第2章 「怒」
その男は怒っていた。
「トロい運転しやがって!」
強くアクセルを踏み込み、愛車の鼻先を前の車にすりつけるようにあおった。
何がそうさせるのか。あえて言うなら『若さ』というものだろう。
夜道をとろとろと走る車は左にウインカーを出し、大きく道を譲った。
「よし、それでいいんだよ!」
アクセルをほぼベタに踏み込み、ポンコツ運転を大きく引き離す。
このままどこへと聞かれれば、特にあてがあるわけでもない。ただ、若さゆえに胸の内にたまった得体のしれないこの怒りを、路面にぶちまけたい気分だ。
誰もいない田舎の直線道を、男はメーターが降りきれるほどに飛ばしていた。
「……!」
ヘッドライトが描く光跡のハジに、可憐な少女の姿が照らし出される!
足を突っ張ってブレーキをかける!
車は叫ぶようなブレーキ音をあげて軋む。
ドン!
みるみる近づいてきた少女の体がボンネットの上を転がり、男の体は衝撃で跳ね上がる。
車は……やっと止まった。
「あーあーあー、畜生!こんな夜中にふらふらしてんじゃねーよ!」
ドアを乱暴に開けて車のフロントに回り込むが、ボンネットにもバンパーにも事故の形跡は何一つ……傷一つついてはいない。
「……?」
男は弾き飛ばされたはずの小柄な体を目線で探した。
暗いとはいえ、路面は街灯に寒々しく照らされている。だがそこに、倒れているはずの少女はいなかった。
「おいおい……勘弁してくれよぉ。」
地面に膝をつき、車の下を覗き込む。だが、そこにも彼女の姿は無く、エンジンの熱気を冷たい夜風が吹き飛ばした。
「まさか、お化け……」
「そんな非現実的なものはいない。死は全ての人間を等しく『無』に帰すからな。」
小夜子が彼の背後から声をかけた。
振り向いた彼の眼にはその姿がお化け以上に非現実的に見えた。はねられたはずの体には傷一つなく、街燈の明かりに照らされた美しい姿はほのかに光を発しているようにさえ思える。
「今、はねた……」
「そうか、怪我ぐらい作っておけばよかったな……」
ちょっと何かを考えているような間があいた。
「心配ない。私はこの通り、はねられてはいない。」
「そんなバカな!だって、すごい衝撃があったぞ。」
「あれだけのスピードだ。急ブレーキをかければ衝撃もハンパ無いのは当たり前だ。」
「じゃあ俺は、ただ単にブレーキを踏まされただけか。」
事故の責任を負わなくてもいいという身勝手な安堵が、彼のやり場のない怒りの炎を掻き立てた。
「車道は車が走る所なんだよ。ふらふらとガキが歩いてんじゃねえよ!」
「そうか、すまんな。」
「あんな急ブレーキかけさせやがって!車にガタが来てたりしたら、弁償させるからな。」
「お前は、なぜそんなに怒っているんだ。」
「はあ?お前みたいなバカガキがふらふらしてると、みんなが迷惑するからだよ!」
「『みんな』じゃない。『自分が』だろう。」
小夜子の鋭いほどに美しい瞳が男から言葉を奪った。
「『怒る』とはそういうものなのか。」
小首をかしげてじっと男を見つめる小夜子の背後を、ざあっと夜の風が通り過ぎた。
風に乱れた髪のせいなのか、その強い眼差しのせいなのか。男は小夜子が恐ろしいもののように思えた。
「帰る!俺はお気楽なガキと違って、忙しい身だからな。」
急いでその場を去ろうと、踵を返す男を小夜子が呼びとめた。
「待て。これを持っていけ。」
それは天然石のブレスレットだ。メンズサイズに組まれた大きめの石は渋い色ながらも質のいい輝きを放っている。ただ一つ、中央の小さな石を除いては……
その石だけが明らかに異質だった。つやもなく、輝きも持たず、暗いグレーに沈んだそれは道端で見かけるようなただの石だ。
だが、その石の存在が男の心を強く引き付けた。
「これは、おわびのつもりか?」
「そう思ってもらっても構わない。」
「じゃあ、もらってやるよ。でも、これでチャラじゃないからな!」
「まだ何か欲しいのか。」
「だから、修理代!それに普通はお詫びって言えば菓子折りだろ!」
「わかった。それは明日にでも届けてやろう。その代わり、それをつけろ。」
男はそのブレスレットを腕に通した。
街燈にかざして見ても、輝く石に囲まれた地味な石は灰色に濁ったままだ。
……まるで、俺自身のようだ……
男は自嘲の笑顔を振り払うように頭を大きく振って、振り向いた。
「これでいいだろ。」
そこには、すでに小夜子の姿は無かった。




