カエルと蝸牛
短編ですが、微妙に長いです。ご注意ください。
前作『スパイスと砂糖』の番外編です。恐らく単体でも読めますが内容は繋がっています。
「呪われた子」
自分に何の咎があったのかは、生まれてこのかた答えが出た試しがない。
ただ、金色の瞳という特性のためかは分からないが、とにかく魔力を身に余るほど抱えて生まれてきたことは誰の目にも明らかで、血を分けたはずの両親は自らにはない力を持った子供に名をつける前に、魔術師の巣窟へと預けた。
しかし、珍しいものに目がないはずの魔術師たちも人の子であったようで、メサイアを ”呪われた子 ”と呼び、時に蔑み、遠ざけて恐れた。
そんな中、メサイアを育てたのはコンコルディという一風変わった老人で、彼は変人だった。
恐れの対象であると同時に、魔力を持つ子供は魔術師から生まれるという定説を無視して生まれた突然変異の産物であるメサイアを有益な実験材料と称し、常に自分の傍においた。しかし彼はメサイアに名を与え、魔力の使い方を教え込み、時に自分では逸脱しがちな一般常識を周囲の魔術師から覚えさせ、十五年にも及ぶ長い時間をメサイアの教育に割いた。
そしてコンコルディ老が世に憚りながら天寿をまっとうする頃には、彼の名を継いだメサイアは、やはり変人と呼ばれる魔術師となっていた。
目には見えないというのに、確かに存在する魔力、それらを扱う技術である魔術は先人たちが時には非道とも見える実験を繰り返し培ってきたものだ。
その知恵と知識をより発展、そして解明していくことにメサイアは生涯を捧げることに何の疑問も抱かなかった。
それが呪われた子とも渾名される自分の天命だと幼い頃から認識していたし、もしかすると実の親でさえ捨てた自分の身には、魔術の森の奥で学徒としてひっそりと生きて死んでいくことこそが相応しいとも考えていたのかもしれない。
だから、学会を締め出されると同時に魔術師の研究施設である魔術師の塔を追い出されても、これで誰の干渉も受けずに研究が出来ると思ったぐらいで、メサイアに特別な感情は浮かんでは来なかった。
変人ではあったが、持ち前の強引さと一抹の正論を武器にして塔の重鎮となっていたコンコルディ老とは違い、メサイアは他人との接触を嫌う、まったくの引きこもりの体質であったため、彼を疎ましく思う輩との接点を断つことはむしろ好都合でもあった。
しかし、研究には思いもよらない失敗が付き物で。
『……アンタだれ』
今であればそう言ったのだと分かるが、その時は本を読み漁るために世界中の語学に通じていたメサイアでさえ知らない言葉を彼女は口にした。
ふとした拍子に図書館の蔵書から興味深い、しかしおとぎ話に出てくるようなことを記した本を手に入れた。
異世界からの召喚。
子供でも騙せないような内容ではあったが、魔術的な手順だけは専門職が見れば驚くほど緻密に書かれており、古書をわざわざ取り寄せてメサイアは数カ月をかけてその本に書かれてあった召喚魔術を完成させた。
己の住む世界とは別の世界。
それがどんな世界なのか。
花の一片、土のひとかけらでも手に入れば満足だった。
それが。
『ここは何処。アンタは誰。私は、どうしてこんなところに居るの!』
メサイアの魔力を半分も食らって召喚されたのは、不安に満ち満ちた顔の人間の娘だった。
彼女はメサイアのローブの襟首をつかみ、ひとしきり揺さぶったあと、ばさばさと部屋にある荷物を押しのけて窓の外を見て―――その場に座り込んでしまった。
『どこよ、ここは…』
こちらの世界では見たこともない上等な布で作られた彼女の服が、数年は掃除されていない床で汚れてしまう。
咄嗟にそんなことを考えたメサイアが彼女の腕を取ると、細い腕が震えた。
(ああ、なんて失敗を)
言葉も文化も違う、そんな世界から突然一人の人間を連れ去ってきてしまったのだ。
恐ろしい魔術だ。
きっと、厳重に保管されていればいずれ誰かがあの召喚をいたずらに使っただろう。
確かな悪意と欲を持って。
だから、召喚魔術を作った魔術師は子供騙しにもならない内容で本を書き遺し、大量印刷された本と混ぜた。いずれ、誰の目にも触れずに消えていくように。
