21. 痛み
「――ちょっと、綾香さん、待ってくださいよッ!!」
ボクは懸命に彼女を呼び止めた。
福岡市中央区、天神のど真ん中。岩田屋前の広々としたオープンスペース。夏休みの真っ最中で、辺りは老若男女――いや、老はあんまりいない――でごった返している。照りつける陽射しは強烈で、熱気の壁を掻き分けながら歩いているような気さえする。
日本はすでに温帯じゃなく亜熱帯だという説も、まんざら出鱈目じゃないな。
「亮太、おっそーいッ!!」
綾香さんは人ごみの間から自分の存在を主張するようにピョンピョンと飛び跳ねている。小柄な彼女は人ごみの中ではラフに飛び込んだゴルフボールと同じだ。ボクは重いボストンバッグを肩に掛け直しながら彼女に駆け寄った。
「遅いって……綾香さん、福岡の地理、分かってるんですか?」
「そんなわけないじゃん。だいじょうぶよ、人ごみの中でも亮太はすぐに見つかるから」
確かにボクは人垣の中にまぎれても頭一つ飛び出しているので、ちょっと見渡せば簡単に見つかってしまう。歩く標識と言われるほどだ。
「っていうか、二人のときはさん付けしない、敬語も使わないって約束じゃなかった?」
「……うっ」
確かにボクらの間ではそういう取り決めになっている。でも、そう簡単に使い分けなんてできるはずがないので、非難は覚悟の上でボクはさん付けと敬語を使うことにしている。だいたい、そんなことで周囲に二人が付き合っているのを隠せていると思っているのは彼女だけだ。
何か飲みたいという綾香さんの意見で、ボクらは岩田屋の一階のスターバックスに入った。彼女はいつものようにヴァニラ・クリーム・フラペチーノ、ボクもいつものようにホットのブラックを買った。
「亮太ってば、こんなに暑いのによくそんなの飲めるね?」
「慣れればこっちのほうが身体にいいんですよ。ところで、この後ってどういうスケジュールになってるんですか?」
綾香さんはチラリとボクを睨んでから、パンパンに膨らんだシステム手帳を取り出した。
それはボクが所属する大学のフルコンタクト空手部のすべて――チケットや現金、部名義の預金通帳、年間のスケジュール、その他活動に必要ないろいろ――が詰まった代物だ。優秀なことで知られるマネージャーの彼女はそこに書かれていることの大半を暗唱している。
だったら、いつも「重たい、重たい」と文句を垂れながら持ち歩く必要はないような気がするけど、付き合い始めた頃に突っ込みを入れたら身が竦むような目で睨まれたので、そのことには触れないようにしている。
「えーっとねぇ、さっき電話があったんだけど、合宿所の迎えのマイクロバスが二時間くらいで来るんだって。待ち合わせはキャナルシティ。――ね、これってどの辺にあるの?」
「中洲の向こう側ですね」
ボクは記憶をたどって方角を思い出した。向かいにあるソラリアプラザの向こう側を指差した。たぶん間違ってないはずだ。
「遠いの?」
「ここからだとそんなに離れてないですよ。歩いて十五分くらいじゃないかな」
「えーっ、そんなに歩くの!? バスとかないの?」
「……あると思いますけど」
「じゃあ、そっちで行こ」
マネージャーの彼女は当然ながら他の部員と違って特に運動が好きなわけじゃないし、他の部員にしたってこの炎天下をほっつき歩くのは気が進まないに違いない。
「そういえば残りの面々は?」
「とりあえず自由行動にしました。天神から出るなって言ってあります。そうすれば、はぐれても何とか電話のやり取りで見つけられますから」
「さっすが、元博多っ子」
「それは事実誤認ですってば。ボクは土浦の出身だし、福岡に住んでたのは結局、中学三年生の一年だけでしたから」
「会長が「亮太に中洲を案内してもらおう」って言ってたよ?」
「……ボク、未成年なんですけど」
