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22. 手紙

 

 

 ボクが福岡を離れた後、玲央の身に降りかかった出来事――玲央のお祖父さんとお祖母さんが相次いで亡くなってしまったことやお父さんが捜査中に容疑者を死なせてしまった事件については、高二の夏休みが終わってしばらく経ってから、杉野を通じて知ることになった。

 まるっきりお父さんが悪いというわけでもなかったらしいけど、死なせた相手が未成年だったことや捜査手法がちょっと強引だったこともあって――福岡県警は荒っぽいことで知られているらしい――責任を問われることになってしまったのだ。

 まるで信じられなかった。

 玲央のお父さんはボクをずいぶんとかわいがってくれた。お酒を飲んで「いっそのこと、玲央をヨメに貰ってくれ」などと言い出して恒例の親子喧嘩を始めるほどだった。何があったかは分からないけど、あの人が人を死なせてしまうなんて。

「玲央は?」

 杉野はボクと玲央が付き合っていたことを知っていたので、あえてそう呼んだ。しかし、杉野は申し訳なさそうに呻くだけだった。

「悪いっちゃけど、俺も私立の全寮制の高校に進んだけん、詳しか事情は知らんとさ」

 ボクは慌てて玲央の携帯を鳴らした。そう言えば、ここしばらく電話もメールも来ていなかった。お互いに忙しいからな――それくらいにしか考えていなかった。

 返ってきたのは「この電話はお客様の都合により――」という無機質なメッセージだった。自宅の電話は留守番電話に切り替わることもなく、延々と鳴り続けただけだった。

 ボクはそれほど仲が良いわけでもなかったクラスメイトにまで電話をかけて、玲央の消息を追った。

 分かったことは事件後、玲央が気丈にも高校に通おうとしたこと、その結果として“人殺しの娘”に対する苛烈なイジメに晒されることになったという惨い事実だった。

 結局、玲央は一週間ほどイジメに耐えた後、まるで最初からそこにいなかったように何の痕跡も残さずに学校を辞めてしまっていた。

 その後のことについては、ハッキリとしたことを知る人間には辿り着くことができなかった。噂で長崎の親類に引き取られたらしいことや、どこか別の私立の高校に編入したらしいという話を聞けただけだ。

 一人だけ、夜の街にたむろする輩の中に連戦連勝の女のファイターがいて、それが玲央じゃないかと言った奴がいる。でも、それも確かなこととは言えなかった。


 ――いったいどこへ行ってしまったんだよ、玲央?


 心配と不吉な想像に悩まされて、ボクは何日も眠れない夜を過ごした。

 すぐに福岡に飛んでいって傍にいてやりたいと思った。彼女に罵声を浴びせる奴を一人残らず叩きのめしてやりたかった。福岡にいたくないんだったら関東に連れてきてやりたかった。

 けれど、ボクにはそのうちの一つも現実にする力はなかった。自分が子供だということをあれほど呪ったことはなかった。

 せめてと思ってボクは手紙を書いた。元の住所宛に送れば、玲央を引き取った親戚の家に転送されるかもしれないからだ。転勤族の我が家ではそうやって前の住所に送られてきた郵便物が転送されてくる。

 手紙はひどく短かいものにしかならなかった。とにかく連絡して欲しい――ただ、それだけだ。

 祈るような気持ちでボクは封筒を投函した。万が一にも料金不足なんてことにならないように海外に送れるほどの切手を貼って。

 手紙はずいぶん間をおいて、転居先不明のスタンプを押されて戻ってきた。



 頭の中のサムネイル画像をクリックすると、次々に玲央との想い出が甦ってくる。 


     *     *     *


 あの事件から一週間後の日曜日、ボクは約束どおりに玲央の写真を撮らせてもらうことになった。

 近くの公園で撮ろうと思っていたけど、誰に見られるか分からないと玲央が強硬に主張したので、ボクは玲央の家族がずっと馴染みにしているという浄水じょうすい通りの小さな写真館に呼び出された。

 玲央は貸切のスタジオでボクを待っていた。

「どうしたの?」

 彼女の格好を見てボクは思わず訊いてしまった。玲央が着ていたのは、まったく想像もしなかった真っ白なワンピースのドレス、しかもお姫様のドレスのようにフリルがたっぷりついた代物だった。