不安そうに、しかし泣こうとはしない娘の前に、メサイアはしゃがみ込む。
「俺は、メサイア」
自分を指差して言い、君は、と問いかけるように白い顔を見つめる。
綺麗な娘だ。長い栗色の髪は太陽の光を透かし、真っ黒な瞳はメサイアを水晶のように映しこむ。女性の装飾品には縁のない生活を送ってきたメサイアだが、この娘の装いは朴念仁にも美しく見えた。
異世界ではこんな人間が住んでいるのか、と妙な納得をして見つめていると、メサイアを警戒するように睨んでいた瞳が不思議そうに緩む。そして、
「ミサキ」
メサイアと同じように自分を指差して、彼女、ミサキは応えた。
まずメサイアは言葉を教えることにした。
意思疎通ができなければ彼女に状況の説明さえ出来ない。
年々発展を遂げる魔術をもってしても、異世界の言葉を変換できるすべすらないのは、異世界の言葉を知る者がいないからだ。
それから、言葉を教えると同時にメサイアの家で一般的な生活を覚えさせることにした。
始めの一日目こそ疲労のためかすんなりとメサイアのベッドで眠ったミサキだったが、次の日からは大変だった。彼女は、朝から納屋の隣にある汲み出し式のトイレに驚き、井戸に驚き、暖炉に驚いた。
改めて、彼女の生活様式がこちらとはまったく異なることを目の当たりにしたのだ。
彼女は、家事はおろか日々の生活にさえ困るほどの戸惑いを見せた。
メサイアは、普段は掃除をしない、三食をまともに食べない、風呂も入らないといったおそらく一般的な生活とはかけ離れた、どちらかといえば劣悪な生活を送っていたが、幾分常識的だった亡き師の弟子たちに最低限生活することだけは教え込まれている。
異世界からやってきた彼女との二日目は掃除から始まった。
『イヤ!』
ミサキとの会話でメサイアが最初に覚えた異世界語だ。どうやら否定や不満を表すらしいというのは、彼女の表情からすぐに知れたのだが。
「そんな格好でどうやって掃除や洗濯をするつもりだ」
彼女が聞き取りやすいように正しい言葉づかいを心がけて言ってみるが、ミサキは顔をしかめるだけだった。村の雑貨屋の店主に、買い物ついでに細君が着られなくなったワンピースを貰い受けてきたのだ。
『嫌ったら嫌! どうして私がこんな格好しなくちゃならないのよ!』
最初は服の着方が分からないのかとメサイアは思っていたが、デザインが気に入らないらしいということに気がついたのは数日経ってからのこと。
当初は、下着の付け方まで教えなくてはならないのかと頭痛がする思いだったが、荷物から見せた途端に顔を赤くしたので、下着は大丈夫なのかとメサイアは胸を撫で下ろしたものだ。
彼女は、姿こそ大人びていたが中身はまるで子供だった。
パンの生地はこねられない、ナイフを扱えない、洗濯板で怪我をする。動物の解体は初めて見たのか口を押さえて青ざめる。
唯一、不思議なことに薪割りだけはメサイアよりも上手くできたが、それだけだ。
メサイアは朝起きてからほとんどずっと、彼女のそばにつきっきりで言葉と家事を教えた。
その甲斐あってか、彼女はわりとすぐに単語を並べて話せるようになった。
「わたし、なぜ、ここ来た」
ある日、たわしでイモを洗いながら彼女が尋ねてきた。
ようやく話すことができるのか、と感慨深い思いもしたが、イモの皮を削っていた彼女の、もっと白かったはずのナイフを握る指を見て、達成感どころか悔恨しかメサイアの胸には浮かばなかった。
細く、白く、柔らかかった彼女の指は、連日の家事で荒れている。赤くなった指が痛々しくてならなかった。きっと彼女は、身分ある家の娘なのだ。本来なら、メサイアが取り計らって貴族の家にでも預けてしまうべきだったのだ。
ミサキにしてみれば、メサイアは突然現れて自分を召使いのように働かせた無礼な魔術師に他ならない。
「おいで」
洗いかけのイモをたらいに放り込んで、メサイアはミサキを自分の研究部屋へと招いた。
連日の掃除で、人の住める家になったがこの部屋だけは入ってはならないと言葉を教えながら言い聞かせていたので、この部屋だけはあの日のままだ。
「俺が、この召喚魔術で君を異世界から呼び寄せてしまったんだ」
