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9. 休息

 

 

 マンションの敷地の木陰で、玲央はボクを待っていた。

 それはいい。問題はその傍らに真っ赤なバイクが停まっていることだ。玲央の腕には黄色と黒のラインと〈46〉の番号が入ったヴァレンティーノ・ロッシのレプリカ・ヘルメットが通されている。シート横のフックに引っ掛けてあるもう一つのヘルメットもデザイン違いのロッシ・モデルだ。

「ねぇ、ちょっと訊いていいかな?」

 ボクの問いに玲央は白々しいくらいキョトンとした顔を向けた。

「なに?」

「君、ボクと同じ中学生だよね? それ、いったい何?」

「スズキのバンディット250。カッコよかろ?」

「そうだね……ってそういう問題じゃないから」

 そのバイクは確かに格好良かった。カウルのないネイキッドと呼ばれるタイプで、ボディ・フレームを構成する鋼管がそのまま流れるようなデザインのテールエンドにまで繋がっている。タンクには筆記体のような書体の〈Bandit〉というロゴが見える。

「どうしたの、これ?」

「父さんのバイク借りてきた。友だちと遠出するけんって言うたら、あっさりオッケーって」

「君のお父さん、警察官だよね?」

「たぶんね」

 玲央はボクの疑問をさらっと受け流すと、何事もなかったように「行こっか?」と言った。フックから外したヘルメットをボクに押し付けて、自分のヘルメットを被るとさっさとシートにまたがる。

 いくぶんの――いや、かなりの――心配がなくはないけどここでゴネても仕方ない。ボクもヘルメットをかぶって彼女の後ろに乗った。

 腰に手を回していいものか迷ったけど、振り落とされたくないのでそっと手を回した。ウェストにはまったく無駄な肉がなかった。これで本人は太りやすいとか寸胴だとか言うんだから女の子の気持ちは理解できない。

「じゃあ、行くよ」

「オーケイ。安全運転でよろしく」

「努力する」

「なんだよ、努力って?」

 返事を待たずにエンジンが始動した。土浦の従兄が乗ってた四〇〇CCに比べると一回り小っちゃいけど、それでも野太い排気音には充分な迫力があった。無免許だというのが信じられないくらいスムーズに、ボクらを乗せたバンディットは道路に飛び出した。

 走り出してしまえば捕まるとか捕まらないとか、そんなことはどうでもよくなった。風を切る音で会話はまったくできないけど、二人で一つの空間を共有しているということがボクの胸を熱くしていた。前後が逆だったらよかったのになと少しだけ思った。

 何かを感じたのか、玲央は首をほんの少しだけ後ろに向けて小さくうなずいた。


 スポーツクラブは薬院やくいん六つ角の近くにあった。天神の南側、文字通りの繁華街の一角だけど、裏通りに入れば意外なほど静かだ。玲央は手慣れた様子で駐輪場にバンディットを突っ込んだ。運転技術を見ても分かるように彼女が日常的に無免許運転をしているのは間違いない。

 入館料を払って更衣室に入った。さっそく着替える。学校で使う水泳パンツでは情けないので、海水浴に行ったときのサーフパンツにしていた。タオルとスイミングキャップ、ゴーグルを持ってプールに向かう。

 スポーツクラブに来るのなんて初めてで、どういう態度でいればいいのかなんて分からなかった。プールサイドにいるのはみんなボクらよりずっと年上で、一番近そうな人でもやたら筋肉質の大学生だった。水泳部の人なのか、競泳用のブーメランみたいなパンツだった。恥ずかしくてボクにはとても履けそうにない。履いても似合わないだろうけど。

 ビルの二階にあるとは思えない広々としたプールには秋晴れの陽射しが差し込んでいた。それがゆっくりと揺れる水面に反射してキラキラと光っている。学校のプールみたいに消毒液の匂いがするものだと思っていたけど、そんなことはなかった。ボクはプールサイドでストレッチをしながら、玲央が出てくるのを待った。

 未だかつて、これほどドキドキしたことがあっただろうか。どんな水着で出てくるんだろうとか、ひょっとしてスクール水着だったらボクだけそうじゃないのは悪いかなとか、ひたすらどうでもいい考えが頭の中をグルグルと駆け巡る。

「――亮太!!」

 玲央の声がボクを呼んだ。振り返るとこっちに小走りに駆けてくる彼女が見えた。

 声が出なかった。

 胸元にSPEEDOのロゴが入ったブラックのワンピース。サイドにブルーの幅広のラインが入っていて、ただでさえ長身の玲央をよりスマートに見せている。残念ながら胸の起伏にはちょっと欠けるけれど、そんなことは気にならないほど彼女は魅力的だった。

「お待たせー。更衣室が混んどったけん、時間がかかったとよ」

「プールサイドを走ると危ないよ」

 ボクは素っ気なく言った。玲央はちょっとムッとしたように口を尖らせた。

「ふーんだ。亮太ってホント、小言が多いって」

「どうせ若年寄だよ、ボクは」

 そっぽを向くとどうしてもぶっきらぼうな物言いになる。もちろん、気に入らないことがあるわけじゃない。彼女のほうを向いていたら、視線を引き剥がすことができなくなりそうだったからだ。