「……おかしい?」

「いや、似合ってると思うけど」

 ボクがそう言っても、玲央はバツが悪そうな顔のままだった。

 本当におかしくなんかなかった。見慣れていないから違和感があるだけで――制服以外、玲央のスカート姿なんて見たことがなかった――十五歳の女の子に相応しい格好だった。

「あんとき、アタシたちが話しよったこと、ウチのバカ親父に聞かれとったみたいでさ。それがお祖母ちゃんにまで伝わって――」

「そのワンピースってことになったの?」

 昨日の土曜日、玲央のお祖母さんは娘の嫁入りの衣装を見立てるような勢いで玲央をデパートに連行したのだそうだ。選んだドレスを玲央が着たくないと駄々をこねれば哀しそうに涙を浮かべ、渋々と身につければその姿を見て嬉しそうに涙を流しといった具合で、玲央によれば「一年分くらい泣いたっちゃないと?」という話だった。まぁ、気持ちは想像できないこともなかった。

 高い背当てがついたアンティーク家具に腰掛けたまま、玲央はなんだか落ち着かない様子だった。裾からはみ出した膝をぎこちないほどピッタリと寄せて、キョロキョロと辺りを見渡している。

「ねぇ、さっさと撮ってよ」

 言ってみれば罰ゲームなのに、玲央は写真を撮られること自体を嫌がってる感じじゃなかった。腹をくくったのか、口では何だかんだ言いながらまんざらでもないのかは分からない。

 ボクは自前のデジタル一眼レフを取り出した。この日のために父親から操作法や写真の撮り方を習って、ついでにこのカメラの所有権も譲ってもらっていた。

 ファインダーの中の玲央はコチコチだった。懸命に落ち着こうとしているようだけど、そうすればするほど表情は硬くなっていく。変に声をかけても逆効果そうだったので、ボクはそのまま撮り始めることにした。

「――撮るよ」

 そう言ってシャッター・ボタンを押した。ピピッという電子音が静かな部屋の中で大きく響いた。

 一瞬、身を硬くした玲央がおずおずとレンズを覗き込む。ファインダー越しに目と目が合って、ボクも息苦しいような緊張に捉われた。眼差しもそうだけど、彼女のポッテリした唇がやけになまめかしく見えた。ボクは初めて玲央が薄く化粧をしていることに気づいた。

 見とれるというより引き込まれるように、ボクはシャッターを切り続けた。


     *     *     *


 大晦日の夜、玲央はいつものようにウチのマンションの敷地の木の下でボクを待っていた。三社参りに行く約束をしていたのだ。

 福岡で迎える初めての正月。ボクはみんながどこへお参りに行くかなんて分からない。実はそれが家族で出かけるのを回避できた理由だったりもする。

「どこに行くんだい?」

「アタシはいつも筥崎宮と近所で済ますっちゃけど、今年はやっぱり大宰府だざいふに行っとかんとねぇ。学問の神様やけん」

「困ったときの神頼み?」

「あ、その言い方ムカつく。どうせアタシは亮太みたいに頭良うなかもんねぇ」

「教えてあげるって言ってるだろ。空手を教えてもらってるお礼にさ」

「結構。ところで、この前言いよったことって本気?」

「何が?」

「ブラジリアン・ハイキックを身に付けたいって言うたやん?」

 ボクは先週、意を決して玲央にそれを頼み込んでいた。

「言うとくけど難しいとよ? それに、最初のうちに変則的な蹴りを覚えると妙なクセがつくけん、あんまりお奨めできんとよねぇ」

「そればっかりやるわけじゃないよ。基本の稽古はちゃんとやるさ」

「ま、よかけど……」

 玲央はフンと鼻を鳴らす。

 ヘルメットをかぶって玲央の後ろに乗った。夜で人目がないからか、玲央はいつもよりも大胆にアクセルを開けてバンディットをスタートさせた。

 太宰府天満宮の周辺は交通規制が敷かれていて、あちこちに通行止めの看板が出ていた。玲央はそれをスイスイとかいくぐりながら、西鉄大宰府駅の近くにある駐輪場まで入り込んでいった。