部屋の真ん中に描かれた魔法陣を不思議そうに見ていた彼女は、再びメサイアを見つめる。
「召喚?」
「魔術で、違う世界から、君を間違って呼び寄せた」
理解出来るだろう単語を並べて言い直すと、ミサキの顔から血の気が引いていく。
「間違い?」
みるみるうちに黒い瞳のふちに涙が溜まっていくのを見ながら、メサイアは、間違いでなければ良かったのだろうかと思った。
(いや)
間違いでなくても、間違いであったとしても、ミサキにとってはどちらも同じことだ。
「ミサキ」
「いやっ」
彼女の手を取ろうとして、振り払われる。
その拍子に、どさどさと積み上げてあった本が雪崩落ちる。
埃が舞い上がり、それでも後ずさる彼女の手をメサイアは無理矢理握った。
細い指だ。大事に育てられていた娘なのだ。
「君を、領主の家に連れていく」
黒い瞳のふちに溜まった涙は、落ちそうで落ちない。だが、不安で感情の糸が焼き切れそうなほど苦渋に溢れた顔の彼女は、揺れる瞳でメサイアを見る。
「言葉をだいぶ覚えただろう? まだまだ分からない言葉も、知らないこともたくさんあるとは思うが、ここで暮らしてみて大方のことは分かっただろう?」
肯定も否定もしないミサキに、メサイアは続ける。
「ここの領主は、君を悪いようにはしない。彼に任せれば、むしろ今よりいい生活になる」
「……生活?」
ようやく小さな声を聞きとって、メサイアは目を細める。
「そうだ。君を、君の世界へ必ず帰す。それは、絶対に破らない。約束だ」
メサイアの「約束」という言葉を口の中で確かめるように口をつぐみ、彼女はしばらく視線を彷徨わせたが、やがて小さく頷いた。
「―――話は分かったよ」
翌日、早朝からにも関わらず村で快く馬車を貸してくれたので、メサイアとミサキは昼頃には村よりも少し向こうの森の先にある領主の館へと辿り着いた。
先代を早くに亡くし、十代で領主となった若き城代は二人をすぐに招き入れてくれた。
「君の手紙でも、粗方聞いてたしね」
客間のアームチェアで足を組んで鷹揚に腰掛けて微笑んだ男は、領主という肩書が無くとも上等な見た目をしている。淡い金髪に上等な三つ揃い。磨かれた靴は世の中に泥というものがあることなど恐らく知らないだろう。
「いやぁ、笑っちゃったよ。まさか稀代の魔術師の君が失敗とかさ」
「……それで、彼女を保護してくれるのか?」
メサイアの家には到底入らない大きなソファに腰掛けたというのに、ミサキは屋敷へ招かれてからというものメサイアの傍を離れようとしない。若い領主はやたら女受けだけはする容姿だというのに、彼女は見向きもしないで今も隣で小さく押し黙っている。
「ミサキちゃん、だっけ? 私でよければこんなに美しいレディ、喜んで引き受けるよ」
「テリーウッド」
「うん?」
うんざりとした顔のメサイアに、若き領主、テリーウッドはにこにこと首を傾げる。
この男のフェミニストぶりはメサイアは嫌というほど知っている。だが、それと同時にあまたの女性と浮き名を流していることも思い出したのだ。
「ようやく言葉を覚えてもらったところだから詳しくは聞けていないが、彼女は恐らく良家の娘だ。それ相応の扱いをしてくれ。―――彼女はお前の遊び相手じゃない」
「分かってるよ」
メサイアは睨むが、テリーウッドは肩を竦めただけだ。
「それならそうと、どうしてすぐに我が家へ連れてこなかったんだ。可哀想に」
テリーウッドの視線がミサキの手や衣服に注がれていることに気付いて、今度はメサイアが金の目を伏せる。
ミサキが貴族か、それに匹敵する良家の娘だということはすぐに分かった。
それなのに、メサイアはこの数週間というもの彼女に粗末な服を着せ、労働をさせたのだ。
言葉や生活常識を教えるという名目はあった。しかし、それはテリーウッドへ預けても出来たことだ。彼なら美しい服を揃えることも、優秀な家庭教師を揃えることもできる。
貴族に恨みなどない。彼らは好奇心と野心の塊ではあるが、そういう生き物だと思っていれば幾らでも付き合いようはある。
(どうして思いつかなかったんだ?)
テリーウッドは軽い男だが、貴族であり、それに誇りを持っている。彼に任せることを、すぐに考えても良いはずだった。
(なぜ?)
