ご隠居は猫を手懐ける
ユージィーンはご機嫌だった。
これまで、周りをぐるぐる回るように警戒されていた異国の少女が、自分のことを盾にして、ジークと向かい合ったとき、なかなか懐かなかった手負いの獣を手懐けたような、不思議な達成感に包まれていたのだ。
まぁ、比較対象として付き合いの長いほうに、よってきたんだろうけど。
それでも、自然とニヤケてしまうくらいには嬉しかったのだ。
ユージィーンの計画の前提として、少女になつかれていることは絶対条件だった。
ユージィーンの話を聞き終えたジークは、その青い瞳を曇らせた。
「…そう、上手くいくか?相手はあの皇帝だぞ?」
ジークの心配に、ユージィーンはニヤリと微笑んだ。
「そう。今も何やら怪しい召喚の儀式なんてことまでして、不老不死の妙薬を血眼で探してるって言う、あわれなお年寄りだ」
遠征のための、高速艇を配備しているかの国は、いずれ海を越えてこの国にもやってくる。
その時、かの国がこの小さな島国をどうするのか。
それはかの国のこれまでが物語っている。
つまりはそれまでに、あの大国をすくなくとも対等な交渉のテーブルに着席させる、材料が必要だった。
皇帝が絶大な権力を握るその国で、最も確実にそれができるのは、皇帝そのものに貸しを作ることに他ならない。
その材料として、ユージィーンはあの異国から来たという娘の持つ、風変わりな酒をつかうつもりでいた。
ちょっとした悪戯を提案するかのような彼に対して、ジークはそれをいさめる母親のような顔になっている。
「…本当にそうなら、あの国はとっくにつぶれているだろうな。神を仰ぐ割に隣国はなにかときな臭い国だからな。あそこをけん制しながら、こちらにも手を伸ばしてくる、その原動力は…」
ジークの指摘に、ユージィーンは目を細めた。
彼がその脳裏に描いているのは、老齢の皇帝ではないはずだ。
過去にただ一度だけ、相対した猫目の男。
そして彼の弟である将軍の勇壮な体格であろう。
「彼の子供たちだろうね。今帝国の覇権をかけて競い合っている彼らが、隣国をけん制して、不老長寿を求める皇帝のために、遠征をしている」
「つまりは、それこそ皇帝の狙い、ではないのか?」
競わせ、けん制しあうことで国に、帝に貢献させる事こそ。
それが目的であるならば、不老長寿の妙薬など相手は求めていないわけである。
それがいつまでも幻であるからこそ、それを追い求め続けられるのだから。
その言葉に、ユージィーンは笑った。
「ジークと違って、たいていの権力者は強欲だ。本物かもしれない不老長寿の薬なら試してみたいと思うのが普通だろ?」
それにもし、それが効いたら自分の権力は永遠に続く。
賭けとしては悪くないだろう。
その言葉にジークは眉をひそめた。
「その薬、本物なのか?」
友人の発言に、彼は思わず噴き出した。
「いや、ただの激甘のハーブ酒だよ。熱さましに効くのは実証済みだけどね」
「…お前が飲んだのか?」
驚くようなジークの声に、ユージィーンは自分がしゃべりすぎたことに気づく。
得体のしれない酒を、簡単に口にするなどという、まことに自分らしくない行いを、知られたくはなかった。
ましてや、荒唐無稽な話しかしない少女の言葉を信じたなんて。
どうごまかそうか逡巡したユージィーンの耳にそれは福音に聞こえた。
階段を軽快に降りてきたレインが、少し焦りながらジークに話しかけたのだ。
「ねえ、ジーク…エボニーで紅華を迎えに行けるかしら?」
いつでもどんな時でも、常に最優先される新妻のお願いに、ジークはユージィーンの追及をやめて、迷わず頷いて立ち上がる。
「彼女が出たのが今朝だったから…あの馬の脚なら追いつけるだろう」
駆け寄ってきた彼女は、旦那様の言葉にほっとしたように微笑んだ。
「よかった!私、いつも作業用の服ばかりでろくなものがなくて困ってたの!布はたくさんあるから、紅華にお願いすれば何か仕立ててもらえると思って…」
その言葉に、ジークの眉根が少し寄せられた。
あ、なんか今ちょっと不機嫌になったな。
ユージィーンはその胸の内が手に取るようにわかったものの、彼ほどの付き合いではないエレインは気づく様子もなく、いそいそと旦那の外套を用意している。
