10. 覚悟
玲央が連れていってくれたのは天神のど真ん中にある有名な店だった。
一階は回転寿司だったのでそっちに行くのかと思ったら、玲央は迷うことなく上の階のお店に入った。そこでボクらは店員さんの不審そうな目を物ともせずに一番高い上にぎりをたいらげた。
「うっわ、美味しいねぇ」
「やろ?」
玲央は少し得意げだった。
転勤族の我が家には馴染みの鮨屋なんてないし、おまけに魚嫌いの父親のせいで、たまに回転寿司に行く以外は鮨を食べる機会はない。ボクがそう言うと玲央も「アタシもそんなにしょっちゅう食べるわけじゃなかけどね」と言った。彼女の場合、誰かと一緒にご飯を食べること自体が滅多にないらしかった。
支払いを済ませて街中をブラブラと歩いた。
「これからどうする?」
「もうちょっと遊んでいこ。いいやろ?」
まだ二時を少し回ったところだった。姉貴の模試が確か四時ごろに終わる。六時のバイトに間に合うように帰るには寄り道をしてる余裕はないはずだ。五時くらいまでに家にいれば大丈夫だろう。
「どこ行く?」
「亮太が行きたいとこでよかよ」
「急にそんなこと言われても、よく分かんないけど……。そうだな、福岡タワーには行ったことないや」
「ゲッ!?」
玲央はどこから出したのか訊きたくなるような妙な声を出した。
「どうかした?」
「う、ううん。何でもない。えー、福岡タワーねぇ……」
玲央の目が見たことないほど泳いでいる。何となくその理由が想像できた。
「ひょっとして、玲央って高所恐怖症?」
「そ、そがんことなかって。ホラ、言うやん、馬鹿と煙は高いところが好きって」
「嫌なら別のところでもいいよ。マリノアの大観覧車とか」
「一緒やんねって!!」
玲央が思わず突っ込む。やっぱりそうなんだ。
ジットリした視線を受け流して、ボクは玲央の目を覗き込んだ。我ながら嫌な奴だと思いつつも自然と笑みがこぼれる。
「ホラ、例の賭けあるよね。ボクが玲央のパンチを捕れたらって奴」
「それが?」
「ボクが勝ったら福岡一日高所巡りツアーなんていいかもしれないなー、とか思って」
「サイテー」
玲央はちょっとむくれている。ところが、彼女は何かを思いついたようにパッと表情を輝かせた。
「でもさ、それは亮太が賭けに勝ったらってことやし、要はアタシが手を捕らせなきゃよかわけよね?」
「そうだけど?」
「よし、今度から本気でやろうっと」
あれで本気のスピードじゃなかったのかよ。
「それって元々の練習の趣旨から外れるんじゃないの?」
「いいと、アタシの身の安全が第一なんやけん」
「そういう問題じゃないような気がするけど」
「せからし。亮太って優しそうな顔しとうくせに、意外とイジワルとね~」
玲央は顔をしかめて、思いっきり舌を出した。
そんなわけで若干の言い合いの末、ボクらは福岡ドームに行くことになった。玲央は天神から大通りじゃなく細かい裏道を縫うようにバンディットを走らせた。
「玲央ってホントによく道を知ってるよね」
「アタシ、一度通った道は忘れんとよね。自分の運転だけやなくて、助手席に乗ってても覚えるとよ」
「こんな道、誰が走るんだよ」
玲央はさっき、クルマと歩行者がすれ違えない――どうでもいいけど、このクルマのすれ違いのことを福岡では離合という――ほど狭い道を走っていた。
バンディットは唐突に大きな川沿いに出た。橋のたもとには室見川という看板があって、河口のほうにシーホークホテルと福岡ドームのてっぺんが見えた。
ここも前を通ったことがあるだけで、ちゃんと敷地に入ったことはなかった。ドームの手前にあるショッピングモールにバンディットを停めて、ドーム前のエスカレータに乗った。薄いレンガ色の建物は上のドーム部分だけが鈍い金属の色になっている。近くで見るととんでもない大きさだ。
プロ野球のシーズンはあといくつか消化試合を残すだけで、福岡ドームでのホームゲームもウィークデーに一試合あるだけだった。とは言っても、ホークスには阪神との日本シリーズが控えている。当然、ドーム周辺にもそんな期待と緊張感のようなものが漂っている気がする。
