わたしと先輩
書籍化記念、書き下ろしSSであります。
聞こえるのは、試験管の中で泡立つ薬液の音。
時々、試験管を叩く音。
うっすらと目を開けると、いつも難しい顔をした人間達がこちらを覗き込んでいる。
頭がぼうっとしている。
彼女は、現実を認識できるほどの理解力を持たない。
彼女は、人によって作られた生命体。
彼女は、実験のために生み出されたホムンクルス。
だから人と同じような理解力も、認識力もいらない。
人の手のひらに収まるほどの試験管の中、名も無い彼女はまどろんでいる。
与えられた力は、魔力に対する高い適正。
引き換えに、命を保てる時間は驚くほど短い。
持って、一年。
彼女にしてみれば、あと数日のこと。
頭がぼうっとしている。
今までよりも、ぼうっとする時間が増えた気がする。
だけど、彼女はそれがどういう意味なのかを理解できない。
理解したとしても、嘆くような感情はない。
ホムンクルスに、喜怒哀楽の感情はないから。
ふと、試験管が陰った。
彼女は顔を上げる。
そこには、他の人間達とは違った目の色をした者が立っている。
「憐れむというわけではないが」
声が聞こえた。
いつもであれば、彼女を見る人間達は、彼女に話しかけると言うことをしない。
彼女は物扱いであり、主体性を認められていないからだ。
だが、その者は、物であるはずの彼女に話しかけていた。
「君達を見る度に思う。我々が生み出した業だ。人が己の手で、生命を生み出し、しかしそれを研究のためだけに消費する。それは生命のあり方ではない」
彼女は、感情の籠もらない瞳で、己に話しかける者を見つめる。
何の感慨も浮かんでこない。
最初から、そのように思考するよう、作られていないのだ。
「私がこれから行うこともまた、かの研究者達と変わらぬ所業かもしれない。神による罰があると言う者もいる。私がそれを恐れている訳でもない。ふむ」
混乱しているのか。
彼の物言いが揺らいでいる。
そこから、しばらくの間、彼は無言だった。
彼女はじっと、彼を見る。
あれはどういう表情なのだろう。
彼女は、ぼんやりとした自我の中、彼を見て思った。
「私は、神の領域に手を差し入れる事となるだろう。手乗り図書館よ。彼女を救う知識を展開せよ」
その時だ。
彼の手が輝きだした。
そこに生まれたのは、白く光る小さな建物。
彼女が生まれて初めて見る、建物の姿だった。
「これは……。魂の召喚ということか。魂は、どこか別の世界から呼び出されてこちらにやって来るというのか。その方法は……」
彼は、彼女に聞き取れない言葉で、呪文らしきものを詠唱した。
すると、白い建物は、一際強く輝きを放つ。
次の瞬間、試験管のガラスを飛び越えて、彼女の中に何かが飛び込んできた。
今まで、何の情動も覚えなかった彼女に、初めて生じる感覚が表れる。
「あ……う……う……」
彼女は試験管の中で、自らの意思で手を伸ばした。
ガラスの壁面に、小さな指先が触れる。
すると、今まで彼女の全世界であった、この試験管に亀裂が入った。
あてがわれた彼女の指が、手が、腕が、大きくなっていく。
体中が試験管を割りながら、大きくなる。
今まで空っぽだった感情が満たされる。
溢れてくる、光、空気、音。
広がる五感。
彼女は……彼女は、わたし。わたしだ。
目の前で、目を丸くしてる彼を見上げていた。
「これは……驚いたな。試験管に収まるほどのサイズのホムンクルスが、あっという間に人間の大きさになってしまった」
彼の表情は、多分、驚き? それに満ちている。
だけど、すぐに唇の端が上がった。
嬉しい? 笑っている?
「君は今、魂が宿った。君は既に、人と何も変わらない。ようこそ、こちらの世界へ」
彼の手が差し出された。
わたしが見たことがある、人間の手の色はもっと白かった。
彼の色は褐色で、わたしを見つめる目は金色に光っている。
変な人だ。
「だれ?」
「話すことができるのかね? いや、自己と他者を分けて認識できるだけの力が既にあるということか。これは凄い」
彼は、また手のひらに建物を呼び出して、何事かそこに囁きかけている。
わたしの胸の中が、もやもやした。
「だれ?」
もう一度繰り返す。
すると、彼は慌てて顔を上げた。
「おっと、失礼した。ついつい、記録に夢中になってしまったよ。私はジーン。この塔に勤める賢者の一人だ」
「じーん」
「そう、ジーンだ。君の名は……」
ジーンと名乗った彼は、何かを考える素振りになった。
そして、足元の割れた試験管に視線を落とす。
「実験体70号。そうだ、かつて失われた文化に、数字を特定の言葉に当てはめ、名前とするものがあったのだった。それに対応する表が記録してあったはず……。遥か遠い世界から来たという、黒い髪の王が伝えた言葉で……」
手のひらの上の、白い建物を、ぽんぽんと叩く彼。
そこから、ふわりと一枚の紙が浮かび上がってきた。
紙は、光でできているみたいだ。
わたしが手を伸ばしたけれど、触れない。
「ああ、これこれ。不思議だろう? これは術式によって、紙を擬似的に作り出していて……いや、今はそんな話をしているんじゃなかったな。君は、実験体70号。読みは、ナオ。君の名前はナオだ。どうだね?」
「なお」
「そうだ。お気に召してくれたかな」
「わからない」
だけど、胸の中に、もやもやした気持ちはない。
