12. 逃亡
玲央はまだ家に帰っていなかった。彼女の名前が書かれた自転車は駐輪場にあったけど、あの真っ赤なバイクはなかった。
携帯電話も繋がらなかった。ボクのドコモと違って彼女の携帯電話はボーダフォンだ。意外と繋がらないところが多いと彼女自身がボヤいていた。
家の留守録にメッセージを残すのもはばかられたので、仕方なく引き上げることにした。その途中で杉野の家に寄った。
「おう、どうした?」
「おまえ、野球のバット持ってただろ。貸してくれないか?」
「よかけど、何に使う気や? 金属バットやけんロー・キックじゃ折れんぞ。栗原やったら分からんけど」
いや、いくら玲央でもそれは無理だ。
ちょっと素振りをしたくなっただけだと答えた。杉野はボクを家の裏のプレハブ倉庫に連れて行った。
「何本かあるばってん、どれがいいや?」
「一番ボロいのでいいよ。できたら、返さなくていいくらいのがあると助かる」
「へいへい。そうすっと俺が小学校のときに使うとった奴になるな。――えーっと、これなら返さんでいいぜ」
差し出されたのは見るからにジュニア用の短いバットだった。見るだけだと頼りない感じだけど、持ってみると手頃な長さと重さだった。重いバットを両手で振り回すより、取り回しのいいこっちのほうがいいかもしれない。
「サンキュー、恩にきるよ。持つべきものは友だちだな」
「馬鹿言え。貸しに決まっとうやろ」
礼は何がいいかという話で、杉野はクラスの某ルートから回ってきたDVDのコピーを取ってくれと言った。こいつと数人の連れは「ホモサピエンスの生態研究映像」と称するDVD――テーマは交尾に限られている――をやりとりしている。
「なんだよ、エロDVDか」
「やったらおまえに頼まんって。コピーガードは掛かっとらんけんな」
「ああ、そういうこと」
杉野が持ってきたのはちょっときわどい系のグラビアアイドルのDVDだった。そんなことに自分のPCを使うのは気が進まないが贅沢は言っていられない。
オリジナルのディスクを預かって、ボクは杉野の家を後にしようとした。
「そう言えばさ、おまえってずっとこの辺に住んでんの?」
「ああ、俺んちはこん地に三代続く由緒正しい家系やけんな。見ろよ、こん立派なお屋敷を」
どう見ても建売住宅にしか見えないし、三代ってことは要するに祖父さん祖母さんと一緒に住んでるというだけのことだ。ホントにアホだな、こいつ。
「それがどげんかしたとや?」
「いや、だったら、この辺をウロウロしてるグロリアに乗ってるヤンキーを知らないかなって思って」
どんなグロリアかと訊かれたので覚えている限りの特徴を話した。今さらながらナンバーを控えておかなかった自分の迂闊さを呪いたかった。
しかし、杉野は面白がるように目を丸くするとヒュウと口笛を吹いた。
「知ってんのかよ?」
「知らんこつもなかな。地元じゃちょっととした有名人ったいね。コガマコトっていうんやけど」
「……どっかで聞いたような名前だな」
「国会議員とはコガの字が違ったっちゃないかな。名前は同じやけど。名前負けって言葉はそいつのためにあるって、兄貴の担任が言いよったらしかぜ」
「有名人っていうのはどういうことだよ?」
「呼んで字の如し。そいつ、ウチの上の兄貴の同級生っちゃけど、とにかくケンカがでたらめに強かったらしか。中学校んときからヤンキーの間で知らん者はおらんて言われるほどやったけんな。また、そいつが高校に行ってボクシング始めたら一年でいきなりインターハイでよかとこまでいったりしたもんやけん、さらに有名になったとさ」
やはりあいつはボクサーだった。玲央の見立てに間違いはなかったわけだ。
「その後は? プロまで行ったとか?」
「いや、それが素行の悪さが目についたらしゅうて、ボクシング部は辞めさせられとる。基本的にあの世界てやんちゃな奴に寛容なはずなんやけど、そこでクビ言い渡されるってことは相当悪かったっちゃろうな」
「そのコガって奴の家、知ってる?」
「えーっと、雁ノ巣のほうだったはずやけど、詳しい場所までは。って言うか、おまえ、殴り込みかなんかする気か?」
ボクは思わず杉野の顔をマジマジと見た。
「どうしてそう思うのさ?」
「素振りって言うたけど、おまえ、それは凶器の持ち方やんか。右打者はバットは左手に持つもんぜ」
杉野に言われて気がついた。ボクはそのバットをまるで木刀のように右手で構えていた。
まだ、真っ正面からあいつとやりあうと決めたわけじゃない。玲央が言ったようにあいつの身辺を調べて追い込んでいったほうが安全で確実なことも事実だからだ。ただ、それとは別に、いつ何があってもいいように準備をしておく必要はあった。
「ま、俺は別によかけどな。何かあったときには、そいつは道端で拾うたことにしてくれ。古いし、マジックで書いとった字もほとんど消えとるけん、それで通じるやろ」
