2. 友だち
今日は見学だけということで、練習はしないで道場を後にした。
本当は今日からでもやるつもりだったのだ。けれど、空手はおろか運動系の習い事などやったことがないボクには、いったい何を用意すればいいのか分からなかった。一応、事前に近所のスポーツショップを覗いてはみたけど、買ってから「ああ、これは違う」なんて言われたら目も当てられない。誰かに相談しようにも、家族以外には空手を始めること自体を内緒にしていたのでどうしようもなかった。
ボクがそう言うと、彼女は「一緒に着いてって、いろいろ教えてあげる」などと言い出した。贔屓にしている店が天神にあるらしい。そんな街中まで行かなくてもと思ったけれど、彼女はボクが言うことなんか聞いちゃいなかった。
そんなわけで、ボクらは西鉄バスで天神方面に向かっていた。話には聞いていたし、バスというのはどこも荒っぽい運転をするもんだけど、信号機が黄色になった瞬間にアクセルを踏んで交差点に突入するバスには福岡に来るまでお目にかかったことがない。
「――で、なんで空手はじめようって思ったと?」
屈託のない様子で彼女が言った。ボクは返事をせずに、ずっと車窓からの見える街並みを眺めていた。
バスは国道三号線沿いの筥崎宮の前に通り掛かっていた。放生会とかいう秋のお祭りの時期なんだそうで、とんでもなく大きな鳥居がある参道に出店がたくさん出ているのが見えた。どうでもいいけど、ボクはこのお祭りを「ほうしょうかい」と読んでかなり笑われた。悔しいので辞書で引いたら「ほうじょうえ」だったのでそう言い直すとさらに笑われる羽目になった。福岡では――というか、福岡だけらしいけど――これで「ほうじょうや」と読むらしい。そんなこと、よそ者に分かるもんか。
たっぷり時間を置いてから、ボクは口を開いた。
「……別に。なんだっていいだろ?」
「まぁ、そうやけどさ。学年トップの秀才くんと空手が結びつかんかったとよねー。受験とか控えとうとにさ」
自分だってそうだろ、と思ったけど口にはしなかった。代わりに訊いた。
「栗原さん、ボクのこと知ってたの?」
「名前だけね。こん前のテストで高居さん負かしたろ?」
「……ああ、それで」
高居さんというのは学年一の才女で通っている子だ。今どき珍しいお下げ髪と黒縁のセルフレームのメガネがトレードマークで、休み時間にはカフカやドエトエフスキーの文庫本を手放さないという話を聞いたことがある。一年生の最初のテストから三年生の一学期の期末テストまで、順位が出るあらゆるテストでトップを守り続けてきたらしい。それを夏休み明け早々のテストでボクが破ってしまったというわけだ。
入試ならともかく校内テストで順位を競っても仕方ないと思うんだけど、高居さんは首位陥落以降、廊下ですれ違うたびにボクを呪い殺すような視線を投げかけてくる。この頃、夜中に胸にキリキリした痛みを感じることがあるのは気のせいだろうか?
