145話 稚魚の観察日誌
一晩でナオがすっかり日焼けしていたので、我々を迎えた漁師たちは驚いたようだ。
「奥方様、まさか一晩で……」
「赤くなったりしなかったので?」
「えへへ」
ナオが照れ笑いする。
説明になっていないので、私が簡単に理由を話しておいた。
「彼女は特異体質で、環境に合わせて変わるのだよ」
「へえー。セントロー王国にはそういう方がいるんですねえ」
感心する漁師たち。
納得してしまった。
マーメイドや翼人がいる世界である。
環境に合わせて肌の色が変化する人がいてもおかしくはない。
ちなみに私は、人間は人間、人間を含む全ての人種を指す場合は人、と言い分けている。
これは世界的にも一般的な呼び方である。
亜人が多いゆえ、人を人間のみに限定していては、他の人種を総括する呼び方が無いのだ。
「でも、準男爵とお揃いですなー」
「いいなあ。俺とうちのかかあも、若い頃はこんな感じだったわ」
「おめえのところは未だにラブラブじゃねえか」
「うっへっへ」
などという微笑ましいやり取りを行い、今日の作業に移るのだった。
本日の仕事。
それは、昨日獲ったシーバードの卵を使い、これを孵化させていくことである。
シーバードはシサイド王国沖で産卵するらしく、どのようにして孵化するかというシステムは漁師たちも理解していた。
雌から取り出した卵を、海水の入った大きな瓶に入れ、そこに雄から絞り出した生殖液を注ぐ。
海中であれば、海流によって流されてしまうため、雄はこの作業をごく至近距離で行う。
だが、瓶の中には海流がないため、それは必要がない。
このまま観察することになる。
さて、この間に、シサイド王国の図書館を使わせてもらい、手乗り図書館により多くの知識を溜め込むことにする。
海に関しては、手乗り図書館が時折吐き出す、未知の知識に頼りっぱなしの状況なのだ。
「手乗り図書館に本を読ませるの、久しぶりですねー!」
「うむ、全くだよ。実学で常にアップデートはしているが、集積され、編集された知識を一気に収録できるのは書物を読む他にありえないからね」
「じゃあ、本を手分けして探しましょう! わたしこっちです!」
「よし、私はこっちだ」
ということで。
その日は一日中、シサイド王国図書館で過ごすことになったのだった。
燦々と降り注ぐ日差しの下、本が劣化せぬように設けられた日除けを使い、テラスで読書する。
傍らには、本の山。
私は比較的速読なのだが、それでもこれだけの山を読み切るのは一日作業だ。
隣ではナオも、私に負けず劣らずの速度で読んでいる。
食事も忘れて読みふけっていたら、日が暮れてしまった。
「暗くて読めなくなってしまった。帰ろうか」
「はい! 充実したいちにちでした!」
「ああ……。素晴らしい一日だった」
私たちは満足して帰途につく。
日々、我々に向けて、晩餐会へのお誘いがある。
だが、我々はこの地に遊びに来たのではない。
養殖という産業を立ち上げるためにやって来たのであり、ついでに新婚旅行を楽しみに来たのだ。
外交はその次である。
ちなみに、一日読書するのは事業と新婚旅行を同時にこなす行為なので、実に効率がいい。しかも私とナオの趣味にピッタリと合っているので楽しい。
最高ではないか。
その夜も、明かりをつけたまま夜更けまで読書に励む我々だった。
図書館は本来、貸出禁止である。
書籍は一冊一冊がオリジナルか、数少ない写本なのだ。
そんな貴重なものを持ち出されて、汚損されては堪らない。
例外的に、私とナオは国賓なので許されている。
素晴らしい。
簡単なサンドイッチなどで食事を済まし、ひたすらに読書する。
時折出現する手乗り図書館は、私に知識が増える度にピカピカと光り、満足げに見えた。
翌朝。
書物の中の世界で等身大の文字を追いかける夢を見て、私は目覚めた。
「ふぁー、おはようございまふ。変な夢見ちゃいました」
ナオも同じらしい。
