19. 対決
どこの世界に自分の娘と元ボクサーのヤンキーのタイマンを許す父親がいるのかと思うけど、始まってしまったものは仕方がなかった。ボクにできることは見守ることと応援することだけだ。
「オラァッ!!」
先に口火を切ったのは古閑のほうだった。小さな舌打ちを残して玲央がサイドステップを踏む。ブンッと音がして、玲央が立っていたところへ金属バットが振り下ろされた。コンクリートの地面を叩く音と破片が周囲に飛び散る。
「あっ!!」
思わず声が出た。それはボクが持ち込んで、建物の中で落っことしてきたバットだった。さっきは素手だったのに。後ろの金髪女にでも持たせていたんだろうか。
玲央は「予想の範囲内」とでも言いたげに涼しい顔をしている。それでも、古閑の間合いに入れないでいるのは事実だった。
バットを避けながらタイミングを計るように小刻みなステップを踏んでいるけど、取り回しがいい子供用のバットと古河の膂力の組み合わせがその隙を与えない。パンチやキックなら踏み込んでヒットポイントをずらして受けるという手もあるけど、金属バット相手にそんな真似は血迷ってもできない。
横殴りに一閃するバットを玲央はバックステップでかわす。古閑はそれを追って今度は叩き潰さんばかりに上から振り下ろす。玲央はそれをサイドステップでかわして、体を入れ替えるように古閑の死角へ飛ぶ。
すれ違いざまに一撃入れようとしているようだけれど、次の横殴りが来るのでそのチャンスはない。左右、どっちに避けるかの違いがあるだけで、さっきから展開はその繰り返しだった。
玲央が避け損なうか、古閑のスタミナが続かなくなるかの勝負。
どっちが不利かと言えば玲央のほうだ。倉庫の建物側に追い込まれれば避けること自体が難しくなるし、かすっただけでも当たり所次第では大きなダメージになりかねない。
ボクは歯噛みした。
一対一の勝負――タイマンだと断っていても、これは試合でもなければ真っ当な立ち合いですらない。ただのケンカだ。元ボクサーでも拳で殴り合いをしなきゃならない謂れは確かにない。
だからって、ボクの持ち物が相手に利用されるなんて。
「くそっ、ボクがあんなもの持って来なきゃ――」
「あれが無うても他のところで鉄パイプば調達しとったさ。そうやなかなら、自前のバットか木刀を出しとった。あいつらのクルマには標準装備になっとるけんなぁ」
いつの間にか、玲央のお父さんがボクの隣にいた。立ち上がれないボクに付き合うようにその場にしゃがみ込んでいる。
その口調は、まるでリングサイドの解説者のように呑気そのものだった。自分の娘がぶん殴られるかもしれないのにまるで他人事。それどころか、面白がっているフシすらある。
「おーっと、危ない。今、五センチくらいしか離れとらんかったぞ?」
「ちょっと待てよ、あんたの娘だろッ!?」
ボクは思わず怒鳴った。お父さんはキョトンとした顔をしている。そして、さっきまでの強面が嘘のように顔をほころばせた。
「なんや坊主。おまえがジジイが言いよった玲央の彼氏か?」
「へっ!?」
ジジイという言葉が玲央のお祖父さんと結びつくのに、ちょっと時間がかかった。
「……あー、いや、彼氏とか、そういうことじゃないんですけど……」
この非常時に何を言ってるんだ、ボクは。
「そうじゃなくて、早くやめさせ――」
「よかけん、黙って見とけって」
笑顔は変わらないが、お父さんの横顔には何かの確信めいたものがあった。
「玲央にはちゃんとバットが見えとうし、それに、そろそろ仕掛けるチャンスがくるはずやけんな」
「チャンス?」
「そうって、ホラ」
ボクは闘いに目を戻した。
軽い子供用のバットは、古閑の体力を削ぐには確かに役不足だった。しかし、ことごとく避けられることで古閑の冷静さは徐々に失われつつあった。さっきから攻撃がだんだん力任せの雑なものになってきている。
「チョロチョロすんなって、クソがッ!!」
古閑はそれまで片手で振り回していたバットを両手に持ち替え、体重を乗せて思いっきり振り下ろした。コンクリートの地面を割ってしまいそうな勢い。
しかし、最初の一撃を避けたときと同じように、サイドステップを踏む玲央には当たらない。そして、その攻撃の終わりを玲央は見逃さなかった。玲央はかわしざまに飛び乗るようにバットを踏みつけて、それを軸に右の回し蹴り――武藤敬司ばりのシャイニング・ウィザードを放った。
古閑はとっさにバットを離して後ろに飛びずさった。バットが地面に落ちるカランカランという軽々しい音が静まり返った山間に響く。
「うわぁ、詰め甘ッ!!」
お父さんは年齢に似合わない罵声を飛ばした。玲央がこっちを向かずに「せからしッ!!」とやり返す。この父娘、どこまで本気でどこからふざけてるんだ?
