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3. 焦り

 

 

 ボクが空手道場の練習生になってから一週間が過ぎた。

 塾は週に三回だけど、道場にはどうしても外せない用事があった一日を除いて毎日、顔を出していた。ボクは一度始めたことはなかなか辞めないほうだけど、今回は続かないと思っていたらしく、家族はビックリしていた。

 尤も、その間にやったことと言えば全身の関節が悲鳴をあげるようなハードな柔軟体操と、基本的な立ち方、足の運びの練習くらいだった。

 格闘技には詳しいほう――ただし見る専門――なので、ズブの素人がいきなり実践的な練習をさせてもらえないことくらいは分かっていた。それに立ち技系格闘技の基本のすべてが土台になる立ち方にあることも分かっている。だから、それらの練習がつまらないとは思わない。

 ただ、ボクにはあまり時間がないのも事実だった。

「ねぇ、ちょっといいかな?」

 道場に人がいない日曜日の午後、ボクは玲央に声をかけた。さっきまで三戦立ち《さんちんだち》の練習をしていて、素人にはちょっと不自然な足の置き方をしていたせいで足首が痛い。鍛えていないとそうなるらしい。

 玲央はキョトンとした顔をボクに向けた。

「なん?」

「いや、訊きたいことがあるんだけど……何やってんの?」

「柔軟」

 いや、それは見れば分かる。ボクが言っているのは、それが空手道場でお目にかかる類の柔軟体操じゃなかったことだ。

 前後に開いた両脚はペタンと床にくっついている。玲央はその体勢のまま、長い息を吐きながらゆっくりと上半身を前に倒していった。やがて頭から胸、腹のあたりまでが伸ばした脚の上にぴったりと折り畳まれていく。

 その動作にはまったく無理をしているところがなかった。伏せた状態のままで両手を前に出してつま先を軽くつまむと、彼女はまるでなだらかな曲線を描く細長いオブジェのように見えた。

 ボクはしばらく玲央の様子に見とれていた。玲央は時間をかけて身体を起こすと足の開きを一八〇度変えて、今度は反対の脚の上に同じように倒れ込んだ。

「身体、軟らかいんだなぁ」

 玲央はさっきと同じようにゆっくりと身体を起こした。

「当然やん。っていうか、身体が硬い格闘家とかあり得んし」

「そうなんだ。いつもこんなに時間かけてやるの?」

「そう。怪我しとうないけんねぇ。――で、訊きたかことって何?」

 ボクは口を開こうとして、思い直して首を横に振った。

「ううん、なんでもない」

 玲央のような上級者が基礎を大切にしてるのに、素人のボクがそれをすっ飛ばすなんておこがましいにも程がある。彼女に背を向けて、教わったとおりに肩幅に開いた足をハの字に置くところから練習を再開した。

 背後で彼女が立ち上がる気配がした。

「ねぇ、亮太。今日はこん後、何か予定あると?」

「いいや、何もないよ。今日は塾は休みだしね」

「じゃあ、一緒に帰らん?」

「一緒に?」

 思わず声が裏返りそうになった。

 狼狽するのにはそれなりに理由がある。香椎近辺ならともかく、電車の中では誰に一緒にいるところを見られるか分からないからだ。

 男子と女子が一緒にいるとくだらない噂を流す奴はどこにでも必ずいる。

 朝、教室に入って黒板に相合い傘が落書きされていたりすると、どれだけヒマなんだと呆れてしまう。とは言え、自分が書かれる立場になれば笑ってもいられない。事実と違うからと否定すればするほど泥沼になるのが、この手の噂話の特徴だからだ。囃し立てる側からすれば事実がどうかなんてどうでもいいので、唯一の対処法は「相手にしないこと」という消極的なものにならざるを得ない。

「大丈夫かな?」

「アタシは見られたって構わんけどね。友だち同士で一緒に電車に乗るとって、別に悪かことやなかろ?」

「……まぁ、そうだけど」

 玲央は「それがどうした?」と言わんばかりだった。確かに彼女を相手にそんな噂を流す命知らずがいるとは思えなかったし、流されたとしても彼女の場合、本当に「ふ~ん、そう?」の一言で流してしまいそうな雰囲気はある。