そういえばテレビのニュースでシーズン優勝が決まった夜、中洲の橋の上で馬鹿騒ぎしていたファンが那珂川にダイブしているところが流れていた。もし、日本一になったらやっぱり同じように人が飛ぶんだろう。野球やサッカーにはあまり興味がないので応援に熱狂するファン心理はいまいちピンとこないけど、喜んでるんだなというのは伝わってきた。
尤も、筋金入りのジャイアンツ党である父親はその様子を苦々しそうに見ていた。しょうがないだろ、悪いのはナベツネさ。
中には入れないので、ボクらは外の広々とした遊歩道をブラブラした。外周の植え込みの前には手の形をした色とりどりのモニュメントがある。
「何、あれ?」
「手形がくっついとうとよ。近くで見てみたら?」
そう言いながら、玲央自身は何となく近寄りたがらなかった。
理由はすぐに分かった。どのモニュメントにも握手をするような形のブロンズの立体手形とサインが取り付けてあるけど、モノによっては壁からいくつもの手がヌゥっと生えてるようにも見えてちょっと薄気味悪い。
「握手したことある?」
「猪木とだけね」
B’zの稲葉浩志とかダイエーの王監督の手形もあるのに、わざわざアントニオ猪木を選ぶ玲央のセレクトにボクは吹きだしそうになった。
そのまま隣のシーホークホテルに入って、亜熱帯の植物がいっぱいの吹き抜けのアトリウムで休憩することにした。そこはティーラウンジにもなっている。玲央はいつものようにコーヒー、ボクは見栄を張らずにオレンジジュースを頼んだ。
「結局、今日は空手の稽古はしなかったね」
「まぁ、いいっちゃないと。根つめたって一足飛びに上達せんしね」
「そうなんだけどさ」
「今日は休んだほうがいいって。しっかり泳いで身体動かしたっちゃし」
彼女の声には聞き分けの悪い子供に言い聞かせるような響きがあった。ボクをプールに誘ったのだって、きっと思い詰めがちなボクを心配してくれたからだ。
玲央が言うとおりなのは分かっている。それでも、ボクの胸の内にはどうしようもなく焦りがくすぶっている。
昼休みは玲央の課題――パンチを避けながら玲央の手を捕まえることをやって、そして火曜日からは放課後にも特訓をしていた。それとは別に姉貴を見張らなくていい日には道場での基礎もみっちりやった。
自分で言うのもなんだけど進歩はしてると思う。
最初は身体の芯がなくてきちんと構えて立っていることすらできなかった。ほんの少しステップを踏みながら手足を動かすだけで息が上がってしまっていた。それが今では基本的な足の運びも覚えたし、スタミナだってついてきた。突きも蹴りもそれなりに形になってきている。昨日、冗談半分に杉野の脚を蹴ってみたら自分でもビックリするほど小気味いい音がして、杉野をその場で悶絶させてしまった。
それなのに感じる焦りの正体。実はそれが何かは分かりきっていた。ゴールが見えないからだ。
もちろん、強くなることにゴールなんてない。ただ、ボクには姉貴をあいつから守れるようになるという当面の目的がある。なのに、そうなるのにどこまで強くなればいいのか、そういった目安がまるでない。
あいつがいつ、あの駅前の女の子にした暴力を姉貴に向けるか、それは分からない。ただ、そのときにもしボクがあいつに勝てるほど強くなっていなかったら――。
そう思うといても立ってもいられなくなる。これからでも、何でもいいから練習したくなる。
「やったらいっそのこと、こっちからあのヤンキーをボコボコにしに行けばいいやん。そのほうが手っ取り早かかもしれんし」
ボクが思いつくままにそう言うと、玲央は事も無げにそう言った。
それができればこんなにグジグジと悩んだりしない。口には出せないけど、あいつに向かって「姉貴に妙な真似をしたらただじゃおかない」と啖呵を切るところをどれだけ妄想しただろう。
「……今のボクじゃ、それは無理だよ」