「分かった。あと、他に何か知ってることないか?」
「さあな。もともと俺たちとは違う世界の住人やし。――あ、そう言えば兄貴がこん前、須崎埠頭のラブホテルの前で見たって言いよったっけ」
頭をぶん殴られたような衝撃だった。
「……それ、いつの話だ?」
「先週、いや、先々週の話。ほら、あがんとこに女の子運んでくワンボックスってあるやんか。その運転手のバイトしようらしかぜ」
「なんだ、そういうことか」
ホッと胸を撫で下ろす。職業差別をする気はないけど、あいつがまともな仕事をしていないことが分かって無性に腹が立った。そんな奴が女子高生にちょっかいなんか出すんじゃない。
「なんや、そっち絡みの話や?」
杉野の口調にいつもの勝手にストーリーを作り上げるときの予兆のようなものを感じた。こういうときは相手にしないに限る。
「そういうわけじゃない。ところでおまえの兄貴、そんなとこで何してたのさ?」
「俺に訊くなって。女の子をラブホに連れ込もうとして逃げられてふて腐れとったとか、弟の口から言えるわけないやん」
「言ってるって」
それ以上、杉野から役に立つ話は聞けそうになかった。ボクはもう一度、礼を言ってその場を後にした。
家に帰って、さっそく借りてきた金属バットを手にした。
持ち慣れないものを持っているせいか、ボクはやけに好戦的な気分になっていた。もしあいつが目の前にいたらこの場で殴りかかってしまいそうだった。そうじゃなくても家を探し出して、あの霊柩車もどきのボンネットにこのバットを振り下ろしてやりたいとすら思う。
ただ、残念ながら事はそんなに単純じゃなかった。
いずれ対決は避けられないとしても、今のこの状況で行動に移せば、単に家庭内ストーカーの弟が姉の交際相手に襲い掛かったことにしかならない。何の解決にもならないばかりか、姉貴を余計に意固地にしてしまいかねなかった。ひょっとしたら親だって、相手への申し訳なさから強いことが言えなくなってしまうかもしれない。
もどかしさと歯がゆさで眩暈がしそうだった。今さらながら、玲央が言ったようにちゃんと外堀を埋めておかなかったことが悔やまれた。
気を紛らわすというわけでもなかったけど、とりあえず杉野と約束したDVDのリッピングに取り掛かった。
杉野はかなりの技術が必要だと思っているようだけど、リッピングというのは実際には大したことじゃない。コピーガードのタイプに合った専用のソフトがあれば誰にでもできることだ。違法行為スレスレなので大きな声では言えないけど。
ソフトを起動してアイコンをクリックした。画面の中の小さなウィンドウに申し訳程度の面積を水着で覆ったアイドルの姿が映し出された。たぶん、ハワイかグアムあたりの海岸で波と戯れながら胸の谷間を強調したり、身体を不自然に捻ったグラビアでよく見るポーズをとっている。
ボクも健康な十五歳の男子なので、こういうのに興味がないと言えば嘘になる。けれど、ついでに自分の分もコピーしておこうという気にはならなかった。昼間に見た玲央の水着姿を重ねてしまいそうだったからだ。バレることはないけど、それはやっちゃいけないことのような気がした。
DVDが焼きあがるまでリビングでテレビを見ながら待つことにしたのはいいけど、プールで泳いだり慣れないバイクの後ろに乗ったりしたせいか、三〇分も見ないうちにボクはウトウトしていた。おかげで家の電話が鳴っているのをやりすごすところだった。
ナンバー・ディスプレイには番号しか表示されていなかった。〇九〇ということは携帯からだ。
「はい、三浦ですけど」
「春香いますか?」
トモコとかいう姉貴のクラスメイトだった。姉貴が使い過ぎで携帯電話を親に取り上げられていたときにこっちにかけてきていたので、何度か声を聞いたことがある。
「姉は今、バイトに行ってますけど?」
「えっ!?」
何故か、トモコは素っ頓狂な声をあげた。何かを取り繕うように彼女は「えー」だの「あー」だの意味不明の呻きを繰り返した。
「そのー、電話、繋がらんかったから……」
「バイト中は携帯は持ってないと思いますよ。何だったらコンビニの番号、教えましょうか?」
「あー、いえ、いいです」
そのままガチャンと電話は切られた。
リビングに戻った。眠気はすっかり去ってしまっていた。クイズ番組――改編期名物のやたら長いアレだ――はたいして面白くなかったのでチャンネルをNHKに変えた。ちょうど八時四十五分のニュースが始まったところだった。
昼にたらふく鮨を食べたものの、そのあとは何も食べていなかったのでおなかが空いていた。
杉野の家からの帰りに買ってきておいた弁当を食べることにして、麦茶をグラスに注いだ。テレビの前に戻ると、昨日発表された巨人の監督の辞任に伴う後任がどうとか、この時間に扱う意味がよく分からないニュースをやっていた。
――ちょっと待てよ?
