異世界の作法 実践編
宣言通り、今年中に更新かけられて良かったです。
其では皆様、よいお年を。
驚き過ぎると、人は固まるように出来ているらしい。
まばたきさえ忘れた視界に映るのは、あり得ない距離にある、あり得ない位に綺麗なオーク色の瞳。
目があった、と感じた瞬間、ぬるりと口内に異質なものを感じて、私は反射的に目の前の男の肩を掴んでしまう。
反射的に避けようとする動きを封じるかのように、うなじを押さえられる。
まとめあげていた髪が、ほどけていく感触。
探るように歯列をなぞっていく舌に、ぞくりと背筋が撫で上げられるような、不可解な感覚が込み上げてくる。
「…ん…ぅ…!」
抗議しようと声をあげようにも、口を塞がれていては喋れず、ひたすらその肩を叩くことしかできない。
しかし、それも少しだけ、その眉をひそめさせただけで、たやすく手はぬいとめられて、大して力が入ってなさそうなその手にさえ、私の動きは容易く封じられてしまう。
そして、かえって口づけは深まっていく。
くらくらと目眩さえするほどに。
それは、吐息すら食い付くそうとするかのように激しいのに、その茶色の瞳は何処までも冷めている。
そのことに、私はぐっと拳を握りしめ。
それを相手の腹に、渾身の力で打ち込んだ。
「っぐっ!!」
「…っぷはっ!」
息を詰まらせたユージィーンと対称に、私はようやく息を取り戻す。
肩で息をする私とは反対に、何時ものように飄々としている相手が憎らしくて堪らなくて。
赤面したまま、握りしめた拳をもう一度。
「こ…っの、エロご隠居!!なんてことするのよ!?もう、…禿げろ!」
ついでに顔にもお見舞いして、私はその場を走り去った。
その後ろで、ユージィーンが。
「…禿げろって…なにそれ…」
と小さく呟いてるのが聞こえたが、もはやふり帰りもしなかった。
そしてうっかり、その勢いのまま先程領主夫妻を残した部屋の扉を開けてしまった。
「…エレインさん!聞いて…」
私は最後まで言い切る前に、また扉を閉めていた。
見てはいけないものを、見てしまった…
今、見た光景が焼き付いて、落ち着いていた血の気がまた顔に集まってくるのを感じる。
厚い扉越しに、なにかがバタバタと動き回る気配がして、内側から扉が空き、バラ色の頬をしたエレインさんがひょっこりと顔を覗かせた。
いつもより少しだけ潤んでいる紫の瞳と、少しだけ腫れている唇に、しどけない色気が溢れていて、私は慌てて謝ってしまう。
「ご、ご免なさい!邪魔する気はなかったんですけど…!」
まさか、ここでそんな熱い抱擁とキスが展開されているとは露知らず…!
しかし、彼らは新婚なのだし、元はと言えばその雰囲気を察して庭に回避したつもりだったのに、当初の目的を忘れ去っていたのは。
もう全部、あの男のせいなのだ!
私は思わず、思い出して拳を握りしめる。
今見た領主夫妻のそれと比べても、やはりあれは、愛情からくるものでは決してない、もっと冷徹な何かの策略だったに違いないと、私は確信する。
「あ…んの、エロご隠居…!絶対、許さないんだから…!」
ワナワナと拳を握りしめる私の呟きに、エレインさんが首をかしげて、その後ろから顔を覗かせたジークさんが目を細める。
そして、ジークさんはエレインさんに何か囁くと、私の肩に手を置いて。
「…体が冷えてる。レイン、紅茶を。二人でゆっくりするといい」
そして、ひとつ安心させるように微笑むと、そのまま去っていく。
きっと、ユージィーンのところに行くんだろう。
なんだかんだで、ジークさんはユージィーンの面倒を見るのが癖になっているようだから。
それを見届けて、エレインさんが私の肩を抱き寄せた。
「さ、ユージィーンの方は、きっとジークが叱ってくれるから大丈夫。…でも、何があったの?」
そう小首を傾げるエレインさんをみたら、なんだか止まらなくなって。
「聞いてくださいよ!!」
私は猛然と庭であった一部始終を、洗いざらい語ってしまっていた。
私のあまりの剣幕に、エレインさんは落ち着いて、といって入れてくれた紅茶を飲みながら、語り終えた頃には、向かい合った彼女の頬はすっかり紅潮していた。
「そ、そんなことがあったの…」
動揺している彼女に、全てを語り尽くしてから、目の前の女性が私が散々罵倒したエロ隠居に近しい人だったのに気づき、私はハッとして謝る。
「ご、ご免なさい!エ…ユージィーンはエレインさんのお友だちなのに…!」
「え?いえ、そこは気にしなくていいのよ…ただ…ユージィーンにも言い分があるかも」
「え?…どういうことですか?」
私の疑問に、エレインさんが少しだけ言いづらそうに説明してくれたことは、最初私を青ざめさせて、そしてこれ以上無いくらい赤面させた。
ユージィーンは庭のベンチに腰かけて、珍しくぼんやりと空を見上げていた。
その頬にくっきりと残るアザに、ジークは思わずニヤリと微笑んでしまう。
「…避けなかったってことは、それなりに悪いと思ってるんだな?」
ジークの言葉に、ユージィーンは憮然と答える。
「…彼女のパンチが早すぎただけだよ。ていうか、腹に入れた後、顔も来るとは思ってなかった…」
そこまでの事はしてなかったんだけど、と付け加えるユージィーンに、ジークはため息を漏らす。