答えの出ない迷宮に入りこんだような心地だったメサイアのローブの袖を、わずかに引く気配がして思考の海から抜け出すと、不安な漆黒の瞳が揺れている。
「……どうした?」
話は聞いていたはずだ。
会話のすべてを聞き取ることは出来なくとも、ここへ来る前にミサキには説明をし、テリーウッドとメサイアの会話で察しのいい彼女なら内容を理解したはずだった。
それでも分からないところがあったのかもしれない。
「いいか? 彼は君を保護してくれる、領主のテリーウッドだ。これからは彼に色々なことを教わるといい」
分かりやすく話していることが分かったのか、テリーウッドは賢明にも口を挟まないでにこりと微笑んだだけだったが、ミサキの顔が盛大に引きつった。
どうしたことかとテリーウッドと顔を見合わせたが、再びローブの袖を彼女に引っ張られてメサイアはミサキを見下ろす。
「いや」
「いや?」
「嫌。行かない」
そう言って、白い指がメサイアのローブを握りこんでしまう。
「メサと帰る!」
彼女は、まだメサイアの名前をきちんと言えない。
舌足らずに言いきったまま、握りこまれたローブはぎゅうぎゅうと音がしそうなほどなので、メサイアはなんだか途方に暮れてしまう。
どうしろというんだ。
この生き物を。
「あっはっはっはっは!」
途方に暮れたメサイアの前で、軽薄領主は腹を抱えて笑いだす始末だ。
「ああ、傑作だな! お前のその顔! 王都のフィルにも見せてやりたい!」
やたら顔の広い領主は、自分の悪友でもある王子の名を挙げてアームチェアの上で笑い転げている。
「テリーウッド……」
「いやいや。こんな辺鄙な城まで来てもらってあれだがね。彼女はお前が連れて帰るんだな。メサイア」
私の負けだよ、と不可解なことを言って、テリーウッドはようやく大笑いを収めた。
「塔から追い出されてどうなることかと、親友としてハラハラしながら見守っていたが」
「……俺は、お前たちに薬を作れなどと迷惑をかけられた覚えしかないが」
やれ惚れ薬を作れだの媚薬を作れだの、メサイアからすれば至極どうでもいいことを王都に居た頃から持ちかけてくる厄介な知人たちだ。側室を持たなければならなくなった王子であるフィヨルドなどは色事は遊びではなく義務であったが、好き放題に女性を選べるテリーウッドは違う。社交の季節には、必ずといっていいほど避妊薬などをメサイアに依頼してくる。
「貴族の私からの依頼はほとんど断ってくるくせに、身入りのない領民の依頼は受けているようだな? お陰でお前をここから追い出そうにも追い出せない」
「―――塔を出て、旅でもしようと思っていた俺を領地に呼び寄せてくれたことには、感謝している。少しは」
「私だって感謝しているさ。黄金の魔術師と名高いメサイア・コンコルディに恩を売れるのだからね」
くすくすと笑って、テリーウッドはメサイアとミサキを見比べる。
「いいじゃないか。彼女はもうお前を頼っているんだから。いっそのこと妻にでもしたらどうだ?」
「―――確かに、お前みたいな常春頭の隣に置いておくのは、不安だな」
話は終わりだと告げるようにメサイアがソファを立つと、つられるようにミサキがついてくる。
「帰るぞ。ミサキ」
「帰る?」
「そう」
メサイアが頷くと、白い顔に花が開いた。
―――ミサキが笑ったのだ。
思わず目を丸くしたメサイアをテリーウッドが大笑いしたが、ローブの袖に彼女を指ごと連れたまま、領主の屋敷を二人は後にした。
後から思えば、彼女が微笑んだのはこれが最初だったのかもしれない。
その後は、馬車を借りた家の細君がミサキを目にして気の毒に思ったのか、時々村へと彼女を誘うようになった。それから、時折、ミサキは自主的に村へと通うようになり、
「おかえり。今日は遅かったわね。晩御飯出来てるわよ」
たまたま村で依頼を受けて遅くなったメサイアを、彼女がそんな風に出迎えた。
「……どうしたんだ。それ」
「ああ、言葉? 覚えたのよ」
「どう?」などと不敵に笑うミサキからは、以前の不安気な顔は消えている。
どうやら、村へ通ううちに村の女性たちと話して覚えていたらしい。
日に日に彼女の語彙は増えていて、
「コラ――――っ!!!」
「……なんだよ」
「さっき、掃除したばっかりなのにどうしてまた部屋を汚してるのよ! この朴念仁!」