いや、別に巨人の次期監督の人選に異議があるわけじゃない――ボクはこの神経質そうなオッサンのことはまったく知らない。さっきのトモコからの電話のことだ。
すぐ近くに住んでいることもあって彼女と姉貴は仲がいい。その彼女が姉貴のバイト中に電話をかけたことがないなんてことがあるだろうか。
もちろん姉貴はバイト中は電話は取れないので、かけても出ないことは間違いない。しかし、だったら普通は「ああ、バイト中か」と思うだけで、家に電話をかけたりはしないはずだ。
単にトモコが忘れっぽくて、姉貴は今日はバイトだというのを失念しただけかもしれない。そして、電話が繋がらないのを電池切れだと思った可能性はある。
でも、それではさっきのトモコの慌てようの説明がつかなかった。さっきのあれは、まるでかけてはいけないところに電話をかけてしまって、でも、あんまり不審を招くような切り方ができなかった――そんな感じだった。
嫌な予感がした。何がというわけじゃないけど、辻褄の微妙な合わなさが引っかかる。
ボクは家の電話の番号登録から姉貴のバイト先の番号を呼び出した。幸い、父親のフリをするシミュレーションは済ませてあった。咳払いを何度かして低い声を出してみる。エー、ミウラハルカの父ですが。オーケー、ちゃんと出てる。
電話の呼び出し音が死刑執行のカウントダウンのように聞こえた。愛想のいい声のおじさんが電話に出た。ボクはシミュレーションどおりに姉貴と変わってくれと言った。
店長だというそのおじさんは切り出しにくそうに言った。
「えー、その、春香ちゃんは今日は具合が悪かけんって、八時ごろに早退したとですけどね……まだ、帰っとらんとですかね?」
くそッ、やっぱりだ。
「ああ、そうですか。そうですね……まだ帰ってないんですが、そこからなら時間もかかるでしょうし。途中でドラッグストアにでも寄ってるのかもしれませんね。どうも、娘がご迷惑をかけたようで――」
我ながらよくこれだけ口から出まかせが言えるもんだ。どう考えたってコンビニからウチまでは三〇分もかからないし、姉貴はいろいろと面倒なアレルギー持ちなので薬は病院で処方されたものと漢方薬しか飲まない。
店長さんは少し安心したように「ああ、ウチはいいんですが」と朗らかな声で言った。何に安心しているのか分かったもんじゃないけど、そこを追求している場合じゃなかった。ボクは適当なところで会話を切り上げて電話を切った。
すぐさま、自宅の電話から姉貴の携帯を鳴らしてみた。
ワンコール。ツーコール。そこでブツリと切れた。この切れ方からすると、姉貴はディスプレイの表示を見て着信拒否をしている。
すぐさま自分の携帯で呼び出してみる。今度は最初から繋がらなかった。ほんの一〇数秒の話なので設定を変えたわけじゃないだろう。姉貴はボクの携帯をあらかじめ着信拒否に設定している。つまり今夜、ボクからの電話を取らないつもりだったということだ。
間違いない。姉貴は最初からバイトを適当なところで切り上げて、とっとと夜遊びに出かけるつもりだったのだ。そして、その相手はあいつ――古閑しか考えられない。
ボクはまんまと出し抜かれたというわけだ。