魔性の水
ご愛読ありがとうございます。
色々とようやくか…なお話しになりました。
少しはヒーローらしくなってきてるといいんですが…。
またちょっと更新は空くと思いますが、次回あたりで懐かしキャラがお目見えするかも。
楽しみにしていただければ、嬉しいです。
小さい手。子供のように小さくて弱くて。
すこしでも力を込めて握りしめたらつぶしてしまいそうな、そんな手。
そんな手だというのに、どうしてこの手は一瞬でこんなにも鮮やかにいろんなものを変えてしまうんだろう。
目が眩むほどの激情を、それほど途方もないほど大きな感情を。
それこそ、あの瞬間にさえ浮かばなかったほどのそれを、一瞬で切り替えてしまう。
ただその手が触れるだけで、その手に触れてもらえる理由になるだけで、忌まわしい傷さえも意味を変える。
「…ユージィーンならいいよ」
濡れたように光る黒曜石の瞳が見上げてくる。
きっとユキは気づいていない。
自分がどれだけ貴重な贈り物を、惜しげもなく差し出したのかなんて。
その貴重さがわかっていたら、この手はきっと俺じゃない誰かに差し出されたはずのもの。
そんなに尊くて、優しさに満ち溢れている、その救いの手を。
「…ユキ」
俺が取りたくないって思う訳だって、きっと彼女はわからない。
言った手前、煮るなり焼くなり好きにしてくれって感じだったけど、やっぱりそうはいっても未体験ゾーンは怖くて、再び近づいた顔に首をすくめた瞬間、ふっとユージィーンに名前を呼ばれて、目を開いて思わず固まってしまった。
「…ユキ」
おでこがくっつくくらいの近くで、ユージィーンが笑っていたから。
いつもの意地悪チェシャ猫じゃない、めったにしないあの笑い顔で。
そうするとユージィーンのオーク色の瞳は、柔らかい優しい飴色に輝くんだって気づかされる。
もしかしたらそれが、この人の本来の目なのかなって思った一瞬でそれは消えて。
「…こういう時は全力で抵抗してくれないと、気持ちが盛り上がらないものなんだけど?」
気が付けばあっさりと、その目はいつもの意地悪なチェシャ猫に代わっていて。
「…それにしても、やっぱり寂しすぎるよね」
おっきくしてあげようか?といつぞやの夜のように囁いたユージィーンが胸に手を伸ばした時点が色々限界だった私は。
「よ、余計なお世話です!!!」
結局、気づいた時にはユージィーンの頬に渾身のグーパンチをめり込ませていた。
据え膳食わぬは男のナントカと聞いたのに、コイツときたら気分が出ないの一言でバッサリってどうなの?
据え膳を覚悟した私の身にもなれっていうんだ、って貞操は守れたことを喜ぶべきなのか?
なんか色々急展開過ぎておっつかない…と思いながら部屋に置かれていた水差しの水をがぶ飲みする。
ちょっと柑橘系のフレーバーが効いていて、クサクサしてるいまの気持ちを晴らすにはピッタリだった。
まあ、ユージィーンはもっぱら氷代わりにほっぺにグラスを当てて冷やしているわけだが。
自業自得だから同情なんてしないもんね、乙女の貞操は安くないのだ!
まあ、うっかりたたき売りしそうになった私が言うものでもないけれど。
なんか色々思い出してむかついてきたぞ。
っていうか大体、ユージィーンがおかしくなったのはあのお母様の発言が発端な訳で、それは結局つきつめると「あの女」のせいな訳で、それって100パーユージィーンの過去の恋愛が尾を引いてるわけで。
「…っていうか、いい加減聞かせてもらわないと困るんですけど!」
だから、私がそこを洗いざらい聞く権利があると思うんだよね?!
こうして乙女の貞操の危機も迎えた上に、さらっと見知らぬひとに侮辱…まあ不用意に隊長の手を握ってた私も悪いけど、それはさておき。
「あの女ってどの女よ?!そんでもってなんでそんなにユージィーンは気にしてる訳?!」
どんっと置いた空のコップにお代わりをドブドブつぎながら、私はユージィーンきっとをにらみつける。
あー、なんかこれ止まらない位、おいしい。
心なしかふわふわ気持ちが軽くなる。
ずーっと引っかかってたことがボロボロこぼれて止まらなくなる位に。
「そんなに美人だったから惜しかったわけ?それとも乳か?!乳なのか」
吐け、吐くんだとばかりに詰め寄る私に、ユージィーンは気圧されたように上体を引く。
よけられたのが妙にカチンときて、私はむうと唸ってそのままユージィーンの膝に乗り上げる。
さっきとは反対に、ユージィーンをソファーに押し倒す形になる。
「ほら!とっとと話しなさいよ!」
「え、ちょ…いきなりナニっていうか、ちょっと待った!なんでこの体勢?!」
お、なんか焦るユージィーンは初めてかも?
白人系の人は赤くなるとわかりやすいんだな、いやこれは私の殴った跡か?