「調べてたの?」

 駅のコンコースを横切りながら訊いた。

「もちろん。交通規制もそうやし、取り締まり情報も最新の奴が入ってくるけんね」

「お父さんから?」

「それもあるけど、圭介から」

 圭介――波多さんにこっぴどく叱られたというのに、ボクらはバンディットでたびたび遊びに出かけた。

 最初はそのたびに怒られていたけど、そのうち諦めたのか、逆に「……絶対に捕まるんじゃないぞ」と言いながらそういった情報を流してくれるようになっていた。初めて会ったときには融通の利かない人のように見えたけど、案外そうでもなかった。

 ボクらはそのまま天満宮の参道を歩いた。

 話には聞いていたけど人の出はものすごくて、まっすぐ歩くのも難しい状態だった。やっぱり学問の神様ということで受験生がこぞってお参りにくるし、そうじゃなくてもここは初詣のメッカらしい。

 参道で梅ヶ枝餅という餡子が入った焼き餅を買って食べたり、土産物屋を覗いて神社の参道で売ってる意味が分からないものにイチャモンをつけたりしながら、ボクらは境内に足を踏み入れた。

 お正月らしい厳粛な空気を雅楽の音色が盛り立てていて、特に信心深くもない中学生のボクと玲央もなんだか神妙な顔つきになるから不思議なものだ。

 本殿へと続く道は大きな池の上に架かる三連の橋になっていた。

「ねぇ、ここの橋って縁切り橋って言われとるって知っとう?」

「縁切り橋?」

「そう。カップルが一緒に渡ると別れるって言われとうとよ」

「へぇ……」

 その手の話はどこにでもあるけど、ボクはあんまりそういうのを信じない。

「バカバカしいと思うけどな。何の根拠もないし、第一、これだけの人出だよ。カップルがどれだけいるか知らないけど、それが本当なら大変なことになってるんじゃないかな?」

「……そう?」

 ちょっと意外だった。ボクは玲央をそういう迷信めいた話を真っ先に笑い飛ばすタイプだと思っていたからだ。

「気になるんだったら、別々でもいいけど?」

 その気はなかったけどからかうような口調になった。玲央は頬をさっと赤らめた。

「気になんかしとらんよ!! ふん、さっさと行くよ。はぐれたら置いて帰るけんねっ!!」

 玲央はむくれてズンズンと先に歩き出した。人ごみの中では目を離したが最後、あっという間に見失ってしまう。ボクは慌てて彼女の後を追った。


 ――バカだな、そんなわけないじゃないか。


     *     *     *


 ところが、実際に別れはやってきた。

 三学期の終業式を目前にして、急に父親が東京の本社に転勤することになったのだ。姉貴はもともと東京の大学に進むことになっていたから問題なかったけど、福岡の高校に進学することが決まっていたボクは転入の手続きでえらい目に遭わされた。

「……ほら。やけん、あの時に言うたやん」

 放課後、ときどき立ち寄っては取り留めもない話をする公園で、玲央はブランコに揺られていた。

「あの時?」

「大宰府で縁切り橋の話、したろ?」

 それとウチの父親とは関係がないような気がしたけど、結果として一緒に渡ったボクらが離れ離れになるわけだから、正しいのは玲央のほうだった。

「亮太、アタシと離れるのに寂しくないと?」

「寂しくないわけないじゃないか。――でも、どうしようもないだろ」

「……そっか、亮太は転校慣れしとうもんね」

 非難するような口ぶり。ボクと玲央の間に温度差があるとしたらそこだった。同じ学校に最高でも二年しか通ったことがないボクにとって、友だちとの別れはある意味、人生の一部だった。別れたくないと言って泣いたのは小学校の二年のときが最後のはずだ。

「いつ、こっちを発つと?」

「終業式の次の日。十二時のJALのチケットがとってあるんだ。両親は先に行ってるし、姉貴はあとからだから、ボクは一人で乗ることになるんだけどね」

「ふーん。――アタシ、見送りにとか行かんけんね。亮太なんか勝手にどこでも行けばいいやん」

 つっけんどんな言葉の裏に彼女なりの惜別の思いがあることは伝わってきた。だから、ボクは何も言わなかった。なのに、実際に空港に行ってみると玲央が国内線ターミナルでボクを待っていた。