 彼女がそうなのに、ボクが気にするのもおかしな話だった。もしスクープされたらそのときに考えるしかなさそうだ。

 

 

 そんなわけで帰り道、ボクと玲央は二両編成の宮地嶽みやじだけ線の電車に揺られていた。

 もともとそんなに乗客が多くない路線な上に通勤客がいないので、車内はひどくガランとしている。同じ学校の生徒らしき人影はない。

 車両はおそろしくレトロで、窓は下半分だけがスライドするという田舎のバスでもなければ見ないような開き方をするし、天井には冷房の弱さを補うように扇風機が取り付けてある。詳しいことは知らないけど、利用客が少ない宮地岳線は同じ西鉄の別の路線の使い回しで、新しい車両は入ってこないらしい。

 鉄道ファンだったらさぞ狂喜するところだろう。が、ボクはそっち方面にはあまり興味がない。

「――だけん、親指を中に握り込んだらダメって言いよるやん。殴った拍子に折れたらどうすると?」

 玲央はボクの手を見て言った。知り合いの目がないというのもあってか、玲央の表情にも学校で見せるような素っ気なさはなかった。お互いにそんなに話し上手でもないのに、会話はやけにはずんでいる。

 問題はその内容がまるっきり道場での会話の延長線上にあることだ。ボクがふざけ半分でやってみせた正拳突きの拳の握りがお気に召さなかったらしい。

「えーっと、こう?」

「うーん、さっきよりよかけど。指ばしっかり巻き込んで、親指と小指で締め上げるイメージで握るとよ。そうせんと拳が緩うなるし、拳頭が目標に当たらんけんね」

「拳頭?」

「拳を作ったときにできる指の付け根の骨の出っ張りのこと。空手の突きに限らんっちゃけど、パンチっていうとはここ――」

 玲央はボクの手をとってその拳頭を押さえた。前触れもなく手に触れられてビックリしたのをボクはなんとか押し隠した。

「こん部分ば意識して殴るとよ。指の背の面全体ば当てるっちゃなくて」

 玲央はボクの顔の前で自分の拳を握ってみせてくれた。

 女の子の手が見るからに硬そうな武器に早変わりするのを、ボクは感嘆混じりに見ていた。手のひらを合わせれば多分ボクの手のほうが大きいはずだけれど、彼女に比べたらボクの拳は出来損ないのいびつなゴムボールだ。

 玲央の「正しい拳の握りかた」講座は、列車が三苫みとま駅に着くまで延々と続いた。

 分かりやすいように丁寧に教えてくれるのは、彼女が他人に教え慣れているというのとは別に、彼女の世話好きな一面を表しているような気がした。それは確かにありがたい話だと思う。

 でも、せっかくだから空手以外の話――例えば趣味の話とか――をしようと思っていたのだ。デートなんてつもりはなかったけど、二人でゆっくり話ができる機会なんて他に見当たらない。

 ボクは心の中で魂を吐き出すような深い溜め息をついた。

 

 

 三苫駅を出ると、玲央は買い物をして帰ると言った。

「亮太はどうすると? まっすぐ帰ると?」

「別にそんなに急ぐこともないけど。どうして?」

「やったら、買い物付き合うてよ。一人でテクテク歩くと好かんし」

 特に断る理由もないので、駅から少し歩いて大通りにあるサンリブに入った。福岡では割とあちこちにある地元のスーパーで、デイト・オブ・バースの曲をBGMにしたイメージCMをテレビでしょっちゅう見かける。

 お菓子とかジュースでも買うのかと思っていたら、玲央は手押しのワゴンにカゴを載せて、迷うことなく食料品売り場に向かった。

「おつかい?」

「ん……。まぁ、そんな感じ」

 彼女はメモを見るわけでもなく、目にとまった商品を次々にカゴに放り込んでいった。パンや乾物、調味料、肉、野菜、豆腐やこんにゃく、そのほか、いろんなものをまんべんなく入れるとカゴはすぐに満杯になった。

