第1章 「喜」
小夜子は、夜のネオン街の喧噪の中をあてどなくさまよっていた。
男たちは好色の眼差しで彼女を振り返るが、その神々しいまでの美しさに声をかけあぐねていた。
雑踏のにぎわいの中でも、小夜子を包む静寂が破られることは無かった。突如、勇者という名のKYが現れるまでは。
「か~わいいね、何ちゃん、何ちゃん?」
男は酒臭い息を小夜子に吐きかけ、なれなれしく肩を抱き寄せた。
「小夜子ちゃんだ。」
彼女の答えは全く何の感情もこもっていない。質問に答えを返しただけの味気ないものだったが、その男を有頂天にさせるには十分だった。
「小夜子ちゃん。暇ならぁ、カラオケとか、おじさんと行っちゃいませんか?」
「カラオケ……それに行けば、お前は嬉しいのか。」
「小夜子ちゃんと一緒ならぁ、どこでも嬉しいよ。ホテルなら、なお嬉しいかな~」
彼女はしばらく黙って、頭の中でその単語を検索する。
「ああ、すまんな。『そういう機能』は持ち合わせていないんで、カラオケで頼む。」
「小夜子ちゃんは、商売の人じゃないんだね。オッケー、オッケー。」
何だか会話がかみ合っていない事すら気にせず、男は小夜子の手を引いた。
「小夜子、先に歌いなよ!」
狭い密室で気の大きくなった男は、すでに小夜子の隣にぴったりと寄り添い、ご機嫌でマイクを突き付けてくる。
「歌はよく知らん。お前が歌うがいいぞ。」
男は不服そうに口をとがらせた。
「え~、歌ってくんないと、おじさんつまんない~。」
「『つまんない』……嬉しくないという事だな。お前はカラオケに行けば嬉しいと言ったのに、嬉しくないんだな。」
「そうだよ~。つまんないよ~。」
「ならば、お前の『嬉しい』とはなんだ?」
男はへらへらと笑いながら小夜子にすり寄ってきた。
「え~、女の子とこういう事が出来て、おいしいものが食べられて、後は……車!かっこいい車とか買えちゃうと、嬉しくなるかな。」
「買えばいいじゃないか。」
「わかってないな~。サラリーマンって、そんなにお金持ちじゃないよ。生きていくには困んないけど、贅沢するお金なんかないんだよ。」
「お金……そうか、ここでは何をするにもそれがいるんだったな。」
小夜子は出会ってから始めて、真っ直ぐに男の顔を見た。
「お金があれば『嬉しい』か?」
「そりゃあ嬉しいよ。くれるの?お金。」
「くれてやる。これを持っていろ。」
小夜子は小さなストラップを取り出し、男に握らせた。
「あ~、残念。スマホだから、ストラップは使わないんだよ。」
「ならば鞄にでもつけておけ。」
男は酔いのまわった、どろりとした眼差しでそのストラップを確かめた。何の変哲もないそのストラップのアクセントには、道端で拾ったような地味な黒っぽい石がついている。
「いやー、若いコからプレゼントなんて嬉しいねぇ。」
男の瞳が、酔いでさらに淀んだ。
「いいか、肌身離さず持っていろよ。」
その声は、深い酔いと眠気にとらわれた男の耳にも強く残った。




