7. 特訓
「お~い、亮太。ちょっとよかや?」
翌日、月曜日の三時限目の休み時間。杉野がボクの教室に顔を出した。杉野はただでさえ細い目をさらに細くして意味ありげな含み笑いを浮かべていた。
「なんだよ?」
「栗原から伝言。昼休み、体育館に来いって」
……体育館?
「なんだろ、一体?」
「さあ? 俺はただ、栗原から「三浦を呼んで来てくれ」って頼まれただけやもん。――おまえ、栗原か、栗原の友だちに何かした?」
「まったく心当たりないけど。どうして?」
「今まで、栗原が誰かに呼び出されることはあっても、誰かを呼び出すこととかなかったけんさ」
杉野は無意味に声をひそめた。
「ウチのクラスの男子の間じゃ「眠れる獅子が遂に目を覚ました!!」とか言って大騒ぎになっとうぜ?」
「意味分かんないけど……。まぁ、いいや。とにかく行くよ。そう伝えて」
「分かった。俺、こっそり着いてったほうがいいか?」
「何でこっそりなんだよ?」
「俺、まだ死にとうないもん」
ボクは心の中で盛大な溜め息をついた。どうしてこんな薄情者と友だち付き合いをしてるんだろう。
「……いいよ、一人で行く」
「そうか。覚悟はできとうわけか」
杉野の中では勝手に妙なストーリーができあがっているようだった。バカバカしくて付き合っていられないので、教室の時計を指してやった。四時限目が始まるまであと二分しかない。
「そんじゃな。冥福を祈る」
「健闘を祈るの間違いだろ」
「相手が栗原なら同じことやん」
「さっさと行けよ」
ボクは手で杉野を追い払った。
二十一世紀になってずいぶん経つけど、気に入らない奴を校内の目立たない場所に呼び出すという伝統はこの学校にも残っているらしい。前の学校じゃプールの裏が不良少年・少女たちの屋外特設リングだった。ここでは昼休みの体育館がそうなんだろうか。
もちろん、玲央にそういう目的で呼ばれるはずも覚えもない。何か他の理由があるのだろう。それが何なのか、まるで見当がつかないけど。
「――おそいッ!!」
玲央はとんでもなく不機嫌だった。
体育館の一角には六メートル四方くらいにマットが敷き詰められていて、彼女はその上で軽くストレッチをしていた。学校の体操服じゃなくナイキのトレーニング・ウェアの上下を着込んでいる。足にはサポーター。手には総合格闘技で使うようなオープンフィンガー・グローブ。その真新しいブルーがやけに禍々しく見える。
「ど、どうしたの?」
恐る恐る問い掛けるボクに玲央は獲物を射殺すような視線を向けてきた。
「あんた、昼休みになったら体操服に着替えてすぐ来いって言うたろ? あと、給食は食べるなって!」
「えーっと……そうなの?」
杉野とは後でキッチリ話をしておかなければなるまい。度し難いお調子者なのは知ってたけど、伝言も満足にできないとは思わなかった。
「と言うか、何でボクが給食を食べてきたって分かるのさ?」
「シャツの胸にケチャップが跳ねとうやん。あのね、そういうのてなっかなか落ちんとよ?」
「中学生とは思えない発言なんですけど……」
玲央はボクの指摘をあっさり聞き流した。
「とにかく、始めるけんね」
「何を?」
「昨日、明日から実戦的な練習始めるって言うたやんね!」
「えーっ、ここで!?」
ボクは思わず大きな声をあげた。
その拍子に体育館の窓越しに空気がざわつくのを感じた。外にはかなりのギャラリーがいるようだった。杉野に呼び出しなんかやらせるのは、メガホンを持ったサンドイッチマンに伝言を頼むのと同じだった。
「ちょっと待ってよ。練習は道場でやるんじゃないの?」
「冗談やろ。あんたが道場で練習しよる間、誰がお姉さんを見張ると?」
――なるほど。そういうことか。
昨日、家に帰る道すがら、ボクと玲央はどうやって姉貴とあいつを見張るかについて話した。玲央を巻き込みたくはなかったけど、彼女はそれが当たり前のようにアイデアを出してきた。
実際のところ、あの二人はそれほど頻繁に会っているわけじゃなかった。姉貴の高校は意外と厳しくて、親が休みの届けをしない限り、休んだ生徒の家に電話がかかってくるからだ。つまり、週五日の朝から夕方までと土曜の昼までは問題ない。
