
『あの森は楽しいよ。とても楽しい。このままずっと狼王の森にいても、たぶんわたしは幸せになれる』
ああ、私はいったいどれほど我儘なのだろう。
狼王ともあろう存在が、どれだけ。そもそも海にアセナを連れてきたのは、決心を促すためではないか。
──なのに。
『わたしだって、ついさっきまで狼王の森を離れるなんて絶対嫌だった。なんでお父さんはそんなひどいことを言うんだろうって、そう思ったの』
狼王ウプウアウトは霊獣であり、神獣だ。
彼には様々な権能が備わっているが、そのうちの1つとして、ウプウアウトは少し先の未来を見通せた。
アセナはこのあと、「でもね」と続ける。
『でもね』
ウプウアウトの視る未来は確定していた。
『海に来て、わたしの見たことない世界に触れてみて、わたしちょっと変わった。知らないものを知ることが、もしかしたら森にいるより楽しいかもしれない』
ウプウアウトは頷く。
口数は人類の増加とは正反対なくらいの速度で減り続け、とうとうなにも喋らなくなった。
端的に言って、ウプウアウトは娘から別れを告げられるのが辛かったのだ。
『お父さん』
アセナの瞳の色が変わる。
ウプウアウトはそれを見て取った。
潮風になびく美しい栗色の髪は時折、彼女の口のなかにいたずらに入る。アセナは、口に入った髪の毛をじれったそうに指先で
押さえつけた。
その仕草がどこまでも人間的で。
その仕草がどこまでも非オオカミ的で。
「オマエ、ヲ、ココロカラ、タイセツニ、オモウ」
その日本語は、ウプウアウトがつい10分前に言ったものだった。愛を叫ぶ、ヒトの言葉。
見よう見まねで、いや、聞きよう聞きまねでアセナが口にしたヒトの言葉。天から授かった感性が、それを奇跡的に可能にする。
アセナは先ほどの父を真似て発した自分の言葉に、愛を伝える意味があることを心のどこかで知っていた。
『えへへ、こんなんだったよね。お父さんがさっき言ってたの』
『お前······』
『なんて言ってるかはよくわからなかったけど、優しい言葉だってことはわかってたよ』
オオカミ語に、愛を伝える言葉はない。
オオカミ語は狩りのための実務的な言葉ばかりだ。オオカミ語を扱いながら生物としては人間であるアセナだけができる芸当だった。
『わたしは、人間の世界に行く』
強い風が、海の方角からなにかを巻き上げていった。