11. 執念
西新まで歩いて市営地下鉄に乗った。中洲川端で貝塚行きの空港線に乗り換える。地下鉄は貝塚で西鉄の宮地岳線と接続しているので、三苫まですんなり帰ることができた。
それでも予定よりはちょっと遅かった。ボクが家に着いたときには姉貴はすでに模試から帰ってきて、バイトに向かった後だった。
ボクは楽な格好に着替えて自分のベッドにひっくり返った。
正直、何もする気が起きなかった。
怒りはとっくに収まっていた。だいたい、ボクが怒る筋合いじゃなかった。最初から心のどこかで気づいていて、それでも、必死で目を背けてきたことをハッキリ指摘されたというだけの話だった。ボクが救いようのない馬鹿だったというだけの話だ。
首を回して時計を見た。午後六時ちょっと過ぎ。
姉貴がちゃんとバイトに行ってるかどうかの確認なんて、電話で済ませればいいことだ。わざわざコンビニまで行かなくたっていい。
実際のところ、姉のバイトの日に必ずコンビニに現れる弟のことはちょっとした噂になってるらしい。ボクは姉貴のことを心配してやってるつもりだけど、傍から見れば紛れもない家庭内ストーカーなこともちゃんと自覚してる。
ボクは家の電話の子機を手に取った。変声期は過ぎているので、声を押し殺せば父親のフリをしてもそんなに不自然じゃないはずだ。もし電話に出たのが姉貴ならそれはそれで目的は果たされるわけで、そのときは無言で電話を切ればいい。
(もしもし、私、ミウラハルカの家族の者ですが。はい、いつも娘がお世話になっております。仕事中に申し訳ないのですが、ちょっと伝えることがありまして。娘はもう、そちらにおりますでしょうか?)
そんな文面を思い浮かべて、あまりの馬鹿馬鹿しさに頭から追い払った。父親のフリをすれば、今度は父親に事情を話さなきゃならなくなる。そんなことができるんだったら、最初から両親に告げ口して終わらせてる。
ベッドから身体を起こして、出かけるために着替えを引っ張り出した。
姉貴はちゃんとコンビニにいた。我が姉ながら外面が異常に良いのでコンビニでの評価は悪くないらしい。その半分でも家でニコニコしてくれてれば姉弟ゲンカの回数だって減るのに。
いつもは店内にまで入るんだけど今日はそんな気にならなかった。外からしばらく様子を窺っただけで引き返すことにした。
すぐに帰る気にはならなかった。ボクはゆっくりペダルを漕いで大通りを流した。
先週の日曜日、玲央を送っていく途中に寄った公園に差し掛かった。ボクはその中にマウンテンバイクを乗り入れた。
キャッチボールをしている小学生の兄弟が一組と、数人でボールを追っているサッカー少年のグループがいる。それとカップルらしい高校生の二人連れ。
ボクはベンチに腰掛けてキャッチボールの兄弟をぼんやりと眺めた。
日は暮れかけていて、そろそろボールが見えなくなるはずだ。兄は弟に向かって「いい加減に帰ろうぜ」と言っている。だけど、弟はまだ帰りたがっていないようだ。グラブを叩いてボールを要求する。
弟はまだ野球を始めたばかりのようで、兄が投げるボールをお手玉したり、そのまますっぽ抜かしては後ろへ全力ダッシュしていた。
これが最後だぞ、という声と共にボールが飛んだ。弟は必死にそれを眼で追いながらキャッチしようとする。でも、夕暮れの薄暗がりの中ではボールは見えづらい。弟はオロオロと視線を彷徨わせた挙句、何と飛んできたボールを見事に額でキャッチした。
公園中に盛大な泣き声が響きわたった。
カップルの女の子が心配と笑いが入り混じった顔で隣の男に何か囁いている。まるで「うわあ、今の痛かったよねぇ」とでも言っているようだ。
それは違っていた。
痛かったから泣いてるんじゃなかった。悔しかったから泣いているのだ。その証拠に弟はグラブを足元の地面に叩きつけていた。
兄はやれやれといった感じで弟に近寄り、グラブをそっと拾って弟を宥めながら公園を後にした。それが合図だったようにカップルも腰を上げる。いつの間にかサッカー少年たちも姿を消していて、公園にいるのはボクだけになった。
ボクはその場でボーっとしたまま、どうして玲央が急にあんなことを言い出したのか、そのことをずっと考えていた。
自惚れるつもりはないけど、今日一日の様子だと玲央はボクのことを、少なくとも友だちだとは思ってくれている。それには確信がある。
なのに、玲央はその関係がぶち壊しになるのを分かった上で、あえてボクに厳しい言葉を浴びせかけた。
ボクのことが嫌いになったから?
