5. 縦蹴り
取り留めのない話をしているうちに外はすっかり暗くなっていた。留守番電話に遅くなると吹き込んではおいたからボクのほうはいいんだけど、女の子の家にあんまり居座るわけにもいかない。ボクはベッドから腰を上げた。
「えっ。もう帰ると?」
「ずいぶん遅くなっちゃったから」
「そのセリフ、普通は逆よね」
可笑しそうに言って玲央も椅子から立ち上がった。灯りを消そうとして、彼女は急に悪戯っぽい笑った。
「そうそう。最近、こんな練習しようとよ。ちょっと行儀悪いっちゃけど」
「えっ?」
ボクの返事を待たずに彼女は右構えの形をとると、そのまま一歩踏み出しながら身体を半回転させて、スゥッと右脚を持ち上げた。まるで爪先に糸がついていて、それを巻き上げているようなスムーズさだった。上半身を傾けてバランスを取っているので、勢いをつけずにやっているにも関わらず、身体はまったく揺れていない。
何をする気だろうと注視してると、玲央は上げた足の指で蛍光灯の紐をつまんで器用に灯りを消した。ちゃんと三回引っ張って。
「すごかろ?」
「……あ、ああ、すごいね」
言いながら、ボクの心はその場にはなかった。いくら膝丈のハーフパンツと言っても、これだけ高く脚を上げれば裾がずり上がって真っ白な太腿が剥き出しになる。それもボクの目と鼻の先で。
「な、なんで、そんなことしようと思ったんだよ?」
「うーん、今、ちょっと上段回し蹴りの練習しよるっちゃけど、その最中に何となくできそうやったけん」
「へぇ……って、君、この前、ボクの目の前でハイキック蹴ってなかった?」
最初に道場で会った日、彼女はデモンストレーションと称してサンドバッグに見事な上段回し蹴りを叩き込んでいた。
「あれとは違う奴ばねぇ。縦蹴りって言うて分かる?」
「分かるけど……。あ、ひょっとして、玲央がやろうとしてるのってブラジリアン・キック?」
玲央はコクリとうなづいた。
ブラジリアン・キック――ブラジリアン・ハイキックと呼ぶ人もいる――は極真空手出身のK-1ファイター、グラウベ・フェイトーザの代名詞と言ってもいい技だ。この技の本場ブラジルではクビゲリとも呼ばれていて、その名の通り、横回転のハイキックを腰を返すことで縦方向の蹴り下ろしに変化させて、相手の首筋や肩口、鎖骨なんかを狙う変則的な上段縦蹴りのことだ。単純に蹴り込む回し蹴りに比べると威力は落ちるけど、予想外の方向から襲ってくるのでノーガードの状態で喰らうことになる。決まれば一撃必殺の技だ。
「すごいね。できそうなの?」
「脚を上げるとこまではなんとかね。でも、その先の腰の返し方のコツがイマイチ掴めんとよねぇ」
もう一度、玲央は脚を上げた。さっきよりも身体を開いて、テレビで見るフェイトーザと同じような構えになっている。脚が最大到達点にきたところで彼女は腰を返そうとした。
その途端にへっぴり腰のような感じでバランスが崩れた。
「危ないッ!!」
ボクは慌てて手を伸ばした。とっさにボクの手と肩を掴んだ玲央に引き倒されないように必死に踏ん張った。
「ふー、ビックリしたぁ」
何とかでその場で持ち応えた玲央は、少しおどけて額を拭う仕草をしてみせた。いや、そんな呑気な話じゃないから。
「しっかりしてくれよ。倒れて腰でも打ったらどうするのさ」
「心配してくれようと?」
「なに、バカなこと言ってんだよ」
からかうような口調に反応してぶっきらぼうな言い方になる。まだ手を握ったままなことに気づいて、自分の身体が熱くなるのを感じた。
「亮太ってば、怒っとうと?」
「怒ってねーよ」
