第二章 夏季限定トリプルパフェ/スペシャルケーキセット。
女の子が来た日から、十日が経った。そして、まるでそれが契機になったかのように客の数も増え続け、いつの間にか周囲から、「行列のできる喫茶店」という認識を得るようになってしまった。
女の子は、今でも三日ごとにやってくる。
三日ごとに、三百円。
頼むのは、いつもモカ。
砂糖たっぷり。
今更になって郁は漸く気がついたのだが、クリッとした女の子の瞳は、宝石のように美しい。女の子はあまり感情を顔に出さないようだったけれど、じっとその瞳を見つめていると、ほんの少しだけ女の子の内面がわかる気がする。
営業時間が終わった後。郁は、母の見舞いに出かけた。着替えの服などを持っていかなければいけないので、週に二回はこうして母の元を訪れている。病院に着くと、すれ違った看護婦に軽く会釈された。何度も来ているせいで顔を覚えられているようだ。病室に到着する。5109号室。郁は、ため息をついてから静かにドアを開いた。
「母さん、起きてる?」
声に反応して、部屋の中の人影が身じろぎした。
「……ああ、郁か。よくきたね」
返って来る優しい声。郁の一番好きな声だ。
「今、昔の夢を見ていたのよ。ほら、郁が芸大への推薦を取って、家族でパーティーをしたじゃない。一番はしゃいでいたのは父さんだったわよね。郁は昔から絵を描くのが好きだったけど、父さんは同じだけ昔から郁の絵を見るのが好きだったから」
「……うん、ああ、そうだったね」
郁が顔をしかめる。パーティーの四日後、父は事故で死んだのだ。だから、この話は、過去の幸せと今の憂鬱な日々との違いを、鮮明にしてしまう。
「郁、ごめんね。こんなことになって、本当に、ごめんね」
「母さんが謝る事じゃないって。仕方が無いことなんだよ。父さんが事故に逢うなんて、誰にも分からなかったんだし」
「でも、私は郁の母親だから」
その言葉に、郁ははっとした。そして、母のことを卑怯だと思った。親だからという言い訳で、いつも泥をかぶろうとする。郁は気まずくなって、母から目を逸らした。
「母さんが心配するようなことは何も無いよ。大学へは行けなかったけど、それなりに充実した日常を送っているし。最近、店に面白い客さんが来るようになったし」
「店って…ああ、喫茶店ね」
母は、ぼんやりと壁にかけられたカレンダーを見た。
「父さんが死んでから、もうどれくらいになるかしら?」
「もうすぐ半年」
「そう? もっと経っていた様な気がしたんだけど……」
母は、柔らかな笑みを浮かべて、黙ったままカレンダーを見つめ続けた。そのまま時間が経過する。郁は引き上げ時かと立ち上がった。不意に母が質問する。
「郁は、まだ絵を描いているの?」
どきりとした。
内心で冷や汗をかきながら答える。
「うん。この前もコンクールに応募したよ。一次で落ちたけど」
「…………」
返事はなかった。
嘘だと判ったのかもしれない。
居心地が悪かった。
「……この病室もね」
唐突に話題が変わった。
「そろそろ個室にも飽きたわ。一人だと寂しいから。話をする相手もいないし」
「……私がいるじゃない」
「そうね。でも、もう大丈夫よ。再来月位には大部屋に移れることになったから、話し相手の一人や二人、すぐに出来るわよ。母さんは世渡り上手だから」
何を言いたいのか分からなかった。けれど、とりあえず、「そうだね」と、相槌を打っておいた。
病院からの帰り道。ふと、郁の目に小さな家具屋が飛び込んできた。とっさに思い出すのは、低い椅子の上でよろよろと立ちながらコーヒーを飲む女の子の姿。
「……もうちょっと背の高い椅子でも、買っていこうかな」
幸い、ここ数日の繁盛のおかげで懐は暖かい。それに、なんとなくだが、あの少女が店に客を招き寄せてくれているように感じる。そのくらいのサービスは、しても良いだろう。
翌日。いつものように開店早々やってきたタオル男は、今までの倍以上の高さの椅子が、一つだけ設置されているのを見て、目を丸くした。
「君、随分あの童を気にかけてるねえ」
郁は内心では頬を引きつらせながら、営業用スマイルでさらりと無視する。あの、「貧乏神」発言の時から、郁は男に苦手意識を抱いている。男は、そんな郁を気にすることも無く、スペシャルケーキセットを注文すると定位置に落ち着いた。
その日も、来客の多さに郁は忙殺された。
「モーニングコーヒーを一杯」
「ベジタブルサンド、Sサイズを一つお願い」
「店員さん! 夏季限定トリプルパフェまだ来てないんだけど」
「あの、ミルクを持ってきていただけますか?」
「すみません、僕が頼んだのはアイスティーなんですけど……」
「し、少々お待ちください!」
忙しかった。客の注文をとり、持って行き、レジを打ち、空になったテーブルを片付ける。それからまた注文をとり、持って行き、レジを打ち…etc.
