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第三章 夏のわらし。

その三日後、女の子は、店に来なかった―――

その三日後も、更にその三日後も、彼女の特別席は、ぽつねんと店の端に立ち尽くしていた。



「おっと!」

郁は、洗っていたグラスを取り落としそうになって、慌てて手で押さえた。溜息をつく。ここ数日はずっとこんな調子だ。店は繁盛している。けれど、それは嬉しいことでもなんでもなく、ただただ、苦痛だった。

……いや、

繁盛しているといっても、もう、行列が出来るようなことは無い。まるで、女の子の存在に客足が影響されているように、彼女が来なくなった日から徐々に徐々に客は減り続けている。この調子で減り続けたら、あと一月も経つ頃には元の閑古鳥に戻るだろう。それについては郁は気にしていない。ただ、身寄りのなさそうな女の子の行方が心配だった。どうして店に来なくなったのか、来れない事情があるのか。

郁は再び、深い深い溜息をついた。

「お待たせいたしました。こちら、ホットティーになります」

注文の品を持っていくと、客に怪訝な顔をされた。

「俺、アイスレモンティーを注文したんだけど」

「あ! え! あ、すいません!」

慌てたせいで、手元が狂った。ホットティーを客にぶちまけてしまう。

「熱ちい!」

「うわ、あ! 申し訳ありません」

「何やってんだよテメェ! 火傷しちまうじゃねえか!」

「申し訳ありません」

「うるせえ! 土下座しろよ土下座」

「本当に申し訳ありません」

深々と頭を下げる。しかし、客の怒りは収まらなかった。騒ぎを知った周りの客も、眉をひそめてこちらを見る。郁は客に見られないように奥歯をぎりと噛んだ。周りの視線が痛い。中には、自分と同じ高校生のカップルの姿もある。今すぐ逃げ出したい気持ちに駆られた。

なんだか、疲れた。

客の怒鳴り声が遠くに聞こえる。

郁は、 ぼぅっとしたままそれに耳を傾ける。

その時―――

「やめときなよ、青年。店員さんを怒ったって仕方がないでしょ?」

誰かが諌める。遅れて、タオル男の声だと気が付いた。

「ここでいくら怒鳴ったって、バイト君に何かが出来るわけが無いじゃん。それに、ここの店長は入院中だよ。怒鳴るだけ怒鳴り損じゃないかな」

「あんたねえ! 俺は火傷しかかったんですよ!」

「はいはい。それはさっき聞いたよ。どうしても腹の虫が収まんないんなら、今回の食事の代金はタダにするってことで手を打とう。君、よく食ってたもんね。サンドイッチ五切れにモンブラン二つ、ブラックコーヒーとアイスレモンティーがそれぞれ一杯ずつ。合計すりゃ三千円超えちゃうね。それを全部チャラに出来れば、大助かりでしょ」

「……汚れちまった服をクリーニングに出したらそんなはした金すぐなくなっちまうだろ」

「あのね」

タオル男が、客の手を強く握る。客が顔をしかめた。

「君にそんな偉そうな事をいう資格があると思う? 君、食い逃げする気だったでしょ。僕は貧乏な人は何人も見てきたからね。そういうのは一目でわかるんだよ」

「な! あんた、何言ってんだ!」

「そう? じゃあ、確かめさせてもらおうかな」

そう言ってタオル男は、茶色い財布をピラピラさせる。客が慌ててポケットに手を伸ばした。

「な! 手前、すりやがったな!」

「気が付かなかったでしょう……っと、なんだ、小銭ばかりじゃん。えっと、十円二十円…ほらみろ、千五百円しか入ってない」

「! っ! 返せ!」

客は、タオル男から財布をひったくると、郁をびしっと指差した。

「覚えてろよ!」

そして肩をゆすりながら店を出て行く。郁は状況に理解が追いつけずに呆然とした。

「随分疲れているみたいだねえ。そんなにあの童のことが気になるのかい?」

タオル男が心配そうに郁の体調を気遣う。そんなに頼りなく見えるのだろうか?

郁は、ふうと溜息をついた。

「助けてくださってありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」

「そうだね。感謝してるんならさりげなく質問をごまかすのはやめようね」

タオル男はニヤニヤ笑う。郁は、タオル男に向き直った。こういう風にしつこく絡んでくる人には、ちゃんと答えを返さないといつまでも付きまとわれると経験で知っていた。

「あの女の子の事が気にならないといったら嘘になりますが、あの子が店に来なくなったからといって、とやかく言う筋合いは自分にはありませんから。もちろん、個人的にはあの子がこの店に来てくれなくなったことは悲しいですけど、それはあの子が決めることです。この店にもう来たくないと言うのならそれでもいい」

