8. 賭け
「……いててて」
一晩中、冷却用のジェルシートを貼っていたにも関わらず、目の周りの腫れはまったく引いていなかった。
時計を見た。七時半。もぞもぞと起き上がって剥がしたシートを丸めて屑籠に放り込んだ。
昼休みのスパーリングが始まって――水曜からはそれに放課後が加わった――昨日でまる五日が過ぎた。
もともと運動慣れしていないボクの身体は悲鳴を上げていた。さすがに筋肉痛のピークは過ぎたけど、身体が水を吸った砂袋のように重い。
鉛のような脚を引きずって顔を洗いにいく。水のひんやりした感触がある間だけは痛みを忘れることができるけれど、タオルで拭えば擦れて痛みがぶり返す。だからって顔を拭かないわけにはいかない。他人の顔に触れるように、そろそろとタオルに水気を吸い取らせた。
意を決して、鏡に映る自分の顔を覗き込んだ。
唇の端は切れて青黒くなっている。目の周りに限らず、顔中の皮膚がグローブで擦られて真っ赤だ。顎のちょうつがいの部分もなんだかガタがきているようで、顔全体が歪んでしまっているような気がする。
顔も最悪だけど身体はもっと悲惨だ。上半身の前半分でパンチを受けていないところは一箇所もなかった。鳩尾と脇腹にだけは絶対に喰らうなと言われたので意識してガードしたのに、覚えているだけでも鳩尾に三発、脇腹にいたっては五発も喰らってしまっていた。
玲央が放つのは手数とスピード優先の軽いパンチ、いわゆる手打ちだ。おまけにグローブも初日以外は練習用の柔らかいものを使っている。だから、当たったところで単発ではそれほどのダメージはない。被弾したところにはじけるような傷みを残していくだけだ。
ただ、それでも何発も喰らえばやがては身体の芯まで響いてくる。逆に言えば、それだけボクが玲央のパンチを避けきれていないということだ。
「ちょっと、亮太ッ! あんた、休みだからっていつまでも寝てんじゃないわよッ!! ――あれっ?」
ボクの部屋のほうで姉貴の声がする。自分が学校に行く日にボクが休みなのが気に入らないらしい。逆のときは何があっても起きないくせに。
「……なんだよ、とっくに起きてるっつーの」
ダイニングに入っていくと朝ご飯が並んでいた。チーズトーストと巣篭もり卵、ポテトサラダ。姉貴が作るご飯はガスレンジを使わないのが特徴だ。トーストはマヨネーズとチーズをのせてトースターへ。巣篭もり卵は袋売りの千切りキャベツに卵をのせてラップして電子レンジへ。ポテトサラダは惣菜屋のパックから移すだけだ。今まではそれが当たり前だと思っていたけど、あれだけ料理をこなす中学三年生を見ると姉貴がものすごい手抜き女に思えてならない。
早く母親に帰ってきて欲しい気がしないでもない。ただ、帰ってきたところでそれほど食卓事情が改善するわけでもない。姉貴が料理が下手なのは母親譲りだからだ。
ダイニングに戻ってきた姉貴は、腹立たしそうに手にしてたフライパン――ボクの部屋に持っていって何するつもりだったんだ?――を食器洗浄機に突っ込んだ。
「早くご飯食べちゃってよ。片付けらんないじゃない!」
「いいよ、自分でやっとくから」
ボクは冷蔵庫から牛乳のパックを取り出してマグカップに注いだ。
「父さんは?」
「休日出勤に決まってんでしょ。今週、あたしの送り迎えのために残業できなかったからって。ホント、一に仕事、二に仕事、三、四も仕事で五が巨人なんだから」
「家族は?」
「一〇番目までに入ってるといいけどね。あ、あたし、模試があるから今日は遅くなるわよ」
「へぇ、そう。バイトは休み?」
「ううん、それには間に合うように帰ってくる」
大学入試の模擬試験の会場が博多駅前の大手予備校なのは事前に確認済みだ。午前中は学校だし、今日はちゃんとバイトに出てることを確認すれば、あとはゆっくりできそうだ。
「それにしてもあんた、ちょっとやり過ぎなんじゃないの?」
姉貴はボクの顔を見ながらしみじみと言った。
「何がだよ?」
「カツアゲに遭ったみたいよ。ナニ考えてんのかしらないけど、空手なんてやめたほうがいいんじゃないの。あんたみたいなもやしっ子にはムリだって」
「うっせーな。さっさと学校行けよ」
自分でも意外なほどドスが効いた声だった。姉貴は「……何よ、心配してやってんのに」とブツブツ言いながら席を立った。
姉貴が出て行くのを見送ってから、テレビを横目にテーブルの上のものを胃に詰め込んだ。あまり食欲はなかったけど食べないと身体が持たない。食べ終わった皿をサッと洗って食器洗浄機に押し込んだ。
