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4. 手料理

 

 

 スーパーからの帰り道、ようやく話題は格闘技のことを離れて、学校での出来事やボクが知らない先生たちの逸話に及んでいた。

「――でね、あいつ、シュートのフォームがどうとか言うて、女子の身体に触ろうてするっちゃけん。もう、ホント腹立つ!」

 玲央が言うあいつとは去年赴任してきた体育教師のことだった。彼女がたまに助っ人に駆り出されるバスケットボール部の顧問なんだけど、指導にかなり問題があるらしい。

「それってセクハラじゃないの?」

「じゃないの、やなくて正真正銘のセクハラって。ホント、いつかローリング・ソバットで蹴っ飛ばしちゃろうて思っとうとよ」

「そのときは呼んでほしいな。ちゃんとリングサイドS席の料金払うから」

「場外乱闘に巻き込まれても知らんよ?」

 二人で爆笑していると、玲央の携帯電話が鳴った。彼女はディスプレイを見て少し迷ったけど、手ぶりで断りを入れて電話に出た。ボクは礼儀正しく彼女のそばを離れた。

「……もしもし、どうしたと?」

 ちょっとぶっきらぼうな声。それが急に怒鳴り声と言っていい大きな声に変わった。

「ちょっと待ってって、来られんってどがんことッ!?」

 しばらく無言。眉根を寄せたキツイ眼差しは今にも誰かに殴りかかりそうな凶悪さだった。

「ねぇ、あんた何考えとうとって。あんたが食べたかって言うたけん、準備しとうとよ!?」

 再び無言。たぶん、相手が言い訳をしているのだろう。憤怒の表情は徐々に和らいできているけど、それでも怒りと失望のオーラが彼女のまわりに漂っていた。

「……分かった。うん、じゃあね」

 ディスプレイを一睨みして、彼女は電話を切った。

「どうしたの?」

 訊かないほうがいいような気がしたけど、何事もなかったように話せる雰囲気じゃなかった。しばらく憮然とした顔だった玲央は、やがて照れたように苦笑いした。

「父さんの同僚で、ウチにご飯たかりに来る半居候がおるっちゃけどねぇ。そいつが仕事で急に来られんごとなったって」

「その人の分のご飯も準備してたの?」

「そうよぉ。まったく、イワシの生姜煮が食べたかとか言うけん、ちゃんと霜降りまで済ませてあったとに」

「霜降り?」

 それって肉の用語じゃないのかというボクの質問に、玲央はちょっと得意げな表情を浮かべた。それは魚介類の下ごしらえを指す用語でもあって、熱湯をサッと通した後に冷水で洗うことで臭みやぬめりをとることを言うのだそうだ。

「君、料理、得意なの?」

「あーっ、亮太、アタシのことバカにしとうやろ? これでも家庭科と体育だけはずーっと五なんやけんね」

 体育は納得だけど家庭科の五はちょっと意外だった。でも、彼女が言うように「この歳ですでに主婦」なら、中学校の家庭科の課題くらいは朝飯前なのかもしれない。

「自分は食べるだけやけんて勝手なもんよねぇ。フン、奥さんにご飯も作ってもらえんダメ亭主のくせにさ」

 玲央はまだ憤懣やるかたないといった感じだった。それにしてもえらい言われようだな。

「イワシの生姜煮かぁ。美味しそうだね」

 とりなすつもりで言っただけのつもりだった。ところが玲央の顔がパッと明るくなった。

「亮太って魚、好きと?」

「そうだね、どっちかって言うと肉より魚派。脂っぽいのが苦手でさ。だから痩せっぽちなんだって言われるけど」

「へぇ、やったら、家でも魚がメイン?」

「ところがそうでもないんだな、これが。父さんが大の魚嫌いでね。我が家では煮魚は滅多に食卓に上らないんだ」

「ふうん……。ねぇ、代わりに食べてく?」

 そう言って、玲央はすぐに「……あ、もう家で用意しとう時間やね」と付け足した。みっちり練習したせいで時計はすでに六時を過ぎていた。

 どうしようかなと少しだけ迷って、ボクは口を開いた。

「……んー、まぁ、家に帰っても、何にも用意されてないんだけどねー」

「なんで? どっかに食べに行くと?」

「そうじゃないよ。茨城の爺ちゃんが畑でぶっ倒れて入院したんで、母さんが実家に帰っちゃってるんだ。なのに、父さんは接待ゴルフでいないし」

「お姉ちゃんは? おるて言いよったよね?」

「残念。ウチの姉貴は料理はまったくダメなんだ。たぶん、ボクのほうが上手い」

「やったら、食べに来たらいいやん。ウチも父さん遅いし、アタシも一人で食べるのつまらんしさ」

「いいの?」

「もちろん。よし、決まりっ!!」

 ひょんなことから女の子の家に行くことになり、しかも手料理をご馳走になるという僥倖に、ボクの頬は自分で分かるほどゆるんでいた。

 しかし、ふと、半年ほど前に我が家で起きた悲劇が脳裏をよぎった。姉貴が同級生のボーイフレンドを家に呼んで手料理を振る舞ったときのことだ。

 料理の見た目はそれほど悪くはなかった。ただ、最初の一口を食べたボーイフレンドの眉間に刻まれた皺が味の酷さを物語っていた。

 それでも彼には「こんなの食えるかッ!!」と怒鳴って卓袱台をひっくり返す、という選択肢は用意されていなかった。彼は悲痛な笑顔を浮かべながら黙々とテーブルの上の料理を口に運んだ。