それに姉貴はボクと同じく香椎にある塾に通っている。ここはさらに厳しくて、サボれば間違いなく親へ連絡が行く。ここが火、木、金の週三日。女の子一人での電車通いは危ないという理由で、終わると母親が迎えに行くことになっている。今は母親は不在だけどその間は父親が行くはずだ。したがって、塾がある日に二人が会うことは不可能だ。
問題は残りの四日だった。
この四日のうち、日曜以外の三日は夕方六時から一〇時までは家の近くのコンビニでアルバイトをしている。あいつとの接点があるとすればここだ。出会ったのもおそらくはここじゃないかとボクは睨んでいる。
ただ、バイトが終われば姉貴はすぐに家に帰らなくてはならない。一度、そのまま友だち(女)の家に行って遅くなり、今度やったらバイト禁止を言い渡されているからだ。それにコンビニ周辺には人の目がある。ボクが夜の通りで見たような事態にはならないだろう。
つまり、問題になるのは土曜の午後と日曜日。
「でもさ、バイトは休んだって親に連絡行かんよね?」
「そうだけど、じゃあ、どうすればいいんだよ?」
「手っ取り早いとはバイトしよるはずの時間帯に店に居座ることやけど……まぁ、そういうわけにはいかんよね。遠巻きにでも見張るしかないっちゃないかな。幸い、あんたは道場に行っとる時間やけん、その間は出歩けるし」
「なるほどね」
道場に払った月謝がもったいないけど、そんなせこいことを言ってる場合じゃなかった。
「でもさ、だったら、ボクの特訓はどうなるのさ?」
「うーん……それはちょっと考える」
その考えた結果が昼休みの体育館というわけらしい。
「そういう理由なら、こんな「真昼の決闘」みたいなことしなくてもよかったんじゃないか?」
「そのほうがウケるやろうって思って」
「……誰に?」
「外で見ようギャラリー」
玲央が窓の外に向かって顎をしゃくる。いつまでたっても殴り合い――というか、玲央による一方的な攻撃が始まらないので、外のギャラリーの空気がダレ始めている。何を期待してるんだか。
「秘密にしとったってどうせ知れ渡るし、それなら最初からオープンにしといたほうがウダウダ言われんで済むけんね。学校側にはあんたがウチの道場に入ってきたけどまるでダメなんで、特別に稽古をつけてやってるってことになっとうとよ」
何ですと?
「空手のこと、みんなにしゃべったのか?」
「しょうがないやん。そうせんと体育館使わせてもらえんし。あ、みんなに在らぬ誤解されんように、あんたは空手を教えてあげる代わりにアタシの宿題とか面倒なことをやらせる子分ってことになっとうけん、話合わせとってね」
「マジかよ……」
在らぬ誤解をされるほうが三〇〇倍くらいマシなんだけど、言っても始まらなかった。玲央の態度に一片の悪意も感じられないのがボクの憤りを行き場のないものにしてしまっていた。
「何か、質問は?」
「……ないよ」
「オーケー、じゃあ、始めよっか」
着替えに戻る時間がもったいないからとりあえず靴下を脱げ、と言った。ボクは言われた通りにした。
その間に玲央はダンスのような軽やかなステップでシャドウ・ボクシングを始めていた。左のダブルから右、そして左のボディアッパー。軽くバックステップしてから、左にサークリングしながら軽快に矢のようなジャブを集める。
閃光のようなハンドスピードだった。一発一発に体重を乗せて撃ち込む空手の突きより、手数を放つこの手のパンチのほうが彼女に向いているような気がした。実際、彼女は突きはあまり得意でもないし好きでもないと言っていた。
「へへっ。付け焼刃にしてはサマになっとうやろ?」
呆然と見つめるボクに玲央は笑いかけた。
「そうだけど……。どうしたのさ、いきなり?」
「あのヤンキーがどんなスタイルかは分からんけど、ちょっとでも対策しといたほうがよかけんね」
そう言えば玲央はあいつをボクサーだと言っていた。
「だからボクシング?」
「そう。実はウチの半居候が元ボクサーなんよ。で、ご飯すっぽかした罰にちょっと教えてもらったってわけ」
玲央は事も無げに言う。しかし、それはいくら彼女が格闘技に関するセンスに恵まれていても、口で言うほど簡単なことじゃないはずだ。よく見ると玲央の目は充血していた。ひょっとして寝不足になるくらい練習したんだろうか。
玲央はもう一度、グラブを打ち合わせた。
「さ、おしゃべりは終わり。あんまり時間ないとやけんね」
「分かった」
ボクは首を軽く回して肩を上下させた。そして、ゆっくりと一礼してからマット――いや、リングに上がった。