振り返ると食器棚のガラスにボクが映っていた。寝起きというだけじゃない冴えない表情。瞼がボンヤリ腫れ上がっているせいでやけに膨れっ面に見える。姉貴が言ったようにこれじゃまるで虐められっ子だ。
* * *
「とりあえず、受けは捨てるから」
初日の月曜日。練習開始の開口一番、玲央はあっさりと言い放った。
「ちょっと待ってよ。ディフェンスの練習だって言わなかった?」
「言ったよ?」
「だったら、まずは受けからやるもんじゃないの?」
玲央から実戦的な練習をやると言われて、実は昨夜、ボクはあらためて空手の入門書を読み返していた。もちろん本なんか読んだって技は身につかないけど、理屈を分かっていたほうが少しでも覚えがよくなると思ったからだ。
「あんたがやるんが空手の試合なら、それでも良いとやけどねぇ」
反論は予想していたのか、玲央の声音に変化はない。実は「口答えするな!!」とか一喝されるだろうと思ってビクビクしていたのだ。
「どういう意味だよ。相手がボクシングだって同じだろ?」
「じゃあ訊くけど、相手がメリケンサック嵌めとったらどうすると?」
「それは……」
ボクは答えに詰まった。玲央は腰に手を当てて、出来の悪い弟子に言い聞かせるようにボクの顔を覗き込んだ。身長差を埋める為に彼女が前かがみになっているのが余計にボクの劣等感を刺激した。
「いい? 路上のケンカじゃ相手の攻撃はぜんぶかわすのが基本。ブロックは避け切れんかったときの緊急避難。みんなが見よる前でのタイマンならあんまり卑怯な真似もできんけど、あんたが相手にしようとしとうとはメリケンサックどころか、ナイフ出してきてもおかしくない性質の悪いヤンキーなんよ。あんた、防刃ジャケットか何か着て闘うつもり?」
「……ごもっともです」
「まぁ、ホントはそれでも防御から入るべきっちゃけど、あんたの場合は時間ないけんね」
「分かった。で、どういう練習をするんだい?」
「アタシがパンチを撃つけん、あんたはそれをかわしながらアタシが出した手を捕る。そんだけ」
「それだけ?」
「かわすんだってホントはそれなりの技術が要るとよ。でも、それを系統立てて身に付けるにはやっぱり時間が足りんしねぇ。だったら、少しでもパンチを見ることで経験を積むしかないやん?」
確かにそうだった。
「手を捕るっていうのは?」
「出した手を狙われるっていうんは嫌なもんよ。あんた、吼えながら噛みついてくる犬の鼻面、殴れる?」
「なるほどね」
それだって相手のハンドスピードについていけなければ同じことだけれど、それを言ったら対策は何もないことになる。要は玲央のパンチを見ることで少しでも距離感やタイミングをつかめということだ。
「ボクサー対策っていうから、ロー・キックの練習とかやるのかと思った」
「相手は蹴ってこんけん、ローで出足を潰せばオーケーってヤツ?」
「……違うの?」
玲央は少し小馬鹿にしたように口許をゆがめた。
「よっぽどの実力差があるか、そいつがボクシング始めて間もないとやったら有効かもしれんけどねぇ。蹴りを使えんけんって自由に脚を蹴らせてもらえるほど、ボクサーの攻撃範囲は狭うなかよ。アウトボクサーならかわされるし、インファイターならステップインで入ってこられるし。蹴り終わりは棒立ちでいい的やしね」
パンチは移動しながら撃てる。でも、蹴りは基本的に足を止めないと撃てない。しかも蹴り足を戻すまでは片足立ちになる。玲央が言ってるのはそういうことだった。
玲央は時計にチラリと視線を送った。グローブの手のひらをわざと大きな音を立てて打ち合わせる。
「さ、おしゃべりは終わり。さっさと始めるよ。――あ、そうだ。せっかくやし、賭けん?」
「賭け?」
「そ。あんたがこの一週間で一回もアタシの手を捕れんかったら、アタシの言うことを何か一つきくっていうのは?」
「なんだい、それ。じゃあ、もし捕れたら?」
「そのときは――アタシも何か、亮太の言うこときいてあげる。あ、でも、あんまり変なのはナシね」
いくらボクが素人だからってそれは舐め過ぎだ。ボクはちょっとムッとしていた。いくら何でも一度も捕れないことはない。
ボクはオーケーと答えた。
* * *
しかし、ボクはそれから一度も玲央の手を捕まえることができずにいた。
もちろん瞬間的に触れることはできるし、何度かはパンチをもらう覚悟で組み付いたりもした。ところが女の子とは思えない力で振り切られるか、反対側のパンチを喰らって押し戻されてしまうのだ。
――相手の軸線上で勝負してどうすっとねッ!!