研究や薬を作るたび、何かしら汚しているらしい (自分では分からない) メサイアをミサキが怒鳴るようにもなった。
しかし、料理の腕だけは上がらないようで、時々メサイアにパンの生地をこねるように言ってくる。
「……どうして私がやるとそうやって膨らまないのかしら…」
「俺だって、最初はうまくいかなかったさ」
「きっと、何かが違うのよ。手の大きさとか」
そう言って、生地をこねないでメサイアの手を撫でてくるので思わず笑ってしまう。
台所で広げたパン生地を成型しながら、ミサキはぶつぶつと続けてくる。
「だってメサイアも良くないのよ。私が失敗してもちっとも怒らないんだもの」
確かに、彼女が焼いた最初のパンは酷かった。火加減が分からなかったらしく、真っ黒な炭になって窯から焼きあがったのは傑作だった。
「最近、やっとパンの形になったじゃないか」
「形になっただけでしょ! ばりばりしてて食べられたものじゃないのに、それでも食べちゃうんだから!」
「食べられるだけマシだ」
「それ褒めてないわよね?」
メサイアとの日常会話に困らないほど話せるようになった彼女は明るかった。
これが彼女の本来の姿なのだろう。
それでも、時々夜のなると風に乗って聞こえてくる。
「―――そんなところに居たら冷えるぞ」
納屋の裏に積んだ薪の隙間で、うずくまる寝巻が居る。
村の女性たちからもらったというその水色のワンピースのような寝巻に、彼女の黒く長い髪 (ここの生活で黒くなった。元々栗色ではなく黒い髪だったらしい) が散らばって細い肩にかかり、ミサキがメサイアの声に震えるとびくりと揺れる。
メサイアがおざなりに使っていた寝室を彼女専用にして、隣の物置をメサイアの寝床にしたのは、間違いだったかもしれない。
ミサキが夜中に起きるとすぐに分かるのだ。
だから、メサイアはいつもそこらへんにある防寒になりそうなものを引っ張って、彼女を探しに行ってしまう。
今日は、洗いたてのカーテンだった。
「……またこんなもの、持ち出して」
文句を言いながらも彼女はメサイアの差し出したカーテンにくるまる。
「温かければ何でもいいだろう」
そう言って、メサイアはミサキの目元を拭う。
彼女は、時々こうやって一人で泣くのだ。
メサイアには決して何も言わない。
恨み言など幾らでも言って構わないというのに。
ふと、腕が伸びる。
その手が彼女の肩にかかろうとする。
だが、メサイアは自分の手を押しとどめて戻す。
こういう時のミサキは普段の元気な姿からは考えられないほど儚げだ。
まるで幻のように消えそうにも見えるので、メサイアは彼女を捕えて無理矢理にでも押さえつけたくなる。
そうなるといけない。
きっと、一度彼女を自分の懐へ抱えれば、久しく覚えなかった狂暴なまでの本能に突き動かされて、この幻のような生き物を傷つけてしまうだろう。
―――そろそろ、彼女を帰す時期なのだ。
幸い、召喚魔術の解読は進み、返還の陣も組みあがる直前まできている。
思いのほか長く、近くミサキという娘の傍に居過ぎた。
出来あがった魔法陣を見て、彼女は喜ぶだろうか。
喜んで欲しいという純粋な気持ちと、このまま告げずにいようかという浅ましい気持ちは水と油のように分離していくばかりだ。
そんな時、王都からの使者はやってきた。
そして、彼女と旅をして、彼女はフィヨルドの側室となってしまった。
「おやおや、ずいぶんと怖い顔だ」
執務を片づけたフィヨルドに私室にまで呼ばれて行ってみれば、彼はそんなことを言ってメサイアに対面する席を勧めた。本来なら、王子と相席するなど許されないが、この男はそういうことを気にしない性質だ。
「恨みごとはミサキに言うんだね。それとも、繋ぎとめられなかった自分に?」
「―――用件は」
見た目にも不機嫌なメサイアにフィヨルドは微笑みかける。
「君に折り入って相談が。彼女、うちの騎士団にちょうだい」
どうやら、ミサキの腕前は騎士団の近衛にも匹敵するようで、フィヨルドは家出を繰り返す妹姫の面倒を見させたいらしかった。
「ミサキに決めさせればいい」
「危なっかしいよ、彼女。私が触れると毛虫を見たみたいな顔になるんだ」
「は?」
「知ってたんだろ。彼女が処女だってこと」
さすがに、側室が九人も居る男にはすぐに分かってしまったらしい。
「反応がいちいち可愛いんだけどね。すごく鈍いんだ」
