133話 シサイド王国へ向かって 4
いよいよ、船が出る時がやって来た。
アルブレヒトやオーベルト、辺境伯領の人々にしばしの別れを告げ、私とナオはシサイド王国に向けて旅立つのである。
「けっこう寄り道した気がしますね!」
「船に乗る前に二泊したからね」
そのような会話をしつつ、見送りの人々が見えなくなるまで、船べりで手を振る作業に勤しんだ。
さて、そろそろ頃合いか。
「ビブリオス準男爵、何をしておいでで?」
私とナオの歓待役につけられた、オーラスという男が尋ねた。
彼はシサイド人らしい、褐色の肌をした大男である。
王国の軍人らしく、ノースリーブのジャケットを身に着け、前は豪快に開けて鍛え抜かれた胸板から腹筋がよく見える。
岸が遠くなった途端、リュックを下ろしてごそごそやり始めた私たち夫婦を、不思議に思ったようだ。
「うむ、良い質問だね」
私はポケットから、紐のついた瓶を取り出す。
そしてリュックからは、様々な研究機器の数々。
「シサイド王国までは数日かかるのだろう? ならば、自分の好きなことをして時間つぶしをするのが良いと思ってね。それに、せっかく船の上で過ごせるんだ。こうして海の生物の研究をしない手はない」
紐のついた瓶を、海に投げ込んだ。
瓶が泡を吐き出しながら沈んでいく。
よし、ここで回収だ。
中身の海水がこぼれないように、そっと上がってくる瓶。
「ただの海水じゃないですか。なんなんです、そりゃあ?」
オーラスが呆れている。
「海水の中には、目に見えないほどの微生物がいるものなのさ。古代ではその存在が認知されていたが、いつしかその知識の大半は失われてしまった」
「目に見えない生き物が!? その瓶の中にいるんですかい?」
オーラス、実にいぶかしげだ。
ならば、その目で確かめてもらうとしよう。
シャーレに海水を移し、そこからスポイトで吸い上げる。
用意したのは、ガラスの板。
この上に海水を一滴たらし、薄いガラス板で挟み込む……。
うーむ、二枚重ねても向こうが透けて見えるほどの素晴らしい透明度。
ダークドワーフの仕事ぶりは本当に素晴らしい。
王都に献上されるガラスだって、これほどの透明度はあるまい。
さあ、この上にレンズをかざし、じっくりと観察するのだ。
「いるいる」
「いるって、何がですかね?」
「君も見てみたまえ」
「はあ……。どう見たってただの海水……ヒャアーっ」
オーラスが悲鳴を上げた。
むきむきの大男が、絹を裂くような悲鳴を上げたので、水夫たちが慌てて寄ってきた。
「どうしたんですかい、オーラス将軍!」
「何か一大事でも!?」
「客人は無事ですかい!」
「い、いや、気にするな。俺が思わず悲鳴を上げただけで何も起きてない」
悲鳴を聞かれて、ちょっと照れているオーラスは、水夫たちを追い返した。
将軍だったのか。
「じゅ、準男爵! なんですかこりゃあ! ちっこい透き通った虫みたいな連中が、こんな小さなガラスの板の上にうようよいやがる!! ま、まさかモンスター!?」
「これが海の微生物というものさ。土の中にだって、我々の目には見えないだけで同じように微生物はわんさかいるのだよ」
「なんと……。俺ぁ、水と土が怖くなりそうだ……」
「今まで触れていて無事だったのだから害はないさ。小魚はこういう小さな生き物を食べ、その小魚を大きな魚が食べ……それを我々、人が食べるというわけだ」
「なるほどねえ……。小魚ってのはそんなもんを食ってたんですねえ。てっきり海藻を食ってるのかと思ってましたわ」
「海藻を食べる種もあるだろうがね。ちなみに、このふよふよ浮かんで動きが鈍いものは、私が見る限りごくごく小さい海藻みたいなものだな」
「な、なんと!! じゃあ、小魚が海藻食ってるってのも、間違いじゃないんですな」
「そうなるね。いや、実に面白い。永遠に見ていられるな」
私はニコニコしながら、海水の観察に戻った。
セントロー王国付近の海をぐるりと回りながら航海するから、場所による微生物の生息の違いを研究できるのだ。
なんと贅沢な時間だろう。
書類仕事は陸に置いてきた。
奴は追ってこれない。
その事は忘れ、私は研究に勤しむのだ……!