玲央の叱咤が脳裏に甦る。
バックナックルを除けばどんなパンチも身体の軸線上にしか体重を乗せては放てない。さらにフックは身体の内向きにしか放てないので、いきおい、パンチをかわすには相手のリードパンチの外側に移動して、身体を開かせることが重要になってくる。
理屈としては分かる。ただ、分かっていることと実際にやれることの間には天地の開きがあった。
タイムリミットまであと二日。
別に玲央にボクの言うことをきかせたいわけじゃない――変な妄想をしたことは認める――けれど、一週間も付きあわせておいてまったく進歩がないというのも恥ずかしいというか、情けない話だった。今日こそ成功させてやろうとボクは目を閉じて玲央のパンチを思い浮かべた。
そういえば今日の練習をどこでやるのかを聞いていなかった。電話しようと部屋に戻ったところで、携帯が鳴った。着メロは宇多田ヒカルの〈traveling〉――玲央からだ。
「もしもし?」
「起きとった?」
声が少し弾んでいる。朝練でもしてたんだろうか。
「ついさっき。どうしたの?」
「うん、ちょっとね。今日のお姉さんの予定は?」
「午前中は学校、午後は予備校で模試。夕方からはバイト」
「そっか。となると、怪しいのはその後ってことかぁ」
そうだねと答えかけて、何かが引っかかった。
「どうして?」
「えっ? あ、いや、そうかもって思っただけ。ホラ、夜遊びさせんようにしようにもお母さん帰ってこんし、お父さんはまったく期待できんって言うたやん」
「……そうだけど」
姉貴に甘い父親はこの際、夜遊び防止装置としてはまったく役に立たない。実は水曜日の夜、敵が「ちょっと友だちのところへノートを借りに行く」とほざいて、バイト先からの帰宅時間を引き延ばそうとしたのだ。あっさり「いいよ」と答えそうになった父親の後ろで、ボクが「母さんから電話だけど何か伝えることある?」と怒鳴ったから、渋々諦めて帰ってきたんだけど。
自分で言うのもなんだけど嫌な奴だな、ボク。
「ところで亮太、今日は予定あると?」
「ないよ。っていうか、今日はどこで練習するのさ?」
「それなんやけど、ちょっと目先を変えるっていうか――プール行かん?」
「はぁ?」
そりゃまた唐突な。
なんでも、玲央のお祖父さんの会社がお付き合いで入っているスポーツクラブが今泉――天神の周辺らしい――にあるんだけど、誰もカードを使わなくて勿体ないということで彼女に回ってきたらしかった。ちょうど二枚あるので一緒に行かないか、ということだった。
いくらダラダラ暑くてもさすがにプールという季節じゃないけど、身体が痛いのもあるし、何より玲央の水着姿が見られるとあっては断る理由なんてどこにもない。
「街中かぁ。この前みたいに香椎からバスで行く?」
「ううん、アシがあるから大丈夫。今から迎えに行くけん、準備しとってね」
玲央はそう言うと返事を待たずに電話を切った。
アシ?
誰だろう。写真に映ってた〈あいつ〉だろうか。そう思うとちょっとだけ渋い気分になる。
でも、玲央はカードは二枚だと言った。仮に送り迎えがあいつだとしても一緒にプールに行くのはボクだ。それにあいつも玲央のお父さんと同じ警察官なら、そんな一日中、時間が空いてるわけでもないだろう。
お祖父さんあたりじゃないかなと思いながら、ボクは水着を押し込んだクローゼットを引っ掻き回しにかかった。