「亮太ってそうは見えないもんね。よっ、若年寄っ!!」
なんだ、その掛け声は。
「ところでさ、今度の秋の大会、どう?」
「どうですかね。一回戦でいきなり優勝候補と当たりますから、難しいかもしれませんね」
「あのごっつい筋肉ダルマでしょ。あんな奴、亮太の得意技でやっつけちゃえばいいじゃん。なんて言ったっけ。ブラジリアン・キック?」
「ブラジリアン・ハイキック」
綾香さんは頬を膨らませた。
「あれって絶対上段蹴りなんだから、わざわざハイってつけなくてもいいでしょ?」
「好みの問題ですよ。まぁ、ボクにあの技を教えてくれた人がそう呼んでたってだけなんですけど」
「ヘンなの」
綾香さんはゆっくり時間をかけてフラペチーノを飲み干した。熱いものは苦手だと言うくせに、冷たいものを飲むと「頭が痛い」だの「歯が痛い」だのとうるさい。
ボクはとっくにコーヒーを飲み干してしまっていた。コーヒーと言えばブラックしか飲まなくなったのはいつ頃からだろう。
「じゃあ、もうちょっと時間あるんですね。だったらこの辺、ウロウロしましょうか?」
「この辺?」
「ここからちょっと裏手の大名って地区に入ったら、綾香さん好みのショップとかブティックがありますよ」
「亮太ってば詳しいんだ。そういうの興味あったっけ?」
「違いますよ。ボクは中学生だったし、だいたい住んでたのは東区っていって、ずいぶん向こうのほうだったんです。ボクはときどき遊びに来て、街をウロウロと見て回ってただけです」
「当時の彼女と?」
一瞬、言葉に詰まった。
嘘をつく必要はないのかもしれない。けれど、それは付き合ってる人に話すことじゃないし、ボク自身にとっても心の奥にわだかまる痛みを思い起こさせる苦い質問だった。
ボクはニッコリと笑った。我ながらわざとらしい、作り物の笑顔だった。
「野暮ですよ、それを訊くのは」
そのまま岩田屋の中を通り過ぎて、裏側の天神西通りに出た。
片側一車線の狭い道にクルマが長い列を作っている。歩道は二人で並んで歩くのがやっとで、正面から人が来たら離合できない。
一年間で身についた福岡の方言はほとんどないけど、この「離合」という人やクルマがすれ違うことを指す単語だけはつい出てしまう。関東に戻ってずいぶん笑われたけど、大学で九州から出てきた人と友だちになるきっかけにもなったので、あながち悪いことばかりでもない。
「四年ぶりの福岡はどう? 亮太がいた頃と変わった?」
「大まかなところは変わってないですけど、やっぱり知らない店とかありますね。さっきの岩田屋だって、ボクがいた頃はまだZ-SIDEっていって別館扱いでしたから」
それが今では道を挟んだ隣のビルとあわせて岩田屋の本館になっている。交差点を挟んだ反対側にあったビルも真新しいファッションビルに建て替わっていた。
ボクたちは天神西通りをブラブラ歩いて、南端のアップルストア――これもボクがいた頃はなかった――を覗いた。中古で買ったiPodのバッテリーが弱っていて新しいのに買い換えたいけど、手持ちが寂しくてなかなか踏み切れないでいる。
「亮太って偉いよね。学費とアパートの家賃だけ出してもらって、あとは自分でバイトでやりくりしてるんでしょ?」
「別に偉くないですよ。ウチは転勤族のサラリーマン家庭ですから、親に負担かけられないんです」
「それが偉いって言ってんのよ。ウチの部にだって、何から何まで親掛かりってのがいっぱいいるからねぇ。ひどいのになるとパチンコやらキャバクラで赤字出して、毎月SOSを発信してるのもいるし」
ボクは笑ってやり過ごした。ウチだって言えば生活費くらい出してくれる。実際、親からは毎月いくらかの金額が、家賃や学費と一緒にボク名義の通帳に振り込まれているはずだ。
