表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

第二章 夏季限定トリプルパフェ/スペシャルケーキセット。

女の子が来た日から、十日が経った。そして、まるでそれが契機になったかのように客の数も増え続け、いつの間にか周囲から、「行列のできる喫茶店」という認識を得るようになってしまった。

女の子は、今でも三日ごとにやってくる。

三日ごとに、三百円。

頼むのは、いつもモカ。

砂糖たっぷり。

今更になって郁は漸く気がついたのだが、クリッとした女の子の瞳は、宝石のように美しい。女の子はあまり感情を顔に出さないようだったけれど、じっとその瞳を見つめていると、ほんの少しだけ女の子の内面がわかる気がする。



営業時間が終わった後。郁は、母の見舞いに出かけた。着替えの服などを持っていかなければいけないので、週に二回はこうして母の元を訪れている。病院に着くと、すれ違った看護婦に軽く会釈された。何度も来ているせいで顔を覚えられているようだ。病室に到着する。5109号室。郁は、ため息をついてから静かにドアを開いた。

「母さん、起きてる?」

声に反応して、部屋の中の人影が身じろぎした。

「……ああ、郁か。よくきたね」

返って来る優しい声。郁の一番好きな声だ。

「今、昔の夢を見ていたのよ。ほら、郁が芸大への推薦を取って、家族でパーティーをしたじゃない。一番はしゃいでいたのは父さんだったわよね。郁は昔から絵を描くのが好きだったけど、父さんは同じだけ昔から郁の絵を見るのが好きだったから」

「……うん、ああ、そうだったね」

郁が顔をしかめる。パーティーの四日後、父は事故で死んだのだ。だから、この話は、過去の幸せと今の憂鬱な日々との違いを、鮮明にしてしまう。

「郁、ごめんね。こんなことになって、本当に、ごめんね」

「母さんが謝る事じゃないって。仕方が無いことなんだよ。父さんが事故に逢うなんて、誰にも分からなかったんだし」

「でも、私は郁の母親だから」

その言葉に、郁ははっとした。そして、母のことを卑怯だと思った。親だからという言い訳で、いつも泥をかぶろうとする。郁は気まずくなって、母から目を逸らした。

「母さんが心配するようなことは何も無いよ。大学へは行けなかったけど、それなりに充実した日常を送っているし。最近、店に面白い客さんが来るようになったし」

「店って…ああ、喫茶店ね」

母は、ぼんやりと壁にかけられたカレンダーを見た。

「父さんが死んでから、もうどれくらいになるかしら?」

「もうすぐ半年」

「そう? もっと経っていた様な気がしたんだけど……」

母は、柔らかな笑みを浮かべて、黙ったままカレンダーを見つめ続けた。そのまま時間が経過する。郁は引き上げ時かと立ち上がった。不意に母が質問する。

「郁は、まだ絵を描いているの?」

どきりとした。

内心で冷や汗をかきながら答える。

「うん。この前もコンクールに応募したよ。一次で落ちたけど」

「…………」

返事はなかった。

嘘だと判ったのかもしれない。

居心地が悪かった。

「……この病室もね」

唐突に話題が変わった。

「そろそろ個室にも飽きたわ。一人だと寂しいから。話をする相手もいないし」

「……私がいるじゃない」

「そうね。でも、もう大丈夫よ。再来月位には大部屋に移れることになったから、話し相手の一人や二人、すぐに出来るわよ。母さんは世渡り上手だから」

何を言いたいのか分からなかった。けれど、とりあえず、「そうだね」と、相槌を打っておいた。



病院からの帰り道。ふと、郁の目に小さな家具屋が飛び込んできた。とっさに思い出すのは、低い椅子の上でよろよろと立ちながらコーヒーを飲む女の子の姿。

「……もうちょっと背の高い椅子でも、買っていこうかな」

幸い、ここ数日の繁盛のおかげで懐は暖かい。それに、なんとなくだが、あの少女が店に客を招き寄せてくれているように感じる。そのくらいのサービスは、しても良いだろう。



翌日。いつものように開店早々やってきたタオル男は、今までの倍以上の高さの椅子が、一つだけ設置されているのを見て、目を丸くした。

「君、随分あの童を気にかけてるねえ」

郁は内心では頬を引きつらせながら、営業用スマイルでさらりと無視する。あの、「貧乏神」発言の時から、郁は男に苦手意識を抱いている。男は、そんな郁を気にすることも無く、スペシャルケーキセットを注文すると定位置に落ち着いた。

その日も、来客の多さに郁は忙殺された。

「モーニングコーヒーを一杯」

「ベジタブルサンド、Sサイズを一つお願い」

「店員さん! 夏季限定トリプルパフェまだ来てないんだけど」

「あの、ミルクを持ってきていただけますか?」

「すみません、僕が頼んだのはアイスティーなんですけど……」

「し、少々お待ちください!」

忙しかった。客の注文をとり、持って行き、レジを打ち、空になったテーブルを片付ける。それからまた注文をとり、持って行き、レジを打ち…etc.

