2. この子は海を知らない
『じゃあわたしは、この森を離れるの?』
アセナは途端に弱々しくなった。
もちろん、狼王によって育てられた人間だ。並の人間とは比較にさえ値しないような強さを持っている彼女だったが、それでもウプウアウトの前では、アセナは一介の娘に過ぎなかった。
『そうだ。これからは人間として、当たり前のように暮らしていくのがお前の使命だ』
『どうして』
『お前が人間だからだ。こればっかりはどうしようもない。お前は人間で、私は狼王だ。狼王には狼王の、人間には人間の生き方がある』
どうしてウプウアウトは、こんなにひどいことを言うのだろう?
アセナはそんなことを考えずにはいられなかった。わたしはなにか、決定的な失態を犯しただろうか。父を怒らせるようなことを無意識のうちにしてしまったのではないか。
そうでなければ、ウプウアウトがわたしを見捨てるはずがない。
アセナは慌てたように訊き返した。
なにか行動をおこさなければ、手遅れになるような気がする。そんな予感がある。
『ねぇ、お父さん。わたしなにか悪いことした?』
ウプウアウトはなにも喋らない。
大きな瞳と長いまつ毛はじっとそこに停滞していた。
『もしなにかしたなら、謝るよ。この前、北の大樹の足元に成ってたキイチゴを勝手に全部その場で食べちゃったの。ねぇ、お父さんはそれで怒ってるんだよね? だとしたらごめんなさい。喉が渇いていただけなの。もうしないから』
アセナは自分から己の罪を暴露していることにすら気づかなかった。
それよりも今の彼女にとって重要なのは、どうしたらウプウアウトの言葉を撤回させるかだ。これからもこの森で動物たちと暮らせるかどうかがすべてだった。
まくし立てるように叫ぶアセナだが、それでもウプウアウトは口を開かなかった。
その白銀の体毛はどこからか流れてくる自然の微風に撫でられて、気持ちよさそうに揺れている。
『······わたしがいらなくなったの?』
『そうではない』
ようやく、狼王は言葉を返した。
『アセナがなにか悪いことをしたのではない』
『え?』
『悪いのは私だ。このウプウアウトだ。私の通した我儘が、お前を16年間も霊験な地域に閉じ込めてしまった』
アセナは自分の膝を見つめる。
視界の端に、もうすっかり湯気の上がらない冷めたウサギ肉が映る。ついさっきまであんなに美味しそうだったウサギのステーキは、今ではまったく食欲をそそらなかった。
ウプウアウトは寝そべるような体勢から前腕だけを持ち上げ、アセナを握り潰さないようにそっと、その大きすぎる手のひらを彼女の身体に寄り添わせた。
細心の注意を払わなくては、人間の肉体を持つアセナを裂き殺しかねない。
『本当は、もっとずっと早い段階で人の世界に戻すべきだったのだ。それをこんなに限界まで留めたのは私の意思であり、我儘にほかならない』
アセナは頬と耳たぶに当たる狼王の爪に触れた。
強靭な爪だ。ナイフというよりかは、どちらかと言うと砲弾のような爪だった。もっとも、今のアセナはナイフも砲弾も知識として知らないけれど。
爪は固く、そして鋭い。
オオカミにとってそれは便利な道具であると同時に強力な武器だった。迂闊に触れれば深い傷になることだろう。
それでもアセナはウプウアウトに触れ続けた。
父の温もりを、少しでも自らの頬と、頬を伝った全身に貯蓄しておきたかったからだ。この先の展開を、アセナはほとんど察していた。
『たしかに、私とアセナのあいだにあらゆる繋がりは存在しない』
『うん。そうだね』
『種族も、血も、性別も、立場も。それはあらゆる面で、だ』
『うん』
ここでウプウアウトは少し息を吐く。
アセナの頬には、まだ太い爪と分厚い肉球を押し付けていた。そこからまだ若々しい少女のほとばしる熱量を感じ取る。
『だがいつしか、それ以上の繋がりを、私はお前に見出していた。本当の娘のように考えていた』
と、狼王は口にした。
オオカミ語に、愛を伝える言葉は存在しない。だから狼王は別の言葉を用意する。
たとえば文章におこすとしたら、なんの変哲もないありふれたカギ括弧で囲われるような。
つまりは人間たちが使う言葉だった。
「──アセナ」
『えっ? なに。お父さん、なんて言ったの?』
叡智の獣であるウプウアウトは、あらゆる言葉を扱える。
オオカミ語も、鳥語も、ネコ語も、魚語も。そしてそのなかでも、ことさら「愛」を伝えるのに最も効果的な言語は、人語だった。
ウプウアウトは流暢な人語で、アセナに愛のようななにかを伝えることに決めた。
アセナは今のところ、オオカミ語しか話すことができない。近いうちに人語をイチから教える必要がある。
「お前を心から大切に思う」
『え、ちょっとお父さん!? 本当になに? なにを言ってるの!?』
「だからこそ、私はお前から距離を置かなくてはいけないのだ。アセナを愛する気持ちがあるからこそ。そしてその想いはマリアナの海溝よりも深い」
『なに、本当······』
人語の、それも日本語でそんな長文を話したところで、絶対にアセナには伝わらないだろう。ましてやマリアナ海溝のことなど、アセナに言ってわかるわけがない。
──そうだ。
この子は、そもそも海を知らないんだ。
ウプウアウトは、いよいよ決心をする踏ん切りがついた。自分はアセナにすべてを与えた気になっているだけだった。
アセナは海を知らない。
海を知らないということは、この世界の大半を知らないことと同じだ。狼の王を名乗っておきながら、私はアセナにごくわずかな部分しか教えられていなかった。
『アセナ、海を見に行こう』
ウプウアウトはアセナにもわかるように、言葉のチャンネルをオオカミ語に切り替える。
『······ウミ?』