エモいって何?
「エモいって何?」
太陽が沈みかけた放課後。淡い橙色の秋空を眺めながら机に伏せる。遠くに聞こえる運動部の掛け声と吹奏楽部の演奏が少しうるさく思える程静かな教室で、私は言葉を投げた。
「……何?飽きた?」
私が話しかけた相手、黒縁の眼鏡をかけて男性にしては長い癖っ毛が特徴の男子生徒。彼はそう言うと、ペンを握った左手を止めた。
「うん、ちょっと休憩」
「まだ一時間しか経ってない」
「…もう一時間、ね……」
そう吐き捨てて机の上の消しゴムを弄る。先端に残っていた黒い消しかすを捏ね、弾き飛ばした。
丸められた消しかすは綺麗な放物線を描き彼の頰に当たる。『あっ、やべ』と思い浮かべるのと同時に彼の口から溜息が漏れた。
「そんな事してると後悔するぞ」
「まあ、良いじゃん。ちょっとした息抜き。ほらっ、授業と授業の間にある10分休憩。アレと一緒」
「いや、あれは授業の準備とか」
「相変わらず堅いなあ」
私が彼の言葉の下からそう言う。そうすると彼はもう一度分かりやすく溜息を吐き、それから諦めたように『それで』と漏らした。
「だから、エモいって何?って」
「藪から棒に、なんで?」
「いや、何となく。最近よく聞くなあ、と思って」
その私の言葉に彼は短く答えてから、顎に右手を当てる。開いた方の左手は握られたままだったペンを回し始めた。
そのままの姿勢で暫く目を瞑り、小さく唸る。そして、『何といえば良いか』と枕詞に口を開いた。
「そもそもエモいって言うのは『エロい』とか『グロい』みたいな形を取ってるってのは分かる?」
「はぁ。まあ、何となく」
「それでエモいってのは感情とか情緒っていう意味の『emotion』それに『い』を付けて形容詞形にした形」
彼はそこまで言うと、一度私の方を見る。それから少し眉を顰めて、言葉を続けた。
「まあ、ヤバイとか卍みたいに、何となくみんな使ってるだけだよ」
「でもさ感情とか情緒ってあるじゃん?ヤバイとか卍と違って意味ありげ」
「いや、大差無いよ。古典文学における『あはれ』みたいなもん。色んな意味があって、大した意味は無い」
彼はそう言って言葉を締める。くるくる回していたペンを止め、柱の陰になった机に向き直った。
そしてチラリと私の方に急かすような視線を向けてからペンを走らせ始める。
そんな彼の開いている分厚い参考書を覗いてみると、呪文の様な昔の言葉がビッシリと並んでいる。その所々に薄桃色の線が引かれ、僅かな空白スペースにはメモ書きが詰め込まれていた。
側面を見てみれば同様に付箋がビッシリだった。
「……国語オタク」
「うるさい」
「事実じゃん」
私が揶揄う様に言うと、パチ、と小さな音がしてペンの先から折れた芯が飛んで行く。
「別に、オタクとかそう言うんじゃないし。ただ5教科の中で国語の配点が高いから勉強してるってだけだし」
「嘘つき」
そう言うと彼は一瞬目を逸らし、鼻の頭を触る。それから難しい顔を作り、『別に』とくぐもった声を漏らす。そして不貞腐れたような声音で『嘘じゃないし』と続けた。
「やっぱ嘘じゃん。そんな事だからモテないんよ」
「……別に、モテなくていい」
「強がって。好きな人とかは?」
「……いない」
そう言ってソッポを向く彼の首筋は朱に染まっている。そんなに分かりやすく他所を向かれると何だかすぐ隣にる彼が、少し遠くにいるような気がして嫌だった。
私は彼のその言葉に相槌を打ってから椅子に座りなおし、ペンを持って机に向かう。無意識に何か書き始めようとして、ペンを握った右手を止めた。
「……じゃあさ、タイプとかは?」
暫くの間を置いて私は言葉を漏らした。
「再開するんじゃないんかい」
「いいじゃん。まだ10分経ってないし」
その言葉に、彼は少し眉を顰めて答える。
「てか、コッチばっかに聴いてるけどさ、そっちはどうなの。好きな人とか、タイプとか」
「言ったこと無かったっけ」
「…忘れた」
私は『そっか』と答えてから、立ち上がり気持ち上を見る。夕陽の色とシミの色。赤と白と黒の三色になった天井が目にうつった。
「そうだなあ……。髪の毛は短くてストレートで、明るい色。あとピアスしてたりとか、なんか不良っぽい感じ」
「…何それ、どこがいいんだよ」
「うーん……さあ?どこがだろうね」
私がそう答えると、彼は眉間に皺を作り、口をへの字に紡ぐ。その頭の上には疑問符が浮かんでいるような気がした。
そんな彼を他所に私は窓の方へと歩いて行く。掃除当番のクラスメイトが閉めていった窓の鍵を開け、カラカラとスライドさせた。
外の空気は少し冷たい。
「好きな人は、ヒミツ」
「まあ、言うと思ったけど」
その言葉と同時に、外から風が吹き込んでくる。私の前髪を揺らして行ったその風は、彼の前髪も揺らしていた。
黒縁の眼鏡によって目にかからないように遮られていた前髪が乱れ、それを彼は鬱陶しそうに直す。その何気ない仕草に私は言葉を漏らした。
「髪切らないの?」
「合格決まったら」
「それ、夏から言ってるよね」
無造作に伸ばされた彼の髪の毛は前髪は勿論、サイドも長い。耳まで隠れてしまっているのは眼鏡をかけている彼にとって不便そうに思えた。
遠くでカラスの鳴く声がする。
「夏に比べてさ、陽、短くなってきたね。ほら、もう太陽が半分沈んでる」
「無駄話ばっかしてるから」
「まあ、いいじゃん」
私はそう言うと自分の席まで戻り、机の上に広げられた筆記用具達を片付けて行く。その様子を見た彼は、呆れた様子で溜息を吐いた。
「窓の鍵閉め忘れるなよ」
「うん」
机の上を一通り片付け終わり、通学に使っている鞄を背負った私は、彼の言葉通りにもう一度窓の方へと向かう。
開けた時と同じようにスライドさせようとしたところで、一際大きな風が吹き込んできた。
思わず風から背を向けると、彼の髪の毛が獅子舞の様に暴れている。
チラリと見えた彼の左耳にはピアスの穴が開いていた。