 最初のうちは彼も善戦した。姉貴の目を盗んで水で流し込む――ああ、なんて美味しそうに飲んでいたことか!!――という高等テクニックも見せてくれた。

 しかし、ごまかしは所詮、ごまかしでしかなかった。徐々に食べるペースは遅くなっていき、最後にはまったく箸が進まなくなっていった。ダイニングをチラチラと覗いていたボクには、そのボーイフレンドが何発もボディブローを喰らって、残酷なほど確実に力を奪われていくボクサーにしか見えなかった。ボクは生まれて初めて、男に生まれることの辛さを目の当たりにすることになった。

 料理が好きなことと料理が上手なことの間には残念ながら天と地ほどの隔たりがある。主婦の誰もが料理が上手だというわけでもない。

 安易に喜んでいるけど、玲央は大丈夫なんだろうか?



「――うっわ、やっばいよ、コレ!」

 頭が悪そうなので普段は使わないようにしている感嘆詞が、思わず口を衝いて出た。

 心配はまったくの杞憂だった。それどころか、ボクは男に生まれることの喜びを感じていた。気になり始めてる女の子の手料理が美味しいこと以上の幸せがこの世にあるだろうか。

 料亭や割烹で出てきそうな茶色の器に盛られたイワシは美味しそうな煮汁の色に染まっている。上には針生姜が天盛りにしてある。市販のものじゃなくて、玲央が小さな包丁で刻んでいたものだ。一緒に煮たダイコンにもしっかり味がついている。ちゃんと下ごしらえがしてあるからか、臭みはまったく感じられない。

 付け合せはだし巻玉子と冷奴、ナスと油揚げの味噌汁。ご飯はしっかりコメが立っていてツヤツヤだった。他にも遠縁の親戚から送ってきた高菜漬のバター醤油炒めと、これも彼女のお手製だという筑前煮を温めて出してくれた。最後の一つは「昨日の残りなんだけど……」と申し訳なさそうだったけど、実はそれが一番美味しかった。

「ご飯、お替りなしじゃ足りんくなかった?」

「そんなことないけど。どうして?」

「男の子やけん食べるかなーって。父さんもあいつも米粒あんまり食べんし、それで普段からそんなに炊かんとよね。炊いて冷凍した奴でよかならあるけど?」

「大丈夫だよ、おかずでお腹いっぱいになりそうだから」

 あいつというのはこんなに美味しい生姜煮を食べ損ねた半居候のことだろう。彼女が台所で料理をしている間、待たされていた居間の写真でその人の顔は見ていた。

 バックはどこかの遊園地の入場口だった。今よりもちょっとだけぽっちゃりした玲央の隣に、彼女が普通の背丈に見えるほど背が高いハンサムな男が写っていた。茶色がかった長髪とメタルフレームのメガネのせいであまり警察官っぽくはない。どっちかと言えば、白衣を着て研究室にいるほうが似合っている感じだ。玲央を挟んだ反対側には東南アジアっぽい濃い顔立ちの女の人が写っていた。たぶん、そっちがご飯を作ってくれない奥さんなんだろう。

 特別に意識する対象じゃないし、したってしょうがないことも分かっている。けれど、玲央が口にする〈あいつ〉という言葉に見え隠れする親しげな響きはボクの胸を重くした。

 二人できれいに食べ物を平らげて、彼女の部屋に移動した。彼女は自分の机の椅子に、ボクは他に椅子がないのでベッドの縁に腰を下ろした。

「あー、美味しかった」

「ありがと。そがん言うてもらえるとが一番よねぇ」

 玲央は二人分のお茶を運んできてくれていた。彼女は大のコーヒー党だけど、さすがに和食の後で飲む気はしないようだ。

 アパートの七階の部屋は窓を開けておくと、いい感じに風が抜けて涼しかった。外のいろんな音が流れ込んできていて、二人で押し黙っていても静かというわけじゃない。もともとお互いにおしゃべりというわけでもないので、そうしていてもあまり気詰まりな感じはしない。

 しかし、ずっとそのままというわけにもいかない。

 生まれて始めて一人で女の子の家に遊びに来たという事実に、ボクは今さらながらドギマギしていた。しかも家族は誰もいない――文字通りの二人っきりだ。何か話さなきゃと思えば思うほど、何を話題にすればいいのか分からなくなる。