「でも、また逢いたいんじゃないの?」

「ええ。でもそれは、大して期待しないでおきましょう。世の中、諦めが肝心です」

タオル男は、黙ったままじっと郁を見つめる。

「……それで、君は失敗もしないうちから夢を諦めたんだね」

夢。

絵。

将来。

コンクール。

郁の目が、一瞬だけ宙を泳いだ。

「……何の、話ですか?」

「君の話でしょう。昔、君のお父さんがよく君の話をしていたよ。自慢された、と言うべきなのかもしれないね。確か、君は芸大への推薦を持っていたそうじゃないか。プロの画家になることが夢じゃなかったのかい?」

「昔の話です」

「違うよ。将来の話だよ」

「もう諦めたんです。いつ叶うかも分からない夢を追いかけるよりも先に、母のために入院代を稼がなくちゃいけませんから」

「ふぅん。怖いんだ」

その、人を小馬鹿にしたような言い方に、郁は腹を立てた。

「違います! 僕だってもっと絵を描いていたかった! けど、夢じゃ食べていけないんだ!」

「でも、君は絵を描いていない」

「描けないんだ! 仕方が無いだろ!」

タオル男が嘲笑する。

「まあまあ、落ち着いて。それは、本当に君のお母さんの願いなのかな? 君のお母さんは、君に、『夢を諦めて私の入院費用を稼げ』とでも言ったのかな?」

「そんなこと…言うわけがないでしょう」

「そうでしょ。むしろ、逆のことを言ったんじゃないかな。自分はもう、一人でも大丈夫だから……って」

郁は目を見開いた。

病院での会話の意味が、漸く分かったのだ。


―――そろそろ個室にも飽きたわ。一人だと寂しいから。話をする相手もいないし。

―――私がいるじゃない。

―――そうね。でも、もう大丈夫よ。再来月位には大部屋に移れることになったから、話し相手の一人や二人、すぐに出来るわよ。母さんは世渡り上手だから。


「……図星みたいだね」

顔に浮かんだ動揺を鋭く指摘された。

けれど、なんだか胸がすっとした。目が覚めた気がした。

「絵が、描きたいです」

「うん」

「もしかしたら、また挫折するかもしれません」

「そうだね」

「プロの画家になれるとは限りません。やっぱり怖いです」

「知ってる」

郁の言葉に、タオル男は淡々と答えていく。けれど、タオル男が求めている一言は、なかなか口にすることが出来なかった。そんな郁の気持ちを察したタオル男が、提案してきた。

「じゃあ、賭けをしようじゃないか」

「賭けですか?」

「あの童だよ。今日の閉店までにあの童がこの店に来たら、僕の勝ち。来なかったなら、君の勝ち」

「それで、何をかけるんですか?」

「僕が勝ったら君は絵を描く。君が勝ったら、君の好きにすればいい」

「それじゃあ、あなたの利益が無いじゃないですか」

「あるさ。僕は君のお父さんの代のときから、この店が好きだからね。君の背中を押してあげるぐらいなら、やってもいい。あの童のお株を奪うと言うのも一興だろう?」

タオル男が手を差し出す。郁は、ちょっとだけ考えた。いや、考える振りをした。もう答えは決まっていた。

「分かりました。その賭け、乗りましょう」

郁は、その右手を取った。



賭ける。とは言ったものの、分の悪い賭けであったことには違いない。現在時刻は既に十二時を回って、閉店時刻まで四時間を切っている。その間に女の子が来なければ、賭けには、負ける。タオル男には黙っているけれども、郁は、賭けに負けたら筆を折ろうと決めている。腹をくくった、と言うわけではない。ただ、あの女の子なら必ず期待にこたえてくれるような予感がしていた。それは自分勝手な予感ではあるけれど、確かな信頼感があった。


カランコロン―――

初老の紳士がやってくる。

現在時刻、十二時半。


カランコロン―――

若い親子連れがやってくる。

現在時刻、二時四十五分。


カランコロン―――

OLの二人組みがやってくる。

現在時刻、三時十五分。


カランコロン―――

カメラを携えた高校生のカップルがやってくる。

現在時刻、三時四十分。


じりじりと時間が減っていく。あと二十分しかない。あの女の子の来る時間は、日によってばらばらだった。朝早くに来ることもあれば、それこそ閉店間際に飛び込んでくることもある。来店時間にはこれと言ったこだわりがないようだった。

でも、今日ぐらいは早く来てもいいじゃないか。

郁は、いつも以上に女の子のことを待ち遠しく思った。客からの注文を効率よくこなしながら、どれだけあの少女が自分の心を癒してくれていたのか、深く理解した。郁は時計を見る。現在時刻、三時五十七分。タオル男のほうを見ると、彼も落ち着き無く足をゆすっている。不安が影をよぎった。

郁は、もう諦めて店を閉めようと立ち上がった。

その時、だった。


カランコロン―――


風が、吹いた。

夏の香りだ。そんな気がした。

郁は、慌てて振り返ろうとする。足がもつれた。それでも構わず扉のほうを見た。

そこに立っていたのは―――


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