「お前にしては、珍しいな」
「…何が?」
「…いつもなら、とっくの昔に手出してる」
ユージィーンの茶色の瞳が、ジークの青い瞳と合わさる。
「…どういう意味?」
「彼女はお前の要望に合っている。誰よりも、後腐れのない関係になれる」
ジークはうっすらと微笑んだ。
「…彼女はいずれ、元の世界に帰るんだからな」
そして、予期していたように飛んできたそれを受け止めた。
それは彼女の髪留め。
「…物は大事に扱え」
苦情を申し立てるジークに。
「…彼女には、元の世界に帰りたいと、思ってもらわなきゃ困る。俺のモノにしたら…そんなこと考えなくなるだろ?」
いつものように、飄々とした台詞に、ジークは青い瞳を細めた。
「それが、本当にそう思ってる奴の顔か?」
ジークの言葉に、ユージィーンは顔を背けた。
彼にしては珍しい所作に、ジークはため息をついて、少し瞳をさ迷わせた後、切り出した。
「…彼女は、リナリアとは違う」
その言葉に、ユージィーンの肩が震えた。
「…どういうこと?」
「彼女はお前の、あるがままを見る」
異世界の人間であるが故に。
「お前の条件は、彼女には意味をなさない」
指折りの貴族であるということも。
前政権の宰相というヤヤコシイ立場も。
何れこの世界を去る彼女には、意味をなさない。
「だから、好意には好意を。悪意には悪意を返してくる」
「…何が言いたい?」
いつになく苛立った様子のユージィーンにも動じず、ジークは笑った。
「野良猫を手なずけたいなら、まずは自分から腹を見せてみろ、と言ってるんだ」
ジークのその笑いに、ユージィーンは大いにふて腐れた。
幸せな結婚とやらをした親友が、妙に妬ましく思えて。
「お前が言うか、それを…」
「経験者は語る、ってことだ」
しらっといい放つ友人に、目を向けてユージィーンは固まった。
ドレスの裾を握りしめて、そこにたっていたのはついさっき、ここから怒り心頭で走り去っていった娘で。
紅潮した顔は、さっきと同じだが、何故か八の字に下がった眉はさっきと違っていた。
「あ、あの…」
言いにくそうに、迷いながらも必死になにか伝えようとする彼女に、ジークは微笑みかける。
「ユキ、どうかしたか?」
その微笑みに励まされるように、ユキはガバッと頭を下げた。
「ユージィーン…様、さっきはごめんなさい!」
呆気に取られる彼に、ユキは頬を紅潮させながらしどろもどろに話始める。
「私が…あの…意味も分からずあんなこと、いったから…!あの!あれがベ、ベットへの誘い文句なんて知らなくて…!でも知らなかったのは言い訳で、もし王様とかに知らずに使ってたら大変なことになってたし!あの、とにかく教えてくれて…ありがとう…ございます」
そう言って、ペコリと頭を下げた彼女に、思わずジークは横目でユージィーンを観察して吹き出しそうになる。
彼はまるで、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
ユージィーンを知っているものなら、皆がビックリするだろうその顔には頓着せず、ユキはきっと睨み付ける。
「でも!口で言ってくれても、ちゃんと分かったのに…!」
ユキの抗議に、その顔がじわりと微笑みにとって変わる。
それは、いつものユージィーンの微笑みで。
「だって、君、忘れっぽそうだったから」
「忘れないわよ!っていうか、そんな理由で人の初めてを奪わないでよ!」
彼女の言葉に、ユージィーンの動きが止まる。
「え?それ…本気で?」
ユージィーンの疑問に、自分が口走ったことに初めて気づいたみたいに、彼女の顔がかあっと赤くなる。
「やっ!今のは嘘!嘘だってば!だから忘れて!っていうかあんなもの、ノーカウントだから!」
教育的指導であって、キスじゃない!と真顔で抗議する彼女を見るユージィーンの眼差しは、これ以上ないほど嬉しそうだ。
ユキの後ろをついてきたらしい、レインが驚きに目を見張る程に。
「…あんなユージィーン、初めてみたわ」
「あぁ。俺もだ」
その言葉に、レインがじわりと微笑みを浮かべる。
「ジークは期待してるのね?あの、お姫様に」
「そうだな。…彼女なら、あるいは…」
ユージィーンに掛けられた、誰にも解けなかった呪いを、解いてくれるかもしれないと。
期待せずにはいられなかった。
ユージィーンに、首輪をつけさせたいと思わせたこの異界の娘ほど、彼に似合いの相手はいないはずだから。
「っていうか、あんな自然にコルセット緩められるなんて、やっぱりエロ隠居じゃない!」
…まぁ、彼女にはいい迷惑だろうが。
ジークは寒さのせいか、少し身震いしたレインを抱き寄せながら、祈るようにその旋毛に口づけた。
「俺が君に会えたように、ユージィーンは彼女に会えたなら…逆もそうなら嬉しいよ」
優しいキスを受けながら、恥じらうように頬を染めた彼の新妻は、ジークがこの世の中で一番美しいと思う紫の瞳を三日月に変えて、にっこりと微笑んでくれた。
「私もそう…祈ってる」
そして、苦笑して他愛のない口論を、飽きることなく続ける二人を見つめた。
「そう…じゃないとこの先が思いやられるもの」
妻の賢明な台詞に、ジークは夜の庭に、遠慮なく笑い声を、響かせた。