 宮地岳線に乗り込む前にあれほどやったシミュレーションは、まったく役に立たなかった。

「ねぇ、亮太」

 不意に玲央が口を開いた。ボクは声が裏返りそうになるのを懸命にこらえた。

「な、なに?」

「アタシとおったらつまらん?」

「……どうして?」

「さっきからずうっと黙っとうけん。――ま、しょうがなかよね。共通の話題って言うても空手しかなかし」

「……いや、そんなことないけど」

 けど、なんだ。

 自分で自分に思いっきりツッコミを入れてみる。ボクは助けを求めるように部屋を見回した。何もなければこの際、さっきの写真の夫婦でもいいからネタにするつもりだった。

 ふと、机の上のフォトスタンドに目が止まった。写っているのは面長のきれいな女の人だった。

「あれ、君のお母さん?」

「ん? ――うん、そう。なかなか美人やろ?」

 目許は玲央より柔らかくて、くっきりした切れ長の二重瞼が印象的だ。緩やかなウェーブがかかったセミロングの髪がとても似合っている。自分の母親と比較してしまうせいか、同級生の母親は実際以上に綺麗に見えることが多いけど、その分のバイアスを差し引いても写真の女性は別格の美人だった。

 玲央ももう少し大人になって髪を伸ばしたら、こんな感じになるんだろうか。

「誰かに似てるね」

「誰?」

「小野リサって知ってる? ボサ・ノヴァ歌手の人だけど」

「ああ、誰かに言われたことある」

 玲央はうっすらと儚げな笑みを浮かべた。得意げな響きと寂しさが入り混じったような不思議な声音。しかし、それは急にからかうような勝気な笑みに取って代わられた。

「あのさぁ、言うたら悪かけど、小野リサの顔とかファンでもなかなか知らんよ? まさか、そん歳でボサ・ノヴァとか聴くと?」

「……悪いかよ」

 ボクは流行りのJ-POPやラップ、ヒップホップにはまるで興味がない。アイドルなんて論外だ。姉貴のせいでヒット曲くらいは耳に入ってくるけど、そうでなければまず聴こうとも思わない。さすがにまだジャズにどっぷりはまる気はしないけれど、そうは言いつつこの前、天神のタワーレコードでジョシュア・レッドマンのアルバムを買ってしまった。

「ジジくさぁ……」

 玲央は呆れたように言い放った。言い返そうにも自覚があるので言葉が出てこない。

「悪かったね。そういう玲央はどんな曲を聴くのさ?」

「アタシ? アタシはねぇ……デレク・アンド・ザ・ドミノスとか、ダリル・ホール・アンド・ジョン・オーツとか。あと、ジプシー・キングス」

「誰だよ、それ?」

 いや、ボクだってホール・アンド・オーツくらい知ってる。デレク・アンド・ザ・ドミノスもエリック・クラプトンが在籍したバンドだということは知ってるし、曲も三菱のクルマのCMで使われてるからそれだけは知ってる。ただ、どっちもボクらの世代が聴いてるバンドじゃない。第一、デレク・アンド・ザ・ドミノスはもう存在しない。ジプシー・キングスは本当に知らない。

「なんだよ、自分だってババくさいじゃん。普通、女の子っていえばB’zとかケミストリーとか、そうじゃなきゃ、ジャニーズ系にキャーキャー言ってるもんじゃないの?」

「冗談言わんでよ。アタシにそがんと似合うと思う?」

 玲央は顔をしかめて大袈裟な溜め息を洩らした。ボクも思わず苦笑いしてしまった。アイドルの顔が印刷された団扇をもって飛び跳ねる玲央なんて、確かに想像もつかない。

 ボクはテレビの横にあるコンポのラックを見た。そこに並べてあるCDはほとんどが洋楽のものだ。中には知ってるバンドのものもあるけど、大半はそうじゃないものだった。

「洋楽、好きなんだね」

「父さんがそがんとばっかり聴くし、それで育ったけんね。でも、最近の曲も聴くとよ」

 何か聴いてみたいと言うと、玲央は少し考えてシェリル・クロウの〈If Makes You Happy〉という曲を選んだ。そんなに最近の曲でもないような気がするけど〈愛しのレイラ〉よりは確かに新しい。

 玲央はメロディに合わせて小声で歌を口ずさんでいた。

 意味を理解してるのかどうかは分からないけど、適当な怪しい英語じゃなくて、ちゃんと歌詞を覚えているようだった。ハード・ロックっぽい歪んだギターが奏でるゆったりしたメロディと、玲央の低くてちょっとハスキーな声は意外に合っていた。

「へぇ。歌、上手いんだね」

「そう?」

 曲が終わってボクがそう言うと、玲央は照れ臭そうにはにかんだ。

 

 

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