14. 隠れ家
「……どこだよ、ここ?」
ボクは思わず一人ごちた。
玲央の電話からおよそ一時間。新宮町から久山町へと繋がる山間――いまいち位置関係が理解できないんだけど、要するに福岡市の東側に広がる丘陵地らしい――にボクはいた。
辺りに灯りらしきものはなくて、秋の夜空がやけに澄み切って見える。虫や鳥の鳴き声、風が木々を揺らす音。静けさというのは無音のことじゃなく、大きな音が消えたときに聞こえる小さな音のことだという、前に読んだ小説の一節が脳裏に浮かんだ。
携帯が鳴った。玲央からだ。慌ててヴェスパを停めた。
「やっほー。元気?」
やっぱりいつもとテンションが違うけど、とりあえずそれはヨシとしよう。
「元気だよ。今、どの辺り?」
「どこやろ。とりあえず、高速のガードはくぐったけど」
「ということは、割と山奥ってことだね」
ボクは玲央の部屋から持ち出したロードマップに携帯電話のライトをかざした。
九州自動車道は福岡市の東側の外周(南側の大宰府市から大野城市、宇美町、須恵町、粕屋町、東区の東端、久山町、新宮町、古賀市)を縦断するように北へ続いている。
玲央は高速道路の東側、おそらく新宮と久山の境目付近、ボクは西側の幹線道路らしい道にいる。人の気配がないのと真っ暗なのはもう慣れたけど、等高線の詰まり具合から予想していたよりも高低差があって、非力なヴェスパではちょっとつらかった。
「ちゃんと乗れとう?」
「バカにすんなよ。コケずに走ってるよ」
久しぶりに乗る原付バイクの感覚を思い出すのに時間はかからなかった。走り出して五分もすればボクは当たり前のようにヴェスパを走らせていた。
「姉貴たちは?」
「さっき、小道の奥の材木置場みたいなとこに入ってった。入口の看板探しながらやけんやろうけど、チンタラ走るけん、尾行しにくいったら……」
小さな舌打ちが聞こえた。気づかれない程度には離れて、しかし、見失わない程度には近づかなきゃならなかったのだ。
「状況はどうなんだい?」
「敷地は割と広いっちゃけど、何ていうとかな――そんなに使っとるって感じがせんとよね。潰れた工場みたいって言うたら分かるかな?」
想像はつく。おそらくそこは材木置場というより廃材置場なんだろう。土地が安いせいだと思うけど、山奥には意外とそういう廃工場とか、使われてるのかいないのかよく分からない倉庫があるもんだ。土浦の祖父の裏山にも潰れた石材工場の跡があって、従兄弟に連れられて地元の子たちと一緒に遊んだことがある。
「二人とも、まだグロリアの中?」
「ううん、降りて軽量鉄骨の倉庫みたいな建物に入ってった。灯りが点いとうけん、電気は来とるっちゃね。倉庫の前にはグロリア以外にクルマが三台。車種まで分からんけどRVが一台、あとの二台はグロリアと似たり寄ったとよりのヤンキーセダン」
「最低でも四人ってことか」
「やろうね。窓がないけん、確かなことは言えんけど。でも――」
玲央は何かを言いよどんだ。
「でも、なんだい?」
「声は聞こえる。バカ騒ぎしようけん。少なくとも二人以上の女の声がしようね。――あ、悲鳴やないけんね」
玲央は静かな声で言い足した。
あり得ない話じゃなかった。古閑一人が女連れというのも不自然だからだ。
問題はその声の主がどちら側の人間なのかだ。姉貴と同じように連れてこられた子なら――こういう言い方は良くないけど――香椎の裏通りの子のように一人に大勢が向かうよりはリスクは分散される。古閑たち側なら危険度が飛躍的に増すことになりかねない。同じ女の子ということで姉貴が警戒心を解くかもしれないからだ。
いずれにしても、時間の余裕はなさそうだ。玲央の推測どおりなら、古閑が二十歳になるまであと二時間しかない。そこまでキッチリ考えてはいないだろうし、二十歳になったからといってやめるわけでもないだろうけど。
「とりあえず、そっちまで行くよ。どこをどう行けばいいのさ?」
「それやけどさ……」
玲央は困ったように唸り声をあげた。
「あいつ追っかけて山道をグルグル走ったけん、自分がどの辺におるか、よう分かっとらんとよね」
「しっかりしてくれよ。目印とかないの?」
「看板はあるけど、そこまでの道が口ではちょっと上手く説明できん。アタシが亮太のとこまで迎えにいこっか。こっから先はバイク二台連なってっていうのもアレやし」
言い訳めいてるけどそのほうがいいのは確かだった。ボクはロードマップを眺めて、九州自動車道と併走する道沿いにあるコンビニを指定した。ボクの位置からはすぐだったし、他に分かりやすそうな場所はなかった。
玲央はすぐにいくと言って電話を切った。ボクも再びヴェスパをスタートさせた。
「……亮太、何持っとうと?」
玲央の視線はボクの肩にかかってる釣竿ケースに向けられていた。
「これ? エクスカリバー」
「へっ?」
キョトンした顔。ボクは「……金属バット」と言い直した。玲央にゲームの話が通じないのを忘れていた。アーサー王伝説にも興味ないだろうし。
怪訝そうな表情のまま、玲央は「頼んだものは持ってきてくれた?」と訊いた。ボクはポケットからずっしりと重い棒状の懐中電灯を取り出した。
「なんだい、これ?」
「シュアファイアっていう軍用のフラッシュライト」