 驚いたのは「何をどれだけ買うか」を玲央が自分で決めていることだった。お使いと言うよりまるで主婦の買い物のようだ。

 いや、我が家の女性陣よりよほどマシかもしれない。ウチの母親なんか、いつも両手に持ちきれないほど買った挙句、冷蔵庫にどうやって入れるか悩んでばかりいる。その娘である姉貴も似たようなもんだ。どうして、母娘でこんなつまんないところが似なきゃなんないんだろ。

 ボクがそういったことを話すと、玲央は事も無さげに「ウチ、母親おらんけんね」と答えた。

「そうなんだ?」

「小学校の六年んときにね。ずうっと病気やったっちゃけど、年末に一時帰宅で帰ってきたときに容態が悪うなって、そのまんま」

「……悪いこと訊いちゃったかな?」

「そがんことなかよ。もう三年以上も前の話やし」

「じゃあ、それからはお父さんと二人で?」

 彼女に兄弟姉妹がいないことは前に聞いていた。

「ずっと二人暮らし。アタシ、この歳ですでに主婦とよ。意外やろ?」

 玲央はそう言って笑った。テキパキとした買い物の様子を見ていなかったら、彼女が家事をこなしているところなんて想像もできなかっただろう。

「……ところでさ」

 鮮魚売り場でサバを三枚おろしにしてもらっていると、唐突に玲央が言った。

「なに?」

「やっぱり、基礎ばっかりやらされるとは面白うない?」

 一瞬、質問の意味が分からなかった。それが道場でのボクの質問と繋がっていることに気づいて、ボクはひどく気まずい――と言うか、申し訳ない気持ちになった。

「……そんなことないよ。それに三戦の構えができたら、次はいよいよ突きの練習だって師範代も言ってたしさ」

「嘘つかんでもよかよ」

 彼女の声に咎めるようなニュアンスはなかった。

 一瞬、嘘をつき続けようかと思った。けれど、それはできなかった。ボクは彼女から目を背けたままで大きな溜め息を洩らした。

「――つまんなくはない。でも、もどかしい」

「やっぱりね。そがんやなかかな、とは思っとったっちゃけど」

「君、テレパシーでも使えんの?」

「そがん怪しか能力もっとらんけど。だいたい入門してきて一、二週間すると、みんな似たようなこと言い出すもんったいねぇ。やれ、技の練習させろとか、組手やらせろとか。理由はいろいろやけど。最初から空手舐めとう奴もいるし、ただ単に堪え性がなか奴もいるし――」

「耳が痛いね」

 ボクは玲央を遮った。これ以上話せば、空手を始めようと――いや、強くなろうと決心した理由を言わなきゃならなくなる。

 ところが、彼女はめげずに言葉を続けた。

「――あと、そこまで悠長なこと言うとられん、とかね。一刻も早く強うならないけん理由があったりして」

「えっ!?」

「図星やろ?」

 否定の言葉を探したけど見つからなかった。彼女が言うとおりだったからだ。

 玲央は少しだけ得意そうな笑みを浮かべていた。理由を根掘り葉掘り訊かれるのかと思うと、内心ウンザリした。

 けれど、彼女は静かな声で「――よかよ、アタシが教えてやろっか?」と言っただけだった。長く鍛錬を続けている彼女からすれば、ボクのように「手っ取り早く強くなりたい」なんて人間は軽蔑されてもおかしくなかった。

 そんなボクの焦りを気遣ってくれる彼女の優しさが嬉しかった。だけど、そこまで厚かましいことを言うつもりはなかった。

「うーん、もうちょっと形になるまでは遠慮するよ」

「どうして?」

「まだ命が惜しいから。玲央と組手なんかやったら、生きて道場を出られる保証はないもんね」

「うっわ、亮太ってアタシのこと、何と思っとうと!?」

「友だちだよ。君がそう言ったろ?」

「……何、それ」

 玲央はプウッと頬を膨らませた。

 その表情はそれまで見た中で一番かわいかった。笑顔がかわいい子はいくらでもいるけど、怒った顔が魅力的な子にはそれまで会ったことがなかった。

 ボクは買い物の間中、チラチラと玲央の横顔を窺っていた。シチュエーションはちょっと戴けなかったけど、初めての経験にボクはドキドキしていた。

 誰だよ、彼女を〈ザ・ビースト〉なんて呼んだのは。

 

 

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