そんな彼女にジークはため息をつくと、受取った外套を羽織り、当然といった様子で彼女に口づけをすると館を後にした。
残されたユージィーンは、真っ赤になったまま固まるレインに、とりあえず椅子をすすめることにする。
まあ、この恥じらいは俺がここにいるからなんだろうけど。
飛び切り渋くなった紅茶を飲みながら、ユージィーンは横目で彼女を観察する。
便宜上、義理の娘としたこともあるこの娘は、しばらく会わないうちに美しくなっていた。
間違いなく美貌であった母には及びもしないが、内面から光り輝くような、そんな魅力を醸し出す大人の女性になっていた。
それは間違いなく、この女性が大事に愛されていることの証明であり。
その逆もまたしかりであることを、彼は友人の様子から実感としてわかっていた。
「結婚、おめでとう」
ユージィーンはいつになく、素直な気持ちで祝福することができたのはそう言うわけだったが。
「…ありがとう。次は貴方の番よね?」
という言葉には、思わずがっくりとうなだれてしまった。
オリガといい、この夫婦といい。
なぜどいつもこいつも、俺を結婚させたがるのか。
自分が幸せだからといって、そう気軽にすすめないでいただきたい。
やたらと否定するのも億劫で、オリガと同じ返答にとどめておく。
「あぁ。その時は、相手を実家に帰らせないように気を付けるさ」
この嫌味とも取れる発言に帰ってきたのは、さらなる赤面で。
どっちにしたって幸せにしかならないご様子の新婚さんに、ユージィーンはげっそりと疲れながら、当初の目的を思い出す。
「ところで彼女なんだけど…」
仕切りなおして、本題に入ったユージィーンに対して、レインの瞳も本来の聡明さを取り戻す。
その輝く紫の瞳は、力を無くした今でも不思議な光を持っていた。
相手の心を見通すような、不思議な輝き。
「で、レインはどう思う?彼女は本当に異世界から来たのかな?」
説明を終えて質問するユージィーンに、その瞳をゆっくり瞬いて、彼女は小さく嘆息した。
「はっきりとは分からないけど…東方出身というのは違うと思うわ。彼女はカメリアの花を見て、ツバキという花の名前を出していたわ。彼女の国ではそう呼ぶのだと。でも私は紅華や棗がそういうのを聞いたことがないの。あちらの国も広いから、もしかしたら彼女たちと出身が違うだけかもしれないけど」
その答えに、ユージィーンは微笑んだ。
レインはかつて、嘘を見抜く目を持っていた。
超自然的な手腕で、人を見極めていた彼女だったが、それは目の力だけではなかったように思う。
そもそも彼女はとても合理的な思考の、人間観察力に秀でている人なのだ。
あの力は、彼女の資質を助長していただけなのだろう。
だからこそ、ユージィーンの所領を一部とはいえ完全に任せられているのだが。
「詳しい話は紅華とお話してみたら分かると思うけど。ユージィーンは彼女が嘘をついていると思っているの?」
その言葉に、さしもの彼も少し言葉に詰まってしまう。
彼女とは数日過ごしただけだが、これだけの大嘘がつけるような性格には到底思えない。
なんといってもあれだけの高熱で身動きできない中、ノックにこたえようと這ってやってくる女である。
回復するなり船内を走り回って仕事をこなす姿をみても、彼女が真面目でお人よしであることは、火を見るより明らかだと思えた。
しかし、彼はその言葉への明言を避けるようにこう言った。
「俺としては、そこはどっちでもいいところなんでね」
確かに計画としては、彼女の話す言葉は嘘でも本当でもどちらでもよかった。
大事なのは、何やら神秘的ないわくありげな女が持つ、霊験あらたかな酒を「不老不死の妙薬」として帝国の長たる皇帝に信じ込ませることだけだったから。
大事なのはあの怪しげな酒であり、舞台装置としての「異国からきた」娘であった。
ユージィーンの答えに、レインは露骨に眉をひそめた。
「相変わらず、ひねくれ者ね」
「誉め言葉として受け取ろう」
誉めてないわよ!と怒りつつ、ドレスがほったらかしだからとまたレインが二階に駆け上がっていくのを、ひらひらと手を振って見送った後。