クスクスと笑う玲央をジロリと睨みながら、乱暴な手つきにならないようにそっと身体を離した。転倒しそうになった彼女より、ボクの心拍数のほうがはるかに跳ね上がっているに違いなかった。
一〇月が目の前とは思えないほど厳しい残暑が続いていても、日が沈めばそれなりに涼しくなってくる。昼間仕様の半袖のポロシャツだと肌寒いくらいだ。
隣を玲央が歩いている。近くのコンビ二に行くというのでそこまで一緒に行くことになったのだ。と言うか、半ば強制的にそういうことになっていた。
「ボクんち、方向違うんだけど?」
「女の子一人で夜道歩かせるつもり?」
……都合が良いときだけオンナノコかよ。
「どう考えても、玲央のほうが強いじゃないか」
「なんか言うた?」
「いいえ、何も。行くんならさっさと行こう」
「ちょっとぉ、なんでそがんせかせか歩くと!?」
それはこの辺りはもう校区内で、ざっと思い浮かべただけでも一〇数人のクラスメイトの家が近くにあるからだ。晩ご飯までご馳走になっておいて今さらオタオタしたって始まらないと覚悟していても、誰かに見られることへの不安は拭えない。夜も遅くなって一緒にいれば何を言われるか、分かったもんじゃない。
恥ずかしいとかバツが悪いとかいうことじゃなかった。悪いことをしてるわけじゃないんだから、周囲に囃し立てられたって堂々としていればいいことも分かってる。まったくその気がない子となら面倒なだけだろうけれど、相手が玲央ならボクは心の中でガッツポーズをするかもしれない。
恐れているのは玲央のほうから距離を置かれることだった。何だかんだ言っても女の子だ。その気がないのに――まぁ、それはそれでへこむけど――騒がれるのは鬱陶しいだろう。そうでなくても彼女のことだからボクに妙な気を使ってくれかねない。
コンビニでの買い物――格闘技系の雑誌と日用品をいくつか――を終えると、玲央は「じゃ、また明日ね」と言い残して自分の家のほうに歩き始めた。途中、一度だけ半身で振り返ると屈託のない笑みで小さくバイバイをする。
ボクは小さく溜め息をついて、小走りで彼女の隣に並んだ。玲央は驚いたように目を瞬かせた。
「どうしたと?」
「女の子一人、夜道を歩かせちゃいけないんだろ?」
玲央はニンマリと意地悪そうに笑った。
「……ふぅん、意外と男の子やねぇ」
「意外は余計だよ」
道すがら、玲央は今夜のK-1ジャパンGPの話をしていた。内容を要約すると「武蔵は勝ったとしても判定でギリギリ」というものだけれど、それは日本中の総意に違いなかった。
「なんで相手の出方ばっかり窺うとるとかな。あれじゃ相手にペース握られると当たり前って。やられとうないとは分かるけど、自分から仕掛けてこん相手は怖くなかとよね」
「そんなに言うなら、玲央が出て行けばいいのに」
ボクは混ぜっ返す。
「ホント、男やったらK-1ファイターになりたかったな」
玲央は軽くロー・キックを放つ真似をした。他の女の子がやれば思わず引いてしまいそうな光景だけど、彼女がやると不思議と違和感はなかった。
「あーあ、何で上手くいかんとかなぁ?」
「……?」
さっきの転倒未遂のことだと気づくのに少し時間がかかった。
「たぶん、軸足が充分に返せてないからだと思うよ」
「軸足?」
正面から入って回し蹴りを放つ場合、軸足はおよそ九〇度回転する。格闘技の蹴りというのは脚を振るのではなく体軸の回転を脚に伝えるものだからだ。同じキックでも軸足をしっかり置いて足を振るサッカーとはここが決定的に異なる。