もともと慣れない作業だったせいで、一つ一つの動作がぎこちなく、郁は、しばしば客を怒らせた。もともと、大した店ではない。これといった売りがあるわけでもなく、コーヒー豆や水に拘りを持っているわけでもなかった。

けれど、まるで何かに惹き付けられるかのように客はやってくる。郁としては、あまり忙しくないほうが好きなのだけれど、店としては喜ばしいことだ。

郁は、トリプルパフェを出すために、冷蔵庫を開けた。逃げ出したいほどの多忙に、そっと溜め息をつく。そっと、女の子の為に用意した椅子を見る。今日はもう閉店間近なのに、まだ女の子は姿を見せない。


カランコロン―――


夏の香りがした。

郁は弾かれる様に扉を見る。そこには、いつもどおりの女の子がいた。細い手足、垢まみれの顔、傷だらけの裸足……しかし、郁にはもう彼女の純粋できれいな瞳が見えていた。体の汚れなど、彼女の価値を何一つ下げるものではないことを知っていた。 

「いらっしゃい」

意識しなくても頬が緩んでしまう。女の子は、まるでそれが当たり前のように、新しく買ってきた背の高い椅子によじ登った。

「もか」

女の子が注文をする頃には、もうコーヒーの準備ができている。

「お勘定お願い!」

レジのほうから若い客が叫んだ。

「はい! 今すぐ!」

郁は慌ててレジに向かう。客は郁の不慣れな接待に舌打ちした。その客が帰ってから、郁は彼女が夏季限定トリプルパフェを注文したまま、食べずに帰ったことに気がついた。件のパフェは、客に出されることも無くカウンターの奥に所在無げに置かれていた。

「あっちゃあ、やっちゃった……」

郁はぴしゃりと額を打って、ふと、コーヒーに山ほどの砂糖を入れている女の子に目を遣る。彼女が甘党だということは、思い出す必要も無いくらいに知っていた。

「ねえ、売れ残りのパフェがあるんだけど、食べてくれないかな? どうせこのままならこれ、捨てることになっちゃうんだけど」

女の子は、郁とパフェを交互に見つめると、随分長いこと考えてから無表情にこくんと頷いた。

決断するまでには随分長い時間をかけたけれど、食べ始めると一瞬だった。郁は、瞳をきらきら輝かせながら、パフェを掻き込んでいく女の子を、横目で見ながら仕事をした。女の子は、パフェを食べ終わると、恍惚とした表情のまま、上気した頬を両手で挟む。

「ご馳走さま」

タオル男が席を立つ。郁は、いつの間にか閉店時間を過ぎていることに気がついた。

「君、なかなかいい食べっぷりじゃないか」

男が、女の子の肩に手を回す。女の子は少しだけ身じろぎした。

「よっぽど甘いものが好きなんだねえ。それなら、朝早くに来るといいよ。此処のスペシャルケーキセットは死ぬほど美味いんだよ。ねえ、店員さん?」

鋭い目つきで睨まれて、夕は慌てて頷いた。

「えっと、今度来た時にでも、食べて見る?」

確認のつもりの質問だった。けれど、女の子は残念そうに首を振った。

「え? どうして?」

少女の視線を追っていくと、壁にかけられている値段表にぶつかった。


 ・スペシャルケーキセット 千二百円(税込)


「ひょっとして、お金のこと? いいよ、お得意様だからその位奢ってあげるよ」

そう提案してみたが、女の子は頑なに首を振る。お金のことはきちんとしていたいようだ。

「…ちぇっ」

男が舌打ちして、代金を置いて帰っていく。

程なくして女の子も立ち上がった。代金はいつもどおりに前払いで受け取っているので、そのまま立ち去るかと思ったら、なぜか彼女は郁のほうにやってきた。そして無表情に郁を見上げる。そして次の瞬間、郁は目を疑った。フッと、蕾が綻ぶ様に柔らかな笑みを浮かべたのだ。それは、甘いものを食べたときに浮かべる笑顔よりもずっと、柔らかいものだった。

「ありがとう」

思わず見蕩れていると、少女はお礼を言って出て行った。けれど郁は、そのまましばらくぼぅっと突っ立っていたのだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