古閑がバットを離すことは想定内だったのか、玲央はバランスを崩すことなく着地していた。
しかし、そこには明らかに隙があったはずだ。なのに、古閑は一気に畳み掛けるでもなく距離を取って、目の前の敵をジッと睨みつけている。
「さて、次はナイフ? それともメリケンサック? ひょっとしてヌンチャクとか言わんでよね?」
嘲るように玲央が言う。古閑の両手がスウッと上がってファイティングポーズを作る。
「――調子に乗んなよ、貴様。そんツラ、ボッコボコにしちゃるけんな」
「やってみてんねって」
古閑が上体を立てるアップライト・スタイルに構えた。オーソドックスな右構え。デトロイト・スタイルでもやったら笑ってやろうと思っていたけど、そこまでふざけてはいなかった。
「――シッ!!」
歯の間から空気を押し出すような声。それに乗って左のジャブの連打が玲央に襲い掛かる。
スピードは付け焼刃の玲央のジャブとあまり変わらない。けれど、威力は体格の分だけ古閑のほうが上に見えた。特訓の成果を試す機会はボクにはなかったけど、あったところで手を捕まえることができたかどうかは甚だ疑問だった。
「へっ?」
玲央の当惑の声。ひょっとして、ボクサーとしての古閑は彼女の予想も越えているのか。
パーリングとフットワークを駆使して、玲央は何とか古閑の攻撃をしのいでいる。ロー・キックで相手の出足をけん制するのが精一杯だ。顔や身体には当てさせないけど、ブロックする腕と古閑の拳が当たるたびに肉を叩くビシッという音が響きわたる。グローブなしの裸拳の威力は想像以上だ。
反撃の手を出そうにも、玲央には打つ手がなさそうだった。古閑のほうがリーチで勝る上に、ボクシングと空手ではそもそも想定している距離が違う。
言いたくないけど、空手は立ち技の中では好意的に言えば至近距離向き、悪く言えば距離に無頓着な格闘技だ。技もどちらかと言うと間合いが詰まった状態でも使えるものが多い。しかし、それは言い換えればロングレンジでは相手に先を取られやすいということでもある。
玲央に勝機があるとすれば、相手には使えない蹴りで勝負することだけだ。ただ、それは古閑だって分かっているだろう。迂闊に蹴りにいけばカウンターが待っているはずだ。自由に脚を蹴らせてもらえるほどボクサーの攻撃範囲は狭くない。玲央自身が言っていたことだ。
一方的な展開にギャラリーが沸き立つ。特に金髪女はかなりエキサイトしていた。
「マコト、そんまんまやっちゃえッ!!」
一瞬、古閑がそれに気を取られればいいのにと思ったけど、さすがにそこまでバカじゃなかった。
「――とりあえず作戦通り、か」
不意にお父さんが腕時計を見ながら呟いた。
「作戦!?」
「シッ!!」
お父さんが人差し指を唇に当てる。
「なんや坊主、俺と玲央が何の打ち合わせもせんと、こがんことしようとでも思っとったとか?」
……すいません、思ってました。
「どういうことなんですか?」
「まぁ、見とけって。そろそろ試合開始から二ラウンドが終わる。しかもインターバルなしで。それが何ば意味すると思う?」
「……そうか!」
パッと見れば苦戦しているのは玲央の方だろう。だけど、優勢な割に古閑の額にはびっしりと汗の粒が浮いていた。ジットリと湿ったタンクトップが肌に貼り付いて、見るからに邪魔そうだ。九月も終わりでそんなに暑くない。というより、山間では肌寒さを感じる程だというのに。
確かに古閑が言うように実戦でしか身につかないことは多い。特に攻め手に関してはそうだ。しかし、スタミナは日々の鍛錬の積み重ねでしか維持することができない。
「最初から、古閑の体力を削ぎにいくつもりだったんですか?」
「それだけが理由やなかけど、まぁ、そういうことったいな。最初の凶器攻撃にはちっとばかしヒヤヒヤしたけど、まぁ、上手くやり過ごしてくれたけんな。普通の殴り合いになれば結果は見えとう。夜な夜なクルマで遊びまわって酒とタバコかっ食らっとうようなヤツが、ウチの跳ねっ返りとガチでやりあえるわけなかろうもん」
古閑の動きが目に見えて落ち始めた。息が上がって肩が大きく上下している。
「……くそっ、ちょこまか逃げ回りやがってくさ」
玲央がほくそ笑む。
「しょうがなかろうもんって。自分のスタミナも把握できん莫迦に殴られてやるほど、アタシ、お人好しやなかもん。――亮太の分、しっかり仕返しさせてもらうけんね」
出足の鈍った古閑の足元に閃光のようなロー・キックが飛ぶ。骨を叩く重くて鈍い音。古閑の顔が苦痛に歪む。玲央は追い討ちに突き飛ばすような前蹴りを放った。合わせてカウンターをとろうとしていた古閑は、玲央の長い脚に距離を読み違え、もんどりうって吹っ飛ばされた。
「……オイ、ヤバイっちゃないとや?」
ようやく古閑の愉快な仲間たちが騒ぎ始める。こいつらのことだ、普通ならとっくにタッグ・パートナーがカットに入ってきてるはずだった。ただ、今回は玲央のお父さんの別件逮捕の脅しで二の足を踏んでいる。
古閑が咳き込みながら身体を起こした。
「……ノブ……カズシ、こいつらやっちまえッ!」
「やっちまえっておまえ、これタイマン――」
「せからしかッ!! 三人ともやっちまって、どっかに埋めりゃ済むことやろうがッ!!」
「けどよ……」
お父さんがボクの横で短く口笛を吹いた。
「坊主、やっちまうに当てる漢字、殺と姦のどっちと思う?」
ボクは手のひらに二種類のやっちまうを書いてみた。まったく、このオッサンは非常時に何を考えてるんだ?