ボクもそんなに注意して見ているわけじゃないけど、覚えている限りではフェイトーザは上半身を倒しながら身体を開いて脚を振り上げている。そこまでは普通の上段回し蹴りだ。しかし、そこからさらに腰を返す、つまり体軸を回すにはさらに軸足が回らなくちゃならないはずだ。股関節の柔らかさも加味されてはいるだろうけど、人体の構造上、曲がらない方向へはどうしようもない。
「亮太って理論だけは黒帯よねぇ?」
「どうせ格闘技オタクだよ。いいからやってみなよ」
「こう?」
玲央はさっそくその場で軸足をすらしてみた。相手のほうを向くほど踵を返すと、イメージとしては高く上げた脚で何かを跨ぎ越すような格好になる。さっきのへっぴり腰が嘘のように玲央の脚が空中できれいな弧を描いた。
「うまく蹴れるみたいだね」
平然を装いつつも、ボクは内心、とても誇らしい気持ちだった。ところが玲央は納得していないようだった。
「グラウベって蹴った後、こがん後ろ向きになっとったっけ?」
「実際には相手に当たるから、そんなふうに振りぬくことってないような気がするけど。なんならビデオで確認してみたら?」
「それがさー」
玲央は腹立たしそうに頬を膨らませた。
「どうしたの?」
「まとめとったビデオにバカ親父が上から違うの録画してさ。アタシ、手元にグラウベの映像持っとらんとよねぇ」
「ボク、持ってるよ」
「えっ?」
「いろいろ録り溜めした奴があるんだ。試合もだけど、ニュースの映像なんかもね。道場でサンドバッグ蹴ってる奴とか。全部PCのハードディスクに放り込んであるからDVDに焼いてあげるよ」
「ホント!?」
玲央はこれまでで一番表情を輝かせた。
「いつ?」
「帰ってさっそく焼いとくよ。明日、学校で渡そうか。それとも道場でがいいかな」
「それ、時間かかると?」
「焼くの自体は……そうだな、一時間もかかんないけど。板はあるし」
「今から貰いにいったらダメ?」
意外と気が短い――というか、堪え性がないんだな。
この時間でも家に誰もいないことには確信があった。たぶん、父親はゴルフのあとはそのまま中洲だし、姉貴はバイトのはずだ。ボクはオーケーと答えた。
「でもさ、どうしてブラジリアン・キックなんだい?」
長身で手足が長い玲央がやれば見栄えがする技なのは間違いない。ただ、わざわざそんな難しい技を覚えなくても彼女には左右どちらでも蹴れる強烈なミドルキックがあったし、派手な技ならサンドバッグ相手に胴回し回転蹴りだってやってのけていた。
玲央の返事は「だって、カッコいいやん?」だった。まぁ、確かにそうだけど。
「それにさぁ、アタシ、グラウベ好きとよねぇ」
「空手だから?」
「そう。ホーストとかも好いうとうけど、やっぱりね」
「だったら、フィリョだっていいんじゃ?」
「うーん、フィリョも嫌いやなかけどね。極真の世界大会のときも応援しとったし。でもアタシ、脚光浴びるスターより、なかなか勝てない二番手ば応援しとうなるタイプなんよね。自分がそうやけんかもしれんけどさ」
この一週間、道場で玲央を見ていて、少なくとも同世代には彼女を負かせる相手などいないように思えた。スタミナさえもてば男子とだって渡り合えるだろう。
「誰か、勝てない相手でもいるの?」
「おるよ、もちろん」
「そんなに強いの、そいつ?」
「へっ?」
唖然とした表情で振り返った玲央は、少し時間を置いてから思いっきり吹き出した。ボクは恥ずかしさと気まずさに思わず口を尖らせた。
「……なんだよ、空手のライバルの話じゃないの?」
「あったりまえやん。アタシだって格闘技ばっかりしよるわけやなかとよ?」
「だったら、誰に勝てないのさ?」
「それはナイショ」
玲央はボクの目を覗き込むように見ると、意味ありげな微笑を浮かべた。