一人取り残された客間で、彼は大きく伸びをした。
数日間、海上にいた彼にとっては揺れてない地面にいるのは、まことに久しぶりで。
温かな光が差し込むその空間は、とても居心地がよくて。
彼はつい、いつしか眠りの世界に旅立っていた。
「ユージィーン!ユージィーンってば!!」
安らかな眠りを覚ましたのは、必死で自分を呼ぶレインの声だった。
「ん…何事?」
「もう!人の家で居眠りしないでよ!彼女が…」
「…逃げたの?」
彼女の焦りように、結び付いた答えに、それが正しいのかさえ確かめず、ユージィーンは飛び起きた勢いのまま、階段を上った。
そもそも逃げていたら、いまから部屋に急いでむかったところで何にもならないわけだが、そんなことにさえ考えが及ばないほど、混乱していた。
一足とびでたどり着いた、そこで彼が見たのは。
大きな寝台に横たわる彼女の姿だった。
具合でも悪いのかとのそきこんで、その真っ赤になった鼻の頭と目で、彼女が泣きつかれて寝ているのだと気づく。
「私、彼女が異世界から来たって、信じるわ」
そっと後ろからかけられた声に、ユージィーンはハッとして振り返る。
その茶色の瞳をとらえるように、エレインは紫の瞳を向けてくる。
「少なくとも、彼女がそこに帰りたがっていることは…間違いないわ」
手放しで泣いた、その時に吐き出されたあの言葉は真実に違いないから。
どうして自分なのか。
なぜ、この世界に呼ばれたのか。
どうやったら帰れるのか。
その彼女の質問に、何の答えも返せない自分をレインは情けなく、申し訳なく感じていた。
その思いを、彼女の保護者になるはずの、この男にもわかってほしくて連れてきた。
「それがすごく…遠くて彼女の意思では帰れない、そんなところなのも」
それでも、ユージィーンの茶色の瞳には何の感情も浮かんでいなかった。
そこにはただ、自分の不安な瞳がうつっているだけで。
「そうか…わかった。後は引き受けるよ」
そんな形ばかりの優しい言葉に、彼女はその紫色の瞳にわずかばかりの非難の色を浮かべたものの、なにも言わずその場を離れていった。
ユージィーンはその小柄な寝姿を見下ろした。
高熱でうなされていた時に比べたら、彼女の様子は落ち着いていると言えた。
しかし時折しゃくりあげるように揺れる体が。
泣きはらした瞼が。
彼女をより一層、幼くか弱く見せていた。
思わず、手を伸ばしたくなるくらいに。
さらりとした黒い髪が気持ちよくて、気づけば思わず頭をなでていた。
異世界からきたという娘。
いままで、ちっとも重要ではなかったその言葉が、真に迫ってきてユージィーンは戸惑う。
どちらでもいい。
そういった言葉は嘘ではなかったはずなのに、その言葉が本当かもしれないと思えたときに。
自分でも説明がつかない思いに揺れている。
その事がユージィーンを、落ち着かなくさせていた。
頭をなでられる感触に、微かに身じろぎした彼女に、彼は慌てて手を引こうとした。
彼女を起こすつもりはなかった。
その時、彼女にどう相対したらいいのか、まったくわからなかったから。
しかし引こうとした手は、あまりにか弱い力で引き止められていた。
自分の手を捕まえる、震える手が。
「…いかないで」
涙に濡れたその声が。
ユージィーンのなかの何かを揺らす。
思わず、彼はその場にかがみこんでいた。
近くにある、その小さな顔にぽつりと浮かぶ涙の珠をぬぐいとる。
「大丈夫。ここにいるよ」
彼には分からない、なにかに怯えているこの少女にかける言葉が浮かばなくて。
それでも何かをいってあげたくて。
かけた言葉に返ってきたのは、ホッとしたような笑顔で。
その笑顔に、ユージィーンはぎくりと身をこわばらせた。
懐かなかった猫を、てなづけた。
その成果のはずなのに、彼はちっとも喜んでいなかった。
ただの道具の、付属品でしかない少女。
その少女に、すこしだけ戯れていただけだったはずなのに。
放したほうがいい。
今すぐ振り払った方がいい。
そう告げる冷静な自分の声を否定するように、ユージィーンは手を握り続けた。
これは、懐いてきた猫を慈しんでるだけにすぎない、と。
そう自分に言い聞かせるように。