「ノブッ、カズシッ!! ざっざど――」
古閑の声に雑音が混じる。仲間の二人はその様子とお互いの顔を何度も見合わせて、うんざりしたような表情を浮かべた。
「あー、せからし。やっとられんって。俺は降りるッ!」
「俺もッ!」
真ん中分けとトサカは口々にそう言って、踵を返した。倉庫の壁際まで行って、そこで壁にもたれかかるように身体を預けた。古閑が呆然とその様子を見つめる。
「貴様ら……」
「おまえ、バカやないとや。人殺しとかゴメンに決まっとうやろうもん!」
「そうったい! それに、刑事にこんだけハッキリ見られてとうとぜ。今さら逃げられるわけなかろうがって! 言うとくけど、俺たちはおまえに裏切ったらボコボコにするって脅かされて、イヤイヤながら従っとったっちゃけんな。シャブのことにしたって、オンナのことにしたって」
「そういうこと。俺たちは従犯。主犯はマコト、おまえぜ?」
二人が言ってることを額面どおりに受け取るわけにはいかない。クスリに関しては、むしろ周囲が古閑にねだっているような話だったからだ。どう見ても不利になったのを見て、古閑一人に責任を負わせて逃げを打っているのは間違いない。こいつらの仲間意識なんてこんなもんだ。金髪女もどうしようもなく、二人と同じようにその場から後ずさっている。
信頼関係があったとは思えないけど、それでもあっさりと仲間に見捨てられた古閑は呆然としていた。
「あんた、良か友だちば持っとうねぇ?」
玲央の哀れみと嘲りが混じった怜悧な声。古閑は玲央を射殺すように睨みつけながらヨロヨロと立ち上がった。
「……チクショウ、なんやって。俺が何したっちゅうとかってッ!!」
「はぁ?」
「クソが、俺の何が悪かとかってッ!」
……子供か、おまえは。他人が自分の思い通りにならないのが気に入らなかっただけじゃないか。他人と真っ正面から向き合って傷つくのが怖くて、暴力とかクスリで自分の望みを叶えようとしただけじゃないか。
「貴様ら、許さんけんな。全員、ぶっ殺しちゃる」
どこに隠し持っていたのか、古閑の手には刃渡り二〇センチ以上ありそうなサバイバル・ナイフが握られていた。
玲央が呆れ顔で溜め息をついてみせた。
「なーんね、根性見せて立ってきたかと思うたら、それ?」
「せからしかッ、くたばれッ!!」
繰り出されるナイフの切っ先を玲央は相手の左――ナイフを持った右手と反対へステップを踏んでかわす。それと同時に伸びた手首をつかんで反対の手で顔面に裏拳を叩き込んだ。相手の軸線上から最小限の動きで外れてカウンターを取る。玲央が得意とする動きだ。
「玲央、そろそろ終わらせろ!!」
お父さんが言った。何がそろそろ?
玲央は小さく頷いてつかんでいた古閑の手首を捻る。短い悲鳴とともにナイフが地面に落ちる。玲央はそれをすばやく蹴っ飛ばした。
「チクショウッ!!」
自分が敗北に近づいているのが我慢ならないのか、さっきから古閑はそれしか口にしていない。玲央は古閑を突き飛ばして距離をとった。
「くたばれッ!!」
さっき自分が言われた罵声を相手に叩き返すように怒鳴る。同時に玲央の右脚が跳ね上がる。古閑はとっさに頭をガードしようと腕を上げる。
その瞬間、古閑の側頭部めがけて飛んでいた足が急に軌道を変えた。軸足をすらして腰を返し、横方向の上段回し蹴りを縦方向の蹴りへと変化させる。変則軌道を描く上段縦蹴り――グラウベ・フェイトーザばりのブラジリアン・ハイキック。
美しい弧を描いた玲央の足先が、ガードを飛び越えて別名の通りに古閑の首筋にめり込んだ。充分すぎるほど体重が乗っていて、首の骨が折れたんじゃないかと思うほど古閑の頭が傾いだ。
古閑は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「悔しがってよかとは努力した人だけよ。あんた、何にもしとらんやんね」
玲央は足元の敗者に容赦ない言葉を投げつけた。