いや、それより彼女がそんなことを知っているほうが意外だった。
「栗原さん、他人の成績になんて興味あるんだ?」
「そうやなかけど、あの子とは同じクラスやけんね。それに一応、幼馴染ったいね。同じ官舎に住んどったこともあるし」
「官舎?」
「ウチの父さん、警察官。――あ、ごめん、お茶取って」
ボクはバスに乗る前に買ったお茶のペットボトルを手渡した。彼女はキャップを捻って口をつけた。白い喉が動くのを横で見ていて、ボクはちょっとだけドキッとした。
天神のど真ん中、中央郵便局の前でバスを降りた。
意外と都会なんだな、というのが春先に初めて福岡に降り立ったときのボクの印象だった。東京のように気忙しい感じはしないけど人でごった返していて、人ごみ慣れしてないボクはその熱気に圧倒されそうになった。
天神というのはよそ者から見るとちょっと不思議な街だ。あまり高いビルはなくて――街のすぐ近くに空港があるからだそうだ――同じくらいの高さのビルが延々とメインストリートを挟んでいる様子は、文字通りにビルの谷間という言葉を連想させる。特に天神周辺はそれらのビルのほとんどが地下街と繋がっていて、まるで街全体が一つの建物のようにさえ思える。
「で、君の行きつけってどこにあるのさ?」
「新天町――って言うて転校生に分かるかな?」
「アーケードの入口にからくり時計があるとこだろ。それくらい知ってるよ」
「へぇ。天神に遊びにくると?」
「たまにね」
遊びにというのは事実と異なる。母親と姉貴のお供で買い物に連れ回されるときしか来ないからだ。実はからくり時計もテレビで見て知ってるというだけだった。
ついでに白状してしまうと、こうやって女の子と二人で街を歩くのは初めてだった。それがあまり緊張しないで済んだのは、こう言っちゃ悪いけど、彼女がまるっきり女の子っぽくなかったからだ。
着ているのはタンクトップとTシャツの二枚重ねにリーヴァイスのジーンズ、FDHのロゴが入った野球帽。足元はアディダスのスニーカー。アクセサリの類はまったく身に着けていないし、バッグも持っていない。当然、プリクラを貼りまくった手帳もない。携帯電話のストラップも飾り気のない、文字通りのストラップ(紐)だ。リップクリームを丁寧に塗っていたのが、唯一の女の子っぽい仕草だった。
アーケードの入口にあるスポーツ用品店――という表現がピッタリの店だった――で道着やサポーター、帯、タオルやTシャツなどを買った。着心地は重要だと彼女が力説するので、ちょっと高かったけど柔らかい生地のものを選んだ。成人用では身丈はともかく横幅が大きすぎてジュニアサイズを選ばなければならなかったのが、ちょっとだけ気に入らなかった。帯は当然ながら白だ。
「栗原さんって黒帯なんだろ?」
さっきの右のミドルからすると、そうであってもおかしくないような気がした。ところが、返ってきたのは意外な答えだった。
「白帯。道場じゃハッタリのために色帯締めとうけど、もともとウチって色帯制度なかとよね」
「そうなの!?」
「うん。まぁ、本当は昇段試験を受けとらんってだけやけど」
「どうして?」
「メンドくさいから。それに、黒帯とったら、ケンカんとき凶器扱いになるやん?」
「……そういう問題?」
彼女は素知らぬ顔をしていた。
買い物を終えて、同じアーケードの中にあるドトールに入った。何か甘いものでも頼むのかと思っていたら、彼女は一番大きなカップでホットコーヒーを注文した。砂糖もミルクも手にする様子はなかった。
目の前で女の子がブラックを飲んでいるのに、自分が甘い飲み物にするのは子供に見られるような気がした。なので、ボクもブラックにした。くだらない見栄だということは分かっている。
ボクはコーヒーを啜った。あまりの苦さに顔をしかめそうになるのを懸命に堪えた。彼女はボクと違って平然とコーヒーを飲んでいた。
「三浦くんて、イバラギから来たとやったっけ?」
「イバラギじゃなくて、イバラ”キ”だよ」
九州では、茨城はまず間違いなく彼女のように発音される。全国ニュースのアナウンサーでも間違える奴がいるくらいだから無理ないのかもしれないけど。
彼女はプゥっと頬を膨らませた。
「そがん嫌味ったらしく訂正せんでもいいやん。こっちの人間は知らんとやもん。三浦くん、向こうにおったとき、佐賀県の場所とか知っとった?」