「ああ、まぁ……」
まさかキスさえしたことが無かったとは思わなかったが。
メサイアは殴られた顎が痛くなった気がして自分の顎をさする。
「彼女、基本的にタフだから後宮でも上手くやれるんだろうけど、如何せん強過ぎるからね。僕の側室には向かないんだ」
確かに、向かないかもしれない。
彼女は人間関係なら非常に上手くさばく能力を持っているが、恋愛関係となると別だ。
ミサキは、まだ男と女の駆け引きに慣れていないし、そういうことを楽しめる性格でもない。
彼女は、きっとただ一人を愛すだろう。だから、譲歩や駆け引きが必要な側室という立場を理解はしても、感情的に割り切れないのだ。
「ねぇ、メサイア。保護者だった立場からミサキを説得してもらえないか?」
「……それが、俺を宮廷へ招いた理由か」
「まさか。私は君を本気で宮廷魔術師にしたいんだよ。ゆくゆくは筆頭にと考えている」
筆頭とは、宮廷魔術師のいわばトップだ。魔術師としては、破格の出世だといえた。
だが、
「にわか宮廷魔術師ならまだしも、筆頭なんか無理に決まっているだろう」
ミサキと居ると自分も忘れがちになるが、メサイアは自他とも認める特殊な魔術師だ。
「忘れているようだから、教えておいてやるが、俺は、その宮廷魔術師を輩出する最高峰である塔から恐れられた、黄金の悪魔だぞ。政治も絡むその役職に、人嫌いの悪魔が居て誰が従うと思うんだ」
メサイアが諭すように言ってやっても、執務疲れの王子は背もたれにもたれて笑うだけだった。
「それはまぁおいおい。とにかく今は、ミサキを騎士団に勧誘してくれないかな。彼女の類稀な戦闘能力はぜひ欲しい」
胡散臭い笑みを見ながら、メサイアは溜息をつく。この王子は、駒になる人間が欲しいのだ。
メサイアにしろ、ミサキにしろ、自分の息のかかった、フィヨルドの思い通りに動く駒。
そこに人格は要らない。
「彼女に決めさせる」
挨拶もなしに席を立っていくメサイアを、フィヨルドは何も言わずに見送った。
「……万年しかめっ面の黄金の悪魔に不満顔一つさせない猛者なんて、私が扱えるわけがないじゃないか」
面白がるようにフィヨルドが笑っていたことなど、メサイアは知る由もなかったが。
―――きっと、メサイアは恐れていたのだ。
黄金の目を恐れない、ミサキという娘を。
彼女が言葉を覚えたばかりの頃。
ふと彼女がメサイアを見つめていたことがあった。
不思議に思って尋ねると、彼女は自分の目を指した。
「目」
「目?」
覚えたばかりの単語を繰り返しているのだろうと次の単語を待っていたら、彼女は、今度はメサイアの瞳を指す。
「俺の目?」
「そう」
この世界では滅多に現れない黄金の目。
メサイアの瞳を指して、恐れなかったのはただの一人だけだった。
だが、じっと見つめ返してくる彼女の顔には、恐れの欠片も見当たらない。
「綺麗」
「え?」
「夕日、閉じ込められてる」
そう言って、彼女は少しだけ微笑んだ。
メサイアという名前をつけた老人は、一度だけメサイアに名前の由来を話してくれたことがある。
古い言葉で、救世主とも英知の王ともいい、知恵を授ける指導者も表わすという。
”お前もいつか誰かに救われて、誰かを救うのだよ。 ”
自分は天涯孤独だと言いながらたくさんの弟子に囲まれて逝った恩師は、メサイアをよく撫でたものだ。
そうして撫でられていた自分が、今はこうして誰より強いくせに寂しがり屋な彼女を撫でている。
その温かなものに触れることが、メサイアはきっと怖かった。
恩師はメサイアを残して逝った。寿命だったといえばそれまでだが、残されたメサイアはまるで迷い子のように何かを見失ったのだ。
彼は、メサイアを研究対象だと言って守り、まるで本当の息子のように育ててくれ、確かに何かを残してくれたというのに。
大切にしていた何かを失うのは、もう二度とごめんだった。
でも、とメサイアは久しぶりに愛用の杖を握る。
失うことが怖いからと言って自ら離れたところで、どうしても手放せないものもある。
「―――帰るぞ、ミサキ」
メサイアの瞳を夕日のようだと言った彼女には、ずっと微笑んでいてほしいのだから。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
この二人のその後は甘すぎて想像つかない…。