でも何だろう、いつもは見上げてばかりの人をこうやって見下ろすのは一種の征服感みたいなのがあって気持ちいい。
「…うふ。なんかたーのしー。ハマりそう…」
誰かにくすぐられたみたいに笑いが止まらなくなる私に、ユージィーンの胡乱なまなざしがグラスに向けられた。
「…ユキ、酔ってるね?」
油断したってため息ついたユージィーンにグラスを取り上げられて、私は不満の声を上げる。
「…カラクト水だったか。ここがゲストルームだったのを忘れてた」
「…カラクト?」
「ここらでは寝酒に好まれるお酒の一種なんだ。大した度数じゃないけど…そこもお子様仕様なんだね…ユキは」
くすって笑われてぷうと膨れる。
相変わらず息をするより自然に馬鹿にされることにも、子供扱いされることにもムカッとくる。
「子供じゃないですよーだ。二十歳すぎてるもーん」
「…その態度が子供だって」
それにそういうことにしとかないと困る、と小さくつぶやくユージィーンに首をかしげる。
いつもと違って、なんだか困ったような眉毛が可愛い気がする。
それににへっと頬が緩んでしまう。なんかナデナデしたくてたまらない。
「…ちょっと水持ってきてあげるから、降りてくれる?」
というのに私を引き離そうとするユージィーンに、全身で抗議を示すべく私はその胸にかじりついた。
「やーだ。水いらない。撫でまわす」
「いや、真剣にナニいってんの?ユキ?どのタイプの酔っぱらいなの、君?」
「うるさい、据え膳でもチッパイはいらない男はだまってモフられるの!色々たらん女で悪かったですね、ふーんだ!」
「…あー、そういう方向でひねっちゃうのか…成程」
今度はユージィーンがくすぐられたみたいに笑いだす。
とおもったら、ちゅっと可愛い音がして唇が触れ合った。
びっくりして目を丸くする私に。
「…ユキのそういうところが面白くて…大好きだよ」
いいよ、気が済むまで撫でて、って言ってユージィーンは私を見上げた。
撫でまわす、って言葉が嘘じゃない思い切りの良さで、ユキの手が俺の体をたどっていく。
うわぁ、うわぁってなぜか小声でつぶやいているのが面白くて可愛い。
触られてるのは俺の方なのに、なんだか触ってる本人の方がくすぐったそうなところが。
首筋から肩、肩から胸に降りた手が腹に到達して、そこにある凸凹を撫でる。
「…初恋だったんだよ」
その指の快さにつられるみたいに、ぽろりとこぼれた言葉に、ユキのとろんとした目がこちらを向く。
完全に酔っぱらいの真っ赤な目をみたら、もう口に蓋する気にはなれなかった。
「彼女は同じ部隊に所属してる兵士だった」
死神部隊と言われた、常勝将軍の強固な一枚岩だった一個隊。
死地を潜り抜けたという絆はなににも勝るつながりで、それを疑うことすらしなかった。
「…美人で、巨乳の?」
むうっと膨れたままのユキに聞かれて、思わず吹き出しながら頷いた。
「そう。赤毛に緑の目の、すごい美人だったよ。俺好みの巨乳のね」
自分で言っといて不服気なユキに、髪の毛を引っ張られる。
ツンツンと懲らしめるみたいに、でもけして引っこ抜くほど強くないのがユキらしくて頬が緩む。
「それも当たり前だったけどね」
だって彼女は俺を篭絡するためだけに送り込まれたんだから。
そんな俺の言葉に、目を丸くして首をかしげるユキに笑いかけて続ける。
「…つまりは敵側の人間だったってこと」
負け知らずの将軍の寝首をかくために潜り込んだ刺客。
それが俺が惚れた女の正体だった、という訳。
「結局、嘘じゃなかったのは乳の大きさだけだったってことかな」
俺の茶化すような言葉に、ユキは笑わなかった。
代わりにないてくれることもなかった。
「…それでもでっかいのが好きって…男ってホント、馬鹿なんだから!」
ただそうやって、頭から湯気がでそうなくらい怒って頬をつねられただけだった。
おやつを盗み食いしている子供レベルの懲罰に。
「…うん。馬鹿だよね」
ようやく認めることができた気がした。
終わりは最悪だったけれど、その思い全てが偽りだったわけではなくて。
たしかにあのとき産まれていた何かを、自分はとても大事に思っていたんだってことをようやく。
「それでも…俺は彼女を愛していたんだよ」
裏切られたと知っていても、それこそ腹を切り裂かれた時も。
その気持ちだけは本当だったのだ、と。
その瞬間、ユキがぎゅっと抱き着いてきた。
首筋をくすぐった髪の毛からいい香りがして、思わず体がこわばった。
「…可哀相」
凄く近くでつぶやかれた言葉に、反応できないくらいに。
「…え?」
「好きなのに、報われないのは…報われない思いは、すごく哀しい」
肩口の冷たさに涙を感じたら、反射的にその頭を撫でていた。
指通りのいい黒い髪はとっくの昔にほどけて、いつものまっすぐに戻ってる。
ユキの心みたいに、芯が通っていて、素直で、潔い。
するんと逃げていくそれを無性に掴まえたくなるのも同じ。
一定のリズムで頭をなでおろしているうちに、ユキの手から力が抜けていくのを感じる。
ぐすっと鼻をすすってた音がいつのまにか、気持ちよさそうな寝息に代わってることに気づいて、思わず笑いが止まらない。
目まぐるしくて、一時たりとておんなじ顔がない彼女。
「…君がそれを言うんだね」
報われない恋は哀しい。
じゃあ、この気持ちはどうなるんだろう。
据え膳なんて冗談じゃないと思った。
同情や哀れみで、ましてや売れるほどにあるその優しさで、差し出された体だけ手に入れるなんて嫌だった。
涙は全力で止めてあげたくて、笑顔は全力で守ってあげたい。
彼女が触れてくれるだけで気持ちが良くて、抱きしめた体を手放すことができない。
この気持ちをなんていうかなんてとっく、に知ってる。
でも認めることなんかできるわけない。
だって、彼女は「異界の落とし物」なんだから。
「…ねえ、ユキ」
いつかこの手を離れて、帰ることが決まっているモノだから。
「…報われた時の方が哀しい恋は、どうしたらいいんだろうね?」
無意識にすり寄ってくる、可愛くて愛しい生き物を抱きしめて、ユージィーンは笑う。
もうとっくに手遅れなことはわかっているのに、認められない。
そんな自分の弱気を笑うしかなかったから。