痛いところを突かれた。
「ゴメン。福岡の隣は長崎だと思ってた」
「そうやろぉ?」
それからしばらく、彼女はボクがどんなところにいたのかを聞きたがった。生まれてこのかたずっと福岡で、親類縁者もだいたいそうなので、よその土地のことはあまり知らないらしかった。
ボクは自分が転々とした土地のことをとりとめもなく話した。福岡に来る前に住んでいたのは千葉県との県境で、利根川流域のその辺り一帯はチバラキと呼ばれて田舎扱いされているという話がなぜか異様にウケた。
「やったら三浦くん……」
「なに?」
「また転校するかもしれんと?」
彼女の声に残念そうな響きがあるのがちょっとだけ嬉しかった。
「かもっていうか、まず間違いなくね。もう慣れたもんだけど」
「そんなもん? アタシやったら耐えられんかも」
「友だちと離れ離れになるから?」
「うーん、それより、知らんとこで新しか友だち作るとが大変そう。アタシ、ずーっと福岡に住んどうとに友だち少なかし」
「そう言えば、確かに君が誰かとつるんでるとこ、あんまり見ないような気がするね」
学校で特に浮いている感じではないし、彼女のことを悪く言う人間もいないのに、彼女が誰かと仲良くしている場面を見た記憶はまるでなかった。どちらかというと彼女はいつも独りで、まるでその場にいないように振舞っているように思えた。
それだけじゃない。ボクのような拠所ない事情もないのに――ついでに言うなら、そんなにレベルの高い道場でもないのに――家から離れた香椎まで通っていることも、ボクが彼女に対してそういう印象を持つ理由だった。
「……やっぱ、そがんふうに見えようとかなぁ?」
彼女は頭の後ろで手を組んで、思いっきり背もたれに身体を預けた。小さく口を尖らせて視線だけを天井に向けた。
「苦手ったいねぇ、友だち付き合いとか。なんでみんな、あがんしょうもなかことで楽しそうにできるとかなぁ?」
「しらける、そういうの?」
「そうやないけど……」
彼女が同世代の女の子と感覚が合わないのは、ほんの数時間話しただけのボクにもなんとなく理解できた。ただ、彼女の何がそうさせているのかまでは分からなかった。
しばらくお互いに押し黙ったまま、コーヒーをすすった。
何と言えばいいのか、すぐには思いつかなかった。女の子と付き合ったことがないボクには、こういうときにどう対処すればいいかなんて経験の蓄積はない。
それでも凛々しい顔に寂しそうな翳を浮かべた彼女を見ていて、ボクは何かに突き動かされるように口を開いた。
「あのさ、もし……もしボクで良かったらだけど、友だちにならない?」
「へっ!?」
彼女は心底意外そうな顔でボクを見ていた。自分がどんな顔をしているのかは分からないけど、もしその場に第三者としていたのなら、おそらくボクも同じような顔をしているはずだった。
「……三浦くんとアタシが?」
「そう。ボクらは二人ともあんまり人付き合いが得意なほうじゃないし、周りの連中とじゃ上手く付き合えない。でも、友だちが要らないってわけじゃない。幸いにもボクらはお互いに、その面倒さをよく分かってる。だったら、相手の気持ちが分かる同士で友だちになれるんじゃないかな」
我ながら怪しい理屈だな。要するに同病相憐れむということじゃないか。
「……どうかな?」
「えっ? うん、そうやねぇ――」
彼女は戸惑いを隠さなかった。しばらくボクをジッと見つめて口をちょっとだけ尖らせている。
自分でも何故、そんなことを言い出したのか、不思議でならなかった。せっかくちょっと打ち解けてきていたのにこれで台無しだ。
いつものボクならここで「あ、いや、嫌なら別にいいんだけどさ」とか、適当にその場を取り繕おうとしただろう。
ところが、今のボクにはそんな考えはまるで浮かばなかった。何故だか分からないけれどここで引き下がってはいけないような気がした。
「――駄目かな?」
ボクは重ねて訊いた。玲央はフゥーっと長い息をついた。
「……よかよ。そこまで言うなら、そういうことにしよっか?」
「ホント?」
「うん。――でも、道場じゃアタシが姉弟子ってこと忘れんでよね」
「りょーかい」
ボクがそう言うと、玲央はようやく小さな微笑みを浮かべた。