多分、わたしはこの名前が気に入ったらしい。
そんなところで、わたしはちょっと寒くなってきた。
考えてみたら、わたしは裸だ。
鼻の奥がムズムズしてきた。
そして、何かがこみ上げてきて、
「くしゅん!」
「これはいけない。風邪を引いては大変だ」
彼は上着を脱ぐと、わたしの肩に掛けた。
少しだけ、暖かくなる。
「じーん」
「ああ、気にしないでくれたまえ。この世界に生まれ落ちたばかりに君に、少しばかり長く生きている先輩として、当然の事をしたまでだ」
「せん、ぱい」
なんとなく、その言葉はわたしの中にしっくりと来たのだった。
わたしは、魂を得たのだ、という事になった。
ここは賢者の塔と呼ばれる場所で、わたしはそこで生まれたホムンクルス。
だけど、魂を得たことでホムンクルスの枠を越え、わたしは人間の様になった。
そんな私を、賢者達は持て余しているようだった。
ここは、賢者たちが一同に集う会議場。
そこで私は、賢者たちの前の椅子に掛けさせられていた。
一人の賢者が発言する。
「実験体70号だったか、彼女を──」
「ナオと名付けた」
被せるように言ったのは、先輩と名乗った彼、ジーン。
賢者は困ったような顔をして先輩を見た後、言い直した。
「ナオの今後の処遇だが、賢者の塔にて賢者見習いとして学ばせてはどうかと思う」
この提案に、周囲の賢者が反応する。
「ホムンクルスに学ばせるだと? 前代未聞だ!」
「だが待て。ホムンクルスがこのサイズまで成長したことはない」
「我らの学問は人間のためのものだぞ。ホムンクルスが学んでどうする」
「そうだそうだ! 大きくなったホムンクルスなら、新しい実験をすればいい。未知のデータが取れるぞ」
賢者達の話が、良からぬ方向に転がっていく。
だが、そこで立ち上がったのは、あの先輩だった。
「待ちたまえ諸君!」
凄い声。
ざわざわしていた会議場が、彼の声一つで静まり返る。
「学問とは、未知を探求し、既知とし、人々の役に立てるためにある。これは理解しているかね?」
ジーンの大声で、びっくりして停止していた賢者達。
彼らは我に返ったようで、こくこく頷く。
「そして、知識を得る喜びは、万人に開かれているべきだという賢者の塔の方針。これも変わってはいないだろう」
先輩は会議場を、わたしに向かって突き進んでくる。
そして隣に立つと、賢者達へ振り返った。
「私は、提案する。彼女を我ら賢者の仲間として迎え、学ばせてはどうかな?」
「いやしかし、それはホムンクルスだ!」
賢者の一人が立ち上がり、叫んだ。そうだそうだと唱和する声が聞こえる。
「それ、ではない。彼女だ。そして、ホムンクルスが学んではならないという決まりは、賢者の塔には無い。人間であっても、亜人種であっても、魔族との混血である私であっても、平等に学べるのが賢者の塔ではなかったのか?」
「ぐう」
何も言えなくなり、賢者の一人は座り込んだ。
「あ……」
わたしが見上げると、彼は優しい眼差しを送ってきた。
「ナオ。君は何を学びたい?」
学ぶも何も、何をどうしたらいいんだろう。
わたしは少しだけ考えた。
そして思い出したのは、先輩が手のひらの中に生み出していた、白い建物。
手乗り図書館のことだ。
「わたしは、建築を学びたいです」
「いいだろう」
先輩は頷いた。
「お、おいジーン、勝手に!」
会議場から声が上がる。
すると、先輩は会議場の中心へと歩き出した。
そこには、黒塗りの平たくて大きな石板がある。
先輩はチョークを取ると、ここに何かを書き始めた。
『ナオを賢者として認めるか否か』
そう書いたのだ。
彼は会場へ振り返ると、賢者達に問う。
「私は、彼女に学びの機会を与えるべきだと思う。ここで決を取りたい。議長、いいかね?」
先輩の言葉に、会議場の端にいた老人が、焦った様子で何度も頷いた。
「では、賛成のものはご起立願いたい!」
そう言って、先輩は腕組みをして直立した。
彼が見回す会議場。
居並ぶ、難しい顔をした賢者達。
一瞬だけ、誰も動かなかった。
そして少しあって……。
「学びは万人に与えられるべきだ」
一人が立ち上がる。
「風変わりな出自の賢者なんて、珍しくもない」
一人が立ち上がる。
「女性賢者は貴重」
一人が立ち上がる。
「ジーンが言っているのは気に入らんが、これは感情ではなく合理だ。俺は賛成する」
一人が立ち上がる。
「ホムンクルスが錬金術を学んだら、どうなるのかのう? 楽しみじゃ」
一人が立ち上がる。
「俺の建築学は、いつでも新たなる学徒を迎えよう」
怖い顔をしたしかめ面の賢者が告げて立ち上がると、彼の周りの賢者も一斉に立ち上がった。
あっという間に、会議場は起立した賢者で溢れていく。
反対していた賢者達は、目を見開いて周りを見た。
そして、慌てて立ち上がる。
先輩が、凄い笑みを浮かべた。
「満場一致で、ナオを賢者とする」
気がつくと、会議場の全員が立ち上がっていた。
先輩は私に歩み寄ると、手を差し出す。
「ようこそ、賢者の塔へ。賢者……いや、今は賢者見習いナオ、かな」
「はい!」
わたしの胸に、何か熱いものが宿っている。
これはなんだろう?
気持ち悪いものじゃない。
わたしは胸の中のものに押されるように、先輩の手を取っていた。
「よろしくお願いしますね、先輩!」
こうして、わたしは賢者になった。