もともと慣れない作業だったせいで、一つ一つの動作がぎこちなく、郁は、しばしば客を怒らせた。もともと、大した店ではない。これといった売りがあるわけでもなく、コーヒー豆や水に拘りを持っているわけでもなかった。
けれど、まるで何かに惹き付けられるかのように客はやってくる。郁としては、あまり忙しくないほうが好きなのだけれど、店としては喜ばしいことだ。
郁は、トリプルパフェを出すために、冷蔵庫を開けた。逃げ出したいほどの多忙に、そっと溜め息をつく。そっと、女の子の為に用意した椅子を見る。今日はもう閉店間近なのに、まだ女の子は姿を見せない。
カランコロン―――
夏の香りがした。
郁は弾かれる様に扉を見る。そこには、いつもどおりの女の子がいた。細い手足、垢まみれの顔、傷だらけの裸足……しかし、郁にはもう彼女の純粋できれいな瞳が見えていた。体の汚れなど、彼女の価値を何一つ下げるものではないことを知っていた。
「いらっしゃい」
意識しなくても頬が緩んでしまう。女の子は、まるでそれが当たり前のように、新しく買ってきた背の高い椅子によじ登った。
「もか」
女の子が注文をする頃には、もうコーヒーの準備ができている。
「お勘定お願い!」
レジのほうから若い客が叫んだ。
「はい! 今すぐ!」
郁は慌ててレジに向かう。客は郁の不慣れな接待に舌打ちした。その客が帰ってから、郁は彼女が夏季限定トリプルパフェを注文したまま、食べずに帰ったことに気がついた。件のパフェは、客に出されることも無くカウンターの奥に所在無げに置かれていた。
「あっちゃあ、やっちゃった……」
郁はぴしゃりと額を打って、ふと、コーヒーに山ほどの砂糖を入れている女の子に目を遣る。彼女が甘党だということは、思い出す必要も無いくらいに知っていた。
「ねえ、売れ残りのパフェがあるんだけど、食べてくれないかな? どうせこのままならこれ、捨てることになっちゃうんだけど」
女の子は、郁とパフェを交互に見つめると、随分長いこと考えてから無表情にこくんと頷いた。
決断するまでには随分長い時間をかけたけれど、食べ始めると一瞬だった。郁は、瞳をきらきら輝かせながら、パフェを掻き込んでいく女の子を、横目で見ながら仕事をした。女の子は、パフェを食べ終わると、恍惚とした表情のまま、上気した頬を両手で挟む。
「ご馳走さま」
タオル男が席を立つ。郁は、いつの間にか閉店時間を過ぎていることに気がついた。
「君、なかなかいい食べっぷりじゃないか」
男が、女の子の肩に手を回す。女の子は少しだけ身じろぎした。
「よっぽど甘いものが好きなんだねえ。それなら、朝早くに来るといいよ。此処のスペシャルケーキセットは死ぬほど美味いんだよ。ねえ、店員さん?」
鋭い目つきで睨まれて、夕は慌てて頷いた。
「えっと、今度来た時にでも、食べて見る?」
確認のつもりの質問だった。けれど、女の子は残念そうに首を振った。
「え? どうして?」
少女の視線を追っていくと、壁にかけられている値段表にぶつかった。
・スペシャルケーキセット 千二百円(税込)
「ひょっとして、お金のこと? いいよ、お得意様だからその位奢ってあげるよ」
そう提案してみたが、女の子は頑なに首を振る。お金のことはきちんとしていたいようだ。
「…ちぇっ」
男が舌打ちして、代金を置いて帰っていく。
程なくして女の子も立ち上がった。代金はいつもどおりに前払いで受け取っているので、そのまま立ち去るかと思ったら、なぜか彼女は郁のほうにやってきた。そして無表情に郁を見上げる。そして次の瞬間、郁は目を疑った。フッと、蕾が綻ぶ様に柔らかな笑みを浮かべたのだ。それは、甘いものを食べたときに浮かべる笑顔よりもずっと、柔らかいものだった。
「ありがとう」
思わず見蕩れていると、少女はお礼を言って出て行った。けれど郁は、そのまましばらくぼぅっと突っ立っていたのだった。