そして、昨日ずっとほったらかしにされたディーンがご立腹である。
『ピャピャピャアー!』
『昨日は我がとても苦労したので、今日はディーンの世話をちゃんとやるのだ』
珍しくマルコシアスが苦言をしてくる。
「子守を君に任せてしまったな。いや、ありがとう。そしてすまないな。よし、今日は読書せず、本で読んだ知識を現場で確認するとしよう。来たまえ、ディーン」
『ピャー!』
近頃ではすっかり、私も親代わりとして認めているらしいディーンである。
手を差し出すと、私に腕の中に飛び込んできた。
まだまだ、彼はぷにぷにもちもちしている。
いつ頃にドラゴンらしくなるのか。
読み終わった書籍に関しては、図書館から担当者がやって来て回収していく。
彼らは、私たち夫婦の読破した本の数を見て目を丸くした。
「こんなに読まれたんですか! 読み返さないので?」
「ああ。記録したからね。写本というわけではないが、私の頭とこの術式の中に情報は全て入っている」
「なるほど、それが噂の……。本来は、これはシサイドの重要な知識です。持ち出し厳禁ですが、国王陛下のお許しがあるから特別に記録を許可しているのですからね」
「ああ、分かっているとも。知識とは我欲のために使うものではない。人を幸せにするためにあるのだよ。必ずや、この知識でシサイドに幸福をもたらすと誓おう」
「ならば良かった。お人柄も噂通りです」
図書館の担当者はそう言って破顔した。
彼らは台車に本を載せ、覆いをしてから帰っていく。
書物の扱いも分かっている。
潮風が吹くこの国で、本をむき出しにしたらたちまち傷んでしまうだろうからな。
……とすると、我々のコテージで読書したのは本当は良くないのでは?
「ナオ。今後は図書館で読むことにしよう」
「はい! なんとなく先輩が『しまったー』って思ってるの、わかっちゃいました」
「うむ……。賢者たるもの、書籍への気遣いが足りなかった。猛省しよう」
『ピャッピャッ』
ディーンが私の腕をぺちぺち叩く。
そんな事はいいから、進め進めと言っているようである。
確かに、立ち止まっている場合ではない。
得た知識を試さねばならないのだ。
「その通りだな、ディーン」
「? 今、ディーンが何か言ったんですか? 凄いです先輩! もうディーンの言葉が分かるようになったんですね!」
「分からないが、こうして言葉にならないものを恣意的に解釈するのも、また良いものかも知れないね」
「先輩らしからぬお言葉!」
「私も時には、非論理的になるのだよ」
「うふふ、たまにはいいと思います!」
ということで、作業場に向かうのだった。
昨日の卵は、何やら白い粒の塊だった。
それが今日はややほぐれ、模様が浮き出して見える。
「これは……」
「孵化するところなんですよ」
漁師が教えてくれた。
こういうことは、調べるよりも現場の人間に聞いたほうが早いな。
「ただまあ、瓶の中で孵化させるとですね、赤ん坊のうちに魚は死んじまう事が多くて」
「ふむ。孵化までは知っていても、養殖を行っていなかった理由の一つがそれかも知れないな」
早速、私は昨日得た知識を展開した。
手乗り図書館の中から、書物の記載が飛び出してきて空中に投影される。
「うわあっ、なんですかそりゃあ!」
「手乗り図書館の効果さ。ふむふむ……。魚は我々と同様に呼吸している、とある。つまり、水を呼吸して生きているわけだ。これが瓶の中で止まった水であるならば、我々が密閉された部屋にいるようなものだろうね」
これを聞いて、ナオがむつかしい顔をした。
「それって、息がつまっちゃいそうですねえ」
「そう、まさにそれだ! 魚は息が詰まって死んでいるのかもしれない。君、他の魚が入れないほど目の細かい網はあるかね? それから、網の底に敷く板を!卵を並べて、海に浸けた網の中で孵化させるとしよう! これから忙しくなるぞ!」
さて、いよいよ作業本番なのだ。