ただ、ボクはそのお金には手をつけないことにしていた。おかげで二つのバイトを掛け持ちしなきゃならないけど、贅沢を言わなきゃその金額で美味しいものを食べて、好きなジャズのCDを何枚か買って、綾香さんとのデートにだって回せる。
「亮太って、あたしなんかよりずうっと大人だよね」
「そんなことないですって」
アップルストアを出て、そのまま大通りを歩いた。
道路の上まで覆いかぶさるケヤキ並木が続いていて、直射日光があたる他の道よりはいくらか涼しいような気がする。ゆるやかな上り坂に建ち並ぶビルはちょっとだけ周囲よりもセンスがいい。規模を思いっきり小さくした原宿の表参道という表現でいいとボクは思うけど、福岡の人がどう思うかは分からない。
「あーっ、あんなとこでファッション・ショーやってるよ」
綾香さんが通りの先のほうを指した。通りに面したところは公園っぽいスペースで、その奥にレンガ色のタイルに覆われた真新しいビルが建っている。真ん中が吹き抜けの階段、両翼がそれぞれテナント・ショップになっているという形だ。階段とその前のスペースをステージにしてショーをやっているらしい。
黒山の人だかりというとちょっと大げさだけど、それなりにギャラリーはいる。敷地に収まりきれなくて歩道にはみ出している人もいるくらいだ。
「……ねぇ、亮太?」
鼻にかかった甘えた声だけで、その後の台詞は一字一句違わずに想像できた。
「ちょっとだけ、見てきていい?」
やっぱりな。ボクは溜め息を洩らした。
「荷物になるから、あんまり大きなのは買わないでくださいね」
「分かった!!」
「ボクはそこの先のケンタッキーで待ってますから……って、聞いてないし」
綾香さんはあっという間に人垣にまぎれてしまった。ボクはその人垣の上からショーの様子をボンヤリと眺めた。
ステージは楕円形の螺旋階段と、その下から伸びるT字型の通路で構成されていた。モデルは二階から階段を降りてきて、そのまま正面まで歩いてきてからT字の左右を往復するようになっている。途中、数箇所で止まってポーズをとるようにもなってるようだ。取り澄ましたような笑顔とシャープな身のこなし。このクソ暑い中で辛そうな表情一つ出さずにステージをこなすのには結構な体力が必要だろう。
思わず苦笑いが洩れた。こんな体育会系の視点でファッション・ショーを見るヤツなんていないだろうな。
「――さて、と」
その場を立ち去ろうとしたとき、次のモデルが二階の踊り場に姿を現すのが目に入った。興味もなく、何となく見上げたボクは思わず息を呑んだ。
それまでのモデルの中でも一番の長身で、凛々しい顔立ちに流行っぽいオリエンタル風のメイクを施している。黒髪をバンダナで留めて、丈の短い芥子色のチュニックとベージュの幅の広いパンツという格好だ。腕や胸元はやはりアジアっぽい感じのアクセサリで飾られている。その前のモデルが割と可愛い系の顔立ちだったせいか、鶴田一郎の美人画のようなクールさが際立って見えた。
怜悧な微笑を浮かべながら颯爽とステージを歩く彼女は、そこにいるだけで人の目を惹きつける何かを備えていた。彼女の動きにあわせるようにギャラリーの視線が移動する。
そしてボクもまた、彼女から目を離すことができないでいた。ただし周囲とは違う理由で。
彼女は玲央――栗原玲央だったのだ。
――福岡に行けば玲央に会えるような気がする。
何の根拠もない期待のようなものがなかったわけじゃない。けれど、現実がそんなに都合よくいかないことくらい、たった十八年しか生きてなくたって知っている。
それなのに玲央は目の前にいた。
それは確かにボクに空手を教えてくれた栗原玲央だった。ただ、彼女はボクが知っている眩しい笑顔を見せる勝気な少女じゃなかった。
そこにいるのは、しなやかな影をまとった大人の女性だった。