ひょっとしたらそうかもしれない。でも、ボクが知っている玲央はそんなことはしない。愛想を尽かしたのなら相手にもしてくれないはずだ。
――いい加減に認めなさいよ。自分がどうしようもない意気地なしだって。
鋭利な刃物のような言葉が耳に甦る。
玲央が言うとおり、そろそろ認めるときだった。短時間では強くなれないことは分かっているのに、ボクは空手を習うことで「自分にやれることはやったんだ」と一人だけ納得する材料を作っていた。本当に立ち向かうべきことから目を背けて、自分の言い訳の中に逃げ込もうとしていた。ボクはさっきのキャッチボールの弟にも劣る意気地なしだった。
ふと、無意識に握っていた拳に視線を落とした。
さんざんうるさく言われたおかげで、自然に正しい握りができるようになっていた。肉の薄いゴツゴツと骨ばった拳だけど、手そのものは割と大きいし、自分ではそう思っていなかったけどボクは意外と骨太らしい。玲央も「当たったら痛いよね」と言ってくれた。
どうせそんなに何種類も覚えられないのと、短時間では手首を鍛えられないからと、彼女は正拳突きとは別にバックナックル――裏拳の練習を集中的にやらせた。
他に教えてくれたのは、相手の出足を止めるための膝への前蹴り――要するに蝶野のケンカキック――と基本中の基本の下段回し蹴り、そしてもう一つ、とんでもない必殺技だった。
* * *
「亮太、必殺技、教えてあげよっか?」
一昨日の放課後の練習中、玲央は悪戯っぽく笑いながらそう言った。
何のことか分からないでいるボクにスタスタと近寄ってくると、玲央はボクの後頭部に手を回した。玲央の顔がボクの顔の目の前――吐息を感じられる距離まで迫ってくる。
えっ、なんだ?
次の瞬間、額のあたりで脳みそが揺れるような衝撃が炸裂した。
「いってえッ!!」
ボクは額を押さえてその場でのた打ち回った。
「必殺技って、頭突き!?」
「あ、馬鹿にしとうやろ。当たればかなり効くっちゃけんね」
確かに効いた。まだ目の奥で火花が散ってる気がする。ボクは痛みが治まるまでうずくまって、涼しい顔の玲央を見上げた。
「でもさ、これってかなり接近しないと使えないんじゃないか?」
「まぁね。でも、そんために相手の手を捕る練習しようとやん。ねぇ、亮太。ケンカで一番有効な技って何か知っとる?」
「クイズ?」
玲央は「真面目な質問」と言いながらしゃがみ込んで、ボクの額にデコピンを喰らわした。ボクはあまりの痛みに思わず「ヒッ!」と情けない声を上げてしまった。
「……なんだよ。金的蹴り?」
「それも強烈やけど、男の子にしか効かんやんね。正解は体当たり――別名、ぶちかまし。力士ケンカ最強説の根拠でもあるけど」
「えーっ!?」
「意外?」
「っていうか、ダサい」
「確かに」
玲央はカラカラと笑う。
「でも、この技――とも呼べんっちゃけど、これの怖いとこは小手先の技術じゃどうにもならんってとこたいね。組み技系はともかく、打撃系の格闘家には避ける以外の対処法がないけん」
「そうかも知れないけど、ボクみたいに身体が軽いと効かないだろ?」
「やけん、今の必殺技があるとよ。二、三発喰らう覚悟で身体ごとぶつかっていって、とにかく相手の身体に頭突きを喰らわす。うまく骨に当たったらめっちゃ痛いけんね。で、あとは指先をどっか身体の柔らかいところにめり込ませるとか、噛み付くとか。つねるっていうのも意外と効くかな」
「そこまでいくと、もはや格闘技じゃないね」
「プリミティブな攻撃が一番強いってこと。見栄えは悪かけどね」
玲央は不意に真面目な顔つきになった。
「だいたい、あんた、勝ち方にこだわってる余裕とかあると? あんた、自分とお姉さんの二人を守らんといかんとよ?」
* * *
なんだ、とっくにボクはケンカの心構えを諭されていたんじゃないか。
玲央は決して「勝つために手段を選ぶな」と言ってるわけじゃない。ただ、大切なものの前でつまらないプライドにこだわるなと言っているのだ。美しい敗北には自己満足以外の何の意味もない。どれだけ不様でも、どれだけ卑怯と罵られようと、絶対に勝たなきゃならない闘いがある。執念を燃やさなきゃならない時がある。
ボクの場合がそうだ。