 玲央は人目も憚らずに泣きじゃくった。なだめるボクの胸板を叩きながら「……だって、だって」と繰り返した。真っ赤な眼がボクを真っ正面から見つめている。たった半年の間にボクは玲央とほぼ同じ背丈になっていた。

 ボクは玲央をターミナルの隅っこに連れて行った。

「さよならは別れの言葉じゃなくてって歌、知ってる?」

「……知っとうよ。〈セーラー服と機関銃〉やろ。……なんね、亮太ってやっぱりジジくさいよね」

「それを知ってる玲央だって同じじゃないか」

 ボクは笑った。玲央はようやく、なんとか笑顔のようなものを見せてくれた。

「じゃあ、その続きは?」

「……再び逢うまでの、遠い約束」

「そうだよ。また会えるさ。お互いに忘れなければ、いつかまた」

「アタシは忘れんよ」

「ボクもさ。じゃあ、そろそろ行くよ。搭乗の時間だから」

「うん。――亮太」

 玲央はそう言って、静かに眼を閉じた。


 ――おい、こんなところでかよ。


 そうは思ったけど、不思議と恥ずかしさはなかった。ボクも覚悟を決めた。

 初めて触れた玲央の唇は、驚くほど柔らかかった。


     *     *     *


「――ちょっと、亮太っ!!」

 綾香さんの怒鳴り声でボクは我に返った。

「は、はい? どうかしました?」

「図体でっかいんだから、そんなとこでボーッとしてると世間の迷惑だよ」

 あれほど言ったのに綾香さんはショッピングバッグ一杯に買い物をしていた。いつの間にかショーは終わっていて、出演したモデルが一列に並んで記念撮影をしている。

 スタッフらしき人たちは慌しく撤収に入っていて、さっきまで華やかだったステージはあっという間に夢の跡と化していた。ボクもバイトで野外ライブの打ち込みや撤収作業はやったことがあるので、その忙しさは理解できた。あれは戦場だ。

 ボクは玲央を目で追った。

 集合写真の撮影が終わると、今度は一人ずつの撮影があるようだった。スタッフの女の子が玲央のメイクを直したりアクセサリを替えたりしている。モデルの仕事もいろいろと大変なんだろうな、と思った。

 玲央とそのスタッフの子は仲がいいらしく、何やら二人で笑いあっていた。さっきと打って変わって、その笑顔はボクが知っている玲央のものだった。スレンダーな体型に反して大きく盛り上がった胸元だけはボクの知る玲央と大きくかけ離れているけど、それは四年という月日の影響なのだろう。ふと、彼女が平坦だったバストを揶揄されて上級生を半殺しにした話が脳裏をよぎり、それに連なる――というわけでもないけど――あの事件が鮮やかに記憶に甦る。

 できれば、このまま駆け寄って玲央に話しかけたかった。過ぎ去った歳月を埋めたかった。日常の忙しさに埋もれながら、それでも決して忘れることがなかったことを伝えたかった。ボクが彼女から教わったブラジリアン・ハイキックを武器に戦っていることを知って欲しかった。