 玲央はそんなボクの気持ちになんてまったく気づいちゃいなかった。彼女はストレッチもそこそこに水中に身体を滑り込ませた。

「玲央! ちゃんとゴーグルしないと!」

「えっ!? あ、そうやん、忘れとった!!」

 玲央は弾けるように笑う。ボクはその笑顔を――それと彼女の水着姿を――懸命に目に焼き付けようとする。



「――ふわあ、楽しかったぁ」

 上気した玲央の顔はほんのりと赤く染まっている。おかげで手元のジンジャーエールがまるでビールに見える。普段は甘いものを飲まないという彼女も、さすがに運動のあとはコーヒーじゃないらしい。

「はしゃぎ過ぎだってば。周りのひとが睨んでたよ」

「そんなん、楽しんだ者勝ちって。気にせん、気にせん」

 玲央はパタパタと手を振ってみせる。

 ボクらはスポーツクラブを出て、すぐ近くにある玲央のお祖父さんの会社が入ったビルにいた。法人会員のカードを返さなくちゃならなかったのだ。

 返したらそのままお昼を食べに行くつもりだったんだけど、お祖父さんに「来客が終わるまで待っとけ」と言われて、ボクらは場違いにも社長室に通されていた。社長の孫娘とその友だちということでジュースを運んできてくれた事務のお姉さんもなんだか畏まった感じだった。

 玲央はその場にあったスポーツ新聞を広げていた。野球もサッカーもあんまり興味がないと言っていたから、たぶんプロレス欄を読んでいるんだろう。

「君っていいとこのお嬢様だったんだね」

 玲央は紙面から顔を上げて、ちょっとだけはにかんだ。

「意外?」

「そんなことないけど。――でもさ、君のお祖父さんってすごいオーディオ・マニアなんだね」

「まぁね」

 ボクは部屋の一角にある高級そうなオーディオ・セットを眺めた。

 アンプにはSANSUI、スピーカーにはJBLのロゴが燦然と輝いている。よく見るとラックの中のメーカーはバラバラだった。本当のマニアはメーカーのフルセットじゃなくて、パーツごとにそれぞれのトップメーカーのものを揃えたがるという話を聞いたことがある。そういえば玲央のコンポも中学生にしては贅沢な代物だった。彼女が音楽にうるさいのは血筋なのかもしれない。

「どんなの聴くんだろ。やっぱりクラシックとか?」

「クレイジー・ケン・バンド」

「……えっ?」

「正直どうよって思うけどねー。まあ、老い先短い年寄りの楽しみやけん、好きなごとさせとこうって」

 確かに、CDプレイヤーの前には〈GRAN TURISMO〉のド派手なアメ車のジャケットが立て掛けてあった。玲央がリモコンに手を伸ばすとスピーカーからタイトル・チューンが流れ始めた。このメロディ・ラインが時代を先取りしてるのか、それとも時代遅れなのか、ボクにはよく分からない。

「おう、待たせたな」

 玲央のお祖父さんは〈GT〉のリフレインにあわせるように口笛を吹きながら部屋に入ってきた。

 面長で鼻筋が通っているところは玲央のお母さんと似ている。でも、目元が鋭いところはむしろ玲央のほうに引き継がれているような気がした。フサフサの真っ白い髪と口ひげ、サックスブルーのシャツと緩めたネクタイ、白っぽいベージュのスーツの組み合わせ。これに麦わら帽子とサングラスがあればハワイ旅行のパンフレットのモデルが勤まりそうだ。少なくとも建設会社の社長には見えない。

「いったい何ね? わけも言わずに待っとけとかさ」

 玲央はいきなりつっけんどんな口調だった。お祖父さんは生意気な孫娘を横目で睨みながらボクの近くまで歩いてきた。

「二人で何か美味かもん食べに行かれるごと、小遣いやろうかと思ったとさ。それに玲央がボーイフレンド連れてくるとか初めてのことやけんな。ちゃんと挨拶しとかんといかんやろ?」

「変なこと言わんで」

 なんだよ、変なことって。

 ボクはソファから立ち上がって、ちょっと緊張しながら挨拶した。お祖父さんはニッコリと笑って手を差し出した。そんなにガッシリした感じでもないのに節くれだったとても力強い手だった。

 玲央は握手の様子を膨れっ面で見ていた。

「お小遣いくれるんなら早うちょうだい。お祖父ちゃん、そんなヒマと?」

「おまえ、それが人にモノば頼む態度か?」

 お祖父さんは顔をしかめた。

「昨日も急に「明日、プールに行くから法人カード貸せ」とか言い出すし。おかげで総務のお局さんたちがエアロビに行かれんかったとぞ」

「えっ?」

 思わず言葉が洩れた。今朝の電話の口ぶりではたまたま借りられたような感じだったし、それも、誰も使わないから勿体ないという話じゃなかったっけ?