玲央はフンと鼻を鳴らした。
「じゃあ訊くけど、もし今夜、あいつと対決することになったらどうする?」
「……えっ?」
「ありえん話やなかよね。お母さんはおらんとやし、お父さんは当てにはならんって言いよったもんね。ねぇ、どうすると? あいつに向かって「ボクはまだあんたに勝てないからもうちょっと待ってくれ」って頼むと?」
「それは……」
「いい加減に認めたら?」
「何を?」
「自分がどがんしようもない意気地なしってこと。ホントにお姉さんのことが大事やったら、自分が空手ができるとかできんとか、強いとか弱いとか、そがんと関係ないやん。相手が腕っ節が立つとやったらナイフでも金属バットでも用意すればよかやんね」
「でも、それじゃあ――」
「卑怯って? あんた、馬鹿やないと?」
嘲るような口調。それに合わせるように玲央の目が獰猛な輝きを放っていた。
「相手はあんたが弱いけんってハンデとかくれんとよ? そうやないでも、女の子を夜道で殴るような奴が正々堂々と勝負に応じるわけないやん。あんたが立ち向かったところで何人かでフクロにされて終わりって」
「それは――」
彼女の言う通りだった。玲央は乱暴な手つきでカップを取るとコーヒーを苦々しげに飲み干した。
「ケンカの強さっていろいろあるよ。もちろん技術的なところもあるし、身体のサイズ的なこともある。やっぱり身体が大きいってことはそれだけで有利やけんね。でも、ケンカって最終的にはハートの強さの問題なんよ。もちろん、褒められたもんやないよ。アタシもくだらんって思ってる。ホントにそう思ってる。でも、やっぱり自分の意志を曲げるわけにはいかんとき、他人の横暴に屈するわけにはいかんときがあるとよ。普段は事なかれ主義でもよかよ。でも、争いが避けられんなら躊躇わずに拳を振り上げる。そして、相手がくたばるまで拳を振り下ろし続ける。そんなハートの強さがないといけんってアタシは思っとう」
「それがボクにはないっていうのかい?」
「まったくないとは言わんけどね。でも、あんたには何がなんでも勝つっていう気迫が決定的に足りんとよ。お姉さんを思う気持ちは嘘やなかろうけど、そのために他のモノを犠牲にしてもいいっていう覚悟がね。だから、一生懸命トレーニングして、自分を無理やり納得させたいと。違う?」
玲央はつまらなそうに「それじゃ勝てんよ」と付け加えた。
猛然と腹が立ってきた。ボクは思わず玲央を睨みつけていた。でも、同時に頭のどこかで自分を嘲るような笑い声が鳴り響いていた。――なんだ、図星じゃないか。
「じゃあ、どうすればいいのさ?」
「最初に言うたやん。他の方法を考えたほうがいいって。あいつの素行の悪さを証明するとかさ。あれだけのヤンキーやもん、叩けばいくらでもホコリは出てくるって」
確かにそうだ。そのほうが何倍も確実だし、しかも効果的だ。わざわざ痛い目に遭う必要だってない。
「それにちゃんと外堀埋めてからやないと、どんだけ亮太が奮闘したってお姉さんの気持ちは変わらんっちゃないかな」
「……そうだね」
なんだ、やっぱりボクがやってたことは、ただの自己満足だったんじゃないか。
しばらくボクは黙っていた。玲央もジッとぼくを見つめるだけだった。
「じゃあ、どうしてこの一週間、ボクに付き合ってくれたんだい? ボクが可哀そうだったから?」
玲央はゆっくりと首を横に振った。
「違うよ。亮太にどれだけの覚悟があるか、それが見たかったと」
「なるほどね。そして、ボクは試験に落ちたわけだ?」
玲央は何も言わなかった。
ボクは席を立った。これ以上、この場にいたくなかった。
「帰り、どうすると?」
「一人で帰れるよ。子供じゃないんだから」
目頭が熱くなるのを感じた。ボクはそれを必死にこらえた。腐ってもボクは男だ。女の子の前で泣くわけにはいかない。
でも、声が震えるのを止めることはできなかった。
財布から取り出した千円札をテーブルに置いて、ボクはティーラウンジを出た。一度も振り返ることなく。