「あーっ、奥方様危ないですぜ! 危ないですぜーっ!」
「でもでも、マストをのぼらないと全景がみわたせないですし、のぼって初めてわかることもあるのでー!」
向こうで、水夫とナオが言い合っているのが聞こえてきた。
ナオはこの船を、文字通り隅々まで見て回りたいのだろう。
「準男爵、奥方のことはいいんですかね?」
「彼女は建築の賢者だ。海外で作られた船を余すところなく調べたいのさ。迷惑で無い限りは好きにさせてやってほしい」
「そうですか。ですが、俺の目が黒いうちは大丈夫でしょうが、男所帯の船の上、奥方は目に毒でしてねえ……。いつ連中が間違いを起こさないとも」
「なるほど。マルコシアス、頼んでいいかね?」
『その質問に答えよう。いいとも』
いつの間にかすぐ横まで来ていたマルコシアスが、機嫌良さそうに応じた。
彼の背中には、ディーンが乗っている。
『子竜よ、掴まっているがいい』
『ピャピャ』
ディーンは言われたことがよく分かっていないようで、マルコシアスの背中をぺちぺち叩いてバンザイした。
魔狼は、行動で分からせることにしたらしい。
ディーンを載せて、トコトコと歩いていく。
『ピャー』
落っこちそうになったディーンが、マルコシアスにしがみついた。
そう広くない甲板の上。
魔狼はあっという間にナオのところにやって来る。
『ジーンの妻たるホムンクルスよ。我の背中に乗るがいい』
「あっ、マルコシアス! 今日はたくさん喋ってますねえ。やっぱり、船の上ってテンションあがりますよね! やるぞー、って!」
『いいから』
マルコシアスに促され、ナオは彼の背中にちょこんと乗った。
母親代わりの巫女が乗ってきたので、ディーンは歓声を上げてナオのお腹に抱きつく。
そんな小竜を、ぷにぷにと突くナオである。
ちなみにこの光景を、オーラスと水夫たちは恐怖すら感じさせる顔で見つめている。
「何を怖がっているのかね?」
「いや、準男爵!! あれ、怖がらないほうがおかしいですって! ただでさえでかい狼だなって思ってましたけど、なんであれ、喋るんですか!?」
「彼は狼に見えるが、実は悪魔なのだよ。質問に答える能力を持っている」
「ヒャアアー」
オーラスが甲高い悲鳴を上げた。
ポケットから、渦の形をしたペンダントトップを取り出して、ぶつぶつ呟きながら祈り始める。
そうか、悪魔は怖いものだったか。
ちなみに、オーラスが祈っているのは、水の神オケアノスに対してである。
船乗りたちの間では、水神オケアノスが広く信仰されている。
「なに、そう恐れることはない。彼は理知的な悪魔だよ。こちらから手出しをしない限りは、強烈な反撃を行ってこない。ちなみに彼に攻撃をしたワイルドエルフの集落は、大変な打撃を被ったらしい。怒れるマルコシアスの力は、一国の軍隊に匹敵するだろうね」
「勘弁してくださいよ準男爵……!!」
「ということで、かの魔狼がいるから、ナオは大丈夫なのさ」
「な、なるほど……」
マルコシアスはさらに炎を吐くのだが、これは言わないでおこう。
無駄に不安を与えるものではない。
ナオを背中に乗せたマルコシアスは、まるで平地を行くような気軽さで、マストを縦に歩いていく。
マストの上の見張り台にいた水夫が、甲高い悲鳴を上げた。
「勘弁してくださいよ準男爵………!!」
「すまない。後でみんなに説明をするとしよう」
いかんいかん。
開拓地の常識のままでやってしまっていたぞ。
船旅を快適なものとするためにも、水夫の諸君とはよく話し合わなくてはな。