「なんでそんなもの、福岡の中学生が持ってんのさ?」
「父さんに護身用に何か買うてって言うたら、次の日、テーブルに置いてあったと。アタシは防犯ブザーとか催涙スプレーを言ったつもりやったとやけど」
玲央はそれをボクに持っているように言った。
「ボクが?」
「お守り代わり。頑丈やけん、いざってときには棍棒代わりにもなるしね。けど、絶対に自分に向けたらダメよ。しばらく目が見えなくなるけんね」
「へぇ……」
ボクは手にしたフラッシュライトを眺めた。イメージとしては閃光手榴弾のようなものなんだろうか。あんなに威力があるはずはないけど、不意打ちでやれば効果はあるかもしれない。ナイロンのホルスターケースも一緒だったので、それを使ってライトをベルトに留めた。
「あ、そうだ。隣の引き出しは開けとらんやろうね?」
「開けてないよ」
このライトは押入れの小物入れに突っ込んであった。彼女が言ってるのはその横のファンシーケースのことだ。開けてないのは本当だけど、中身が何なのかは分かっていた。ケースの前面が半透明のプラスチックで透けて見えていたからだ。下着を見られるのを恥ずかしがるあたりは玲央も普通の女の子ということだ。
訝しげな視線を無視して玲央の後ろに跨った。
バンディットは夜の山道を走り出した。街中よりも空気がひんやりしているような気がする上に、玲央はかなりスピードを出していた。トレーナーに薄手のパーカーだけじゃちょっと寒い。玲央はちゃんとライダーズ・ジャケットを羽織っている。
彼女は前に「一度通った道は忘れない」と言っていたけど、何の目印もない山道でもその特技は生きているようだった。分かれ道でも特に迷う様子もなく、バンディットは材木置場の看板に辿り着いた。
「〈古閑建材、資機材置場〉か。これじゃ知ってる人間でも、注意してないと通り過ぎちゃうだろうな」
山間部の斜面に沿った緩いカーブの途中、道路脇にクルマが行き違うためのエスケープゾーンがある。周囲には灯りらしきものはまったくない。目印になりそうなものも見当たらない。
看板はそのゾーンの先の脇道入口に、わざと目立たないようにしてるんじゃないかと思うほどひっそりと立っていた。
「この会社、やっぱり古閑誠に関係あるの?」
「あいつの親の会社。木材加工会社っていうとかな。本社と材木の加工場は雁ノ巣にあるけん、ここはホントにいろいろ置いとくとこやろうね」
「詳しいね。さすがは建設会社の社長の孫娘」
「変な茶化し方せんでよ。そういう繋がりで知っとるわけやないとやけん」
「どういう意味さ?」
「そこの次男――要するにあのヤンキーの弟なんやけど、アタシの二つ上なんよ。つまり、アタシが一年のときの三年ってことったいね。そいつが中学に上がったばかりのアタシにちょっかい出してきたことがあってね。アタシはまったくその気がなかったんで断ったとよ。そしたら、そいつが、その――」
そこまで聞けば何の話かは想像がつく。玲央の目には嫌な光が宿っていた。
「アタシの胸がなかとか、吊り目の大女とか、まぁ、そんなこと言うたもんやけん、つい半殺しにしてしもうたったいねぇ」
「……つい、ね」
気にしていることを揶揄された彼女の心中は察して余りある。万死に値すると言われても特に反論する気もない。けれど、普通の中一女子は「つい」三年男子を半殺しにはしないし、したくてもできない。古閑(弟)も声をかけるなら、事前に相手のことくらい調べておくべきだった。
「それ、問題にならなかったの?」
興味が湧いたので訊いてみた。玲央は事も無さそうにうなずいた。
「勿論なったよ。向こうの親が学校に怒鳴り込んできてさ。ウチも保護者が呼び出されて、父さんの代わりにお祖父ちゃんが来てくれて。ただ、あの爺ィが途中で「わしの孫ば侮辱しくさってッ!!」とか言うて逆ギレして、もう大騒動」
昼間のとても祖父と孫とは思えない罵り合いが脳裏に浮かんだ。そりゃ大変だっただろうな。ボクはその場に立ち会わざるを得なかった学校の先生たちに心から同情した。
「まぁ、結局は子供同士のケンカってことで治療費だけ出して収まったとやけどね。そんとき、相手の家に一応、謝りに行ったことがあるとよ」
「なるほどね。――それでその後は? 仕返しとかなかったの?」
「なかよ。向こうも二つ下の女子にボコボコにされたとか、みっともなくて言えんやろうし。ま、一回だけ兄弟揃って歩きようとこに出くわして、険悪な雰囲気になったことがあるけど」
「それであのとき、あいつを見た覚えがあるって言ったのか」
ウチのマンションの前で古閑のグロリアを見かけたときのことだ。
「まぁね。そんな強い印象があったわけやないけど、あの兄弟、よく似とうとよ。弟のほうがちょっと目と目が離れてカエルみたいな顔しとうけど」
「それは玲央にやられてそうなったんじゃないの?」
「そうかもしれんね」
……否定しろよ。
「さて、と。おしゃべりは終わり。行こっか?」
玲央はバンディットを道端の目立たないところまで押していって、しな垂れている枝の影に隠した。ボクはバットを釣竿ケースから取り出して、右手にしっかりと構えた。
どちらともなく顔を見合わせて、玲央がゆっくりとうなづいた。それを合図にボクらは暗い山道に足を踏み入れた。