 目をやると玲央は挙動不審な目の逸らしかたをしていた。その様子を見て、お祖父さんはニタリと意地悪そうな笑みを浮かべて咳払いした。

「玲央、スポーツクラブのプールでデートとか、中学生にしてはなかなか洒落とうやないや。おまえも母親に似て男っ気んなかけん心配しとったけど、こげん立派な彼氏ば連れてくっとは驚いたぞ」

「ちょっとッ!!」

 玲央は露骨に狼狽えていた。

「違うとや? わしはてっきりそうって思っとったとに」

「バ、バ、バカなこと言わんでよッ!!」

「おいおい、バカなこつってなんや。彼氏に失礼やろ」

「やけん、彼氏やなかってッ!!」

 ボクとしては彼女の狼狽っぷりが微笑ましく思える反面、そんなに激しく否定しなくてもいいじゃないかとも思う。

「二人のツー・ショット撮って良かか? 祖母さんに見せたら泣いて喜ぶぞ」

「だけん、人の話を聞かんねってッ!! もう耳が遠くなっとうとッ!?」

「おまえ、相変わらず素直やなかなぁ。わしにとぼけたってしょうがなかやろうに。なぁ?」

 最後の「なぁ?」はボクに向けられたものだった。同時に玲央のきつい視線が飛んでくる。ボクは「あははは」と曖昧極まりない苦笑いでその場をやり過ごした。他にいったい何ができるというんだ?

 それからしばらく、玲央とお祖父さんは掛け合い漫才のような言い合いを繰り広げた。

「ホント、そろそろボケが始まっとうとやないと?」

「バカ言えって、おまえほどやなかよ。そういえば真司くんから聞いたばってん、おまえ、こん前の試験ボロボロやったらしかな?」

「うっ……」

「栄養が脳みそやなくて、身長にばっかり行っとうとやないとや?」

 こう言っちゃなんだけど、彼女の成績はそう言われても反論できないレベルだ。決して頭が悪いわけじゃないし、知恵も回る――特に悪知恵が――のに、どうしてあそこまでペーパーテストに弱いのかはちょっとした謎だ。

「せっからしかね、そがんことなかってッ!!」

 玲央はいよいよ顔を真っ赤にして反論した。ボクの存在は完全に忘れ去られているようだ。お祖父さんの悪党めいた笑みがますます深くなる。

「そがんこつあるって。それにおまえ、乳もぜんっぜん大きゅうならんなぁ。まったく、頭が悪かだけならともかく、そがんとこまで母親に似らんでちゃよかろうに」

「知らんって、このエロ爺ィ!!」

「おまえ、自分の祖父ばつかまえてエロ爺ィっちゃなんや。わしの示現流の餌食にしちゃろうか!?」

「やれるもんならやってみらんねッ!!」

 おいおい、本気かよ。

 お祖父さんがステッキを手にし、玲央がテーブルを叩いて立ち上がろうとしたとき、一ラウンド終了を告げるゴングのように電話が鳴った。

 お祖父さんは玲央を手で制して受話器を取った。深い皺が刻まれた顔が急に真顔に変わった。どうやら仕事の話、それもちょっと真剣な話のようだった。

「行こうか?」

 ボクは言った。我に返った玲央がうなずく。

 お祖父さんは受話器を肩と首で挟んだまま、財布から札を抜いて玲央に手渡した。玲央はひったくるように受け取った札を無造作にポケットに突っ込んだ。

 社長室を後にしてエレベータに乗った。バンディットを停めてある地下一階のボタンを押した。玲央の頬にはまだ興奮の名残りの赤みが残っていた。

「カード、わざわざ借りてくれたんだ」

「へっ!?」

 聞いたこともない裏返った声。否定の言葉を探していたようだったけど、やがて、玲央は諦めたように短く息をついた。

「……筋肉痛が出てくる頃かなって思うたし、稽古も行き詰ってる感じやったけんね。少し気分転換したほうがよかかなーって思って」

「そう。――ありがと」

 玲央はしばらく押し黙っていたけど、不意に別人のようにニッコリと笑った。

「ね、何食べる?」

「ボクは何でもいいけど」

「じゃあ、お鮨食べに行かん? ソラリアの近くに美味しいとこがあると」

「高いんじゃないの?」

「だーいじょうぶ。軍資金はたっぷりあるけん」

 玲央はさっき受け取っていたお札をボクの目の前で広げた。せいぜい五千円だと思っていたら一万円札だった。

「いいの?」

「いいって。あのじじいも二人で美味いものを食えって言うたやん。――あ、でも、一つだけ条件があるけど」

「……条件?」

「今日、二人でプールに行ったんはナイショ。誰にも言うたらダメ」

 ボクは玲央とのデート――全否定されてたけど――を自慢すらしたい気分だった。でも、彼女がそう言うのならそうせざるを得ないだろう。

「りょーかい。誰にも言わない」

「約束できる?」

「もちろん」

 指きりでもさせられるかなと思っていたけど、そこまで子供っぽいことは言わなかった。

 代わりにボクは拳を握って彼女に突き出して見せた。玲央はニヤリと目を細めて、ボクの拳に自分の拳を軽く打ち合わせた。

 

 

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