 でも、今さらどんな言葉をかければいいんだろう。玲央が一番苦しんだときに傍にいてあげられなかったボクにそんな資格があるんだろうか。

「知ってる人?」

 訝しげな綾香さんの声。ボクは慌てて首を振った。

「そ、そんなことないですよ。ボク、モデルさんなんかと縁があるように見えます?」

「ナニ慌ててんの?」

「慌ててなんかいませんよ。そうだ、そろそろ行かないと、集合時間に間に合わなくなるんじゃないですか?」

「……そうだね」

 警固けご一丁目のバス停の前で西鉄バスの時刻表を覗き込みながら、ボクは懸命に自分を納得させようとした。

 これでいいんだ。玲央がとにかく元気でやってることと、あんな笑顔で話せる友だちがいるってことが分かっただけで充分だった。

「――亮太の嘘つき」

 綾香さんはポツリと、けれど、ボクにハッキリ聞こえるように呟いた。

「嘘つき?」

「そうだよ。あの背が高いモデルの女の子、亮太の知り合いなんでしょ?」

 言葉が詰まった。ボクはそんなに――綾香さんに感づかれるほど玲央のことを凝視していたんだろうか。

「その……何ていうか」

「って言うか、知り合いじゃなくて、福岡時代の元カノだよね」

「……どうして、そんなことハッキリ言い切れるんです?」

「年上の女の勘をバカにしちゃいけないよ」

 綾香さんは横目でボクを睨んだ。そして、口許にちょっと皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「それは冗談だけどさ。亮太がパソコンに入れてるあの子の写真、見たのよ」

「あっ……」

 福岡行きが決まってから、ボクは久しぶりに玲央の写真を収めたフォルダを呼び出していた。そこには校庭での隠し撮りから写真館でのワンピース姿、あるいは二人で出かけた先での記念撮影、一度だけ玲央がボクの目の前でうたた寝したときにこっそり撮った寝顔なんかが収められている。

「言っとくけど、見ようと思って見たわけじゃないからね。って言うか、バレちゃいけないって思うんだったら履歴くらい消しときなさいよ。あのパソコンはあたしも使うんだから」

 ボクの部屋にあるパソコンは元々は綾香さんが誰かから貰ってきてくれたもので、彼女もレポート作成なんかに使っている。

「その……すいません」

「謝ることないけど。逢ってこなくていいの?」

「えっ?」

「久しぶりなんでしょ。話してくるくらいならいいよ。焼けぼっくいに火がつくとか言うんだったら、ちょっと困るけど」

「……ちょっと、ですか?」

 綾香さんは少し考えて、首を横に振った。

「ううん、かなり」

 ボクは彼女のショッピングバッグを手に取った。バスが近づいてきていた。

「変な気を回さないでくださいよ。ボクが大事にしなきゃいけないのは綾香さんなんですから」

「……言うじゃん」

 西鉄の路線バスに乗り込んだ。キャナルシティまで立ったままを覚悟していたけどうまい具合に席が空いていた。尤も、体が大きいボクとじゃ綾香さんはきつい。

 彼女を座らせて自分は立っていようとしたら、綾香さんはギリギリまで身体を寄せてボクに座れと言った。狭いスペースに身体を押し込むと、綾香さんは小柄な身体を押し付けるようにボクに寄り添ってきた。

 ボクは手を回して彼女の肩を抱いた。人目なんか気にならなかった。

「せめて手紙くらい書きなさいよ」

「そうしたいんですけどね。どこに送ればいいか、分かんないんですよ。ボクが知ってる住所じゃ届かなかったんで」

「そんなことだろうと思った。はい、コレ」

 目の前に一枚のチラシが突き出された。それはさっきのファッション・ショーのものだった。

「そこの一番下。ショーを仕切ってたイベント会社が載ってるけど、モデル事務所もそこと一緒なんだって。そこにファンレターを出したらモデルさんに渡してくれるってよ」

 ボクは綾香さんをマジマジと見た。

「そんなこと、訊いてきてくれたんですか?」

「だって、亮太がすんごい思いつめた顔であの子を見てるんだもん。ホント、一歩間違ったらストーカー呼ばわりで警察呼ばれてたかもよ?」

「……そんなことねーよ」

 綾香さんは弾けるように笑い出した。ボクは彼女の口許を押さえながら、何事かという顔の他の乗客に頭を下げた。

 しばらく笑いが収まらない綾香さんを見つめながら、ボクは玲央に出す手紙の文面に想いをめぐらせた。

 何て書けばいいんだろう。

 あまりにも書くことがありすぎて、考えはなかなかまとまらなかった。でも、それでいいのかもしれない。ボクと玲央の空白の時間を埋めるのには、きっとそれ以上の時間がかかるだろうから。

 それでも書き出しはすぐに浮かんだ。ひどく平凡でありきたりなものだけど、他にピッタリくるものはないに違いなかった。


 ――玲央へ。お久しぶりです。元気ですか? ボクは元気です。

 

 

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