表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

第一章 夏の香りだ。そんな気がした。

「ふわあああっ」

店のカウンターに頬杖をついたまま、早川郁は盛大な欠伸をした。今日も、喫茶「シュガー」開店休業状態だ。天井に付いた年代物のプロペラは「ブゥーン」という不快な音を奏で続け、三つしかないテーブル席は、形も大きさも様々で、つぎはぎだらけのような違和感を与える。カウンターに使われている木は黒ずんでいて、かつての重厚さを僅かに想起させるものの、今ではコーヒーの染みにまみれ、永い眠りに付いた老人のように無機質だ。店内は薄暗く、慣れない人には、どこと無く犯罪臭が漂っているようにも感じられるだろう。

店員である郁のほかには、毎日のようにやってくる職人風の無口な男しかいない。彼は、開店時間と同時にやってきて、閉店時間と同時に帰っていく。その癖、スペシャルケーキセットだけで一日中粘るから、性質が悪い。郁はいつもタオルを頭に巻いている彼のことを、頭の中で《タオル男》とストレートに呼んでいた。

郁はやることも無く視線を彷徨わせる。特に何かを見るでもなく、視線の先はどこか遠くにあった。今は夏。父の死後、大学進学をあきらめて父の跡を継いだ郁は、病弱な母と共に喫茶店を経営している。

かれこれ、もう六ヶ月になるのか……

郁は、死んだ父のことを思い返し、寂しげに苦笑した。そこには、将来を棒に振らざるを得なかったことへの遣る瀬無さがあった。郁と同じ高校だった生徒達は皆、今も当たり前のように日常を歩んでいる。夢を目指している。自分だけが人生と言うゲームから脱落したのだ。

それだけでも十分不幸なのに、今度は郁の母親が疲労で倒れた。今は病院で療養中だ。

「負け犬、だよなぁ」

郁は嘲笑した。もう一度欠伸をした郁は、気だるさと倦怠感を抱えたまま、休憩を兼ねて一度店の奥に下がろうとした。


カランコロン―――


風が、吹いた。

夏の香りだ。そんな気がした。その香りに惹きつけられるようにして、扉のほうへ振り向く。

最初に目に入ったのは、ぼさぼさの髪だった。垢と泥で汚れた顔と、穴だらけの粗末な服、ほっそりとした手足。そして、靴を履いていない足は、砂利やアスファルトによって傷つき、血を流していた。

それは、小さな女の子だった。

ホームレス。そんな言葉が脳裏に浮かび、しかし、即座に打ち消した。

ホームレスと言うには、あまりにも幼すぎる。見た目、小学生にも満たない。せいぜい幼稚園ぐらいだ。本来なら、どこに行くにもまだまだ保護者の付き添いが必要な年齢だろう。

けれど、その女の子は一人だった。

女の子は、郁の姿を確認すると躊躇いも無く近づいてくる。そして口を開いた。

「もか」

「……は?」

「もか」

女の子は言い直し、右手を差し出してくる。いっぱいにひろげた小さな手の平で、三つの百円玉が輝いていた。

「もかって……ああ、モカね」


 ・モカコーヒー 三百円(税込)


「……はい。熱いから気をつけてよ」

カウンターの一番手前の席に座った女の子にコーヒーを差し出すと、両手で抱えてフーフーする。カウンターの丸椅子は大人用に作られているので、女の子がカウンターから頭を出すには、椅子の上に立っていなくてはいけない。郁はじっと天井を睨んでいたが、しばらく経ってとうとう我慢ができなくなって、女の子に質問した。

「ねえ、きみ、なんて名前?」

フーフー。

「おとうさんとおかあさんは?」

フーフー。

「どこに住んでるの?」

フーフー。

「足、傷だらけだよ。痛くない?」

フーフー。

「…………」

こくん。

女の子は十分に冷ましたコーヒーを飲み始めた。しかし、すぐに唇を歪める。苦いのだ。

「……もし良かったら、ほら、そこに砂糖があるから、入れてみたら?」

そう提案してみたら、案外素直に砂糖の容器に手を伸ばす。ティースプーンで砂糖をすくって、まずは一杯。そしてもう一杯。さらにもう一杯。とどめの一杯。

「…………」

結局、カップが砂糖で埋まるまでその作業を続けた。もう、コーヒーに砂糖を入れたのか砂糖の山にコーヒーをかけたのかわからなくなっている。

「……甘いの、好きなんだ」

聞くと、こくんと頷く。

その後は静かな時間が流れ、プロペラの駆動音と女の子が時折コーヒーを飲む音がするだけが空気を揺らした。郁は、この空間だけが外の世界と切り離されているかのように感じた。


カランコロン―――


しかし、やがて扉が開かれ、新しい客が店内に入ってくる。一日にこんなに客が来る日は珍しい。今度の客は、どこにでもいそうな若いカップルだった。彼らは、一番手前のテーブル席に着いた。

「いらっしゃいませ」

伝票を持って注文をとりに行く。

「うわあ、なんだかレトロな感じのお店ですね。隠れた名店みたいな感じで素敵です」

カップルの、女性のほうが郁に話しかけてきた。

「うん。どこかのグルメ雑誌にひょっこりと名前を出していそうな感じだ」

男性のほうも同意する。

「あ! そうそう、そんな感じ。ねえ、やっぱり雑誌の取材とかあるんですか?」

どうだろう?

そんな話は、聞いたことが無いけど。

郁が返事に困っていると、その間に彼らは矢継ぎ早に質問してきた。

「なんだか喫茶店って儲かりそうですよね。年収はいくらぐらいなんですか?」

「内装って誰が設計したんですか?」

「若いようですけど、オーナーさんなんですか?」

「お客さんってどのくらい来るんですか?」

「見た目、結構老舗ですよね」

「随分値段が安いですけど、大丈夫ですか?」

「え? いや、あ、その……」

しどろもどろになって答える。郁だってそこまでこの喫茶店のことを知っているわけではない。


カランコロン―――


またも扉がベルを奏でる。

「こんなところに喫茶店なんてあったんだな」

「俺、毎日この前通ってるのにぜんぜん知らなかった」

「ばーか。そりゃお前が周りに関心を持ってないからいけねえんだろ」

今度は三人組の男子高校生だ。

「いらっしゃいませ。少々お待ちください」


カランコロン―――


「いやー、今日は暑いわねー」

「本当よー。私もう喉がカラカラだわ」

今度は中年女性が二人。

郁は目を丸くした。もう何日も喫茶店の店番をしているけれど、こんなに客が入ったのは初めてだ。慣れない事なので、手際よく注文をこなせない。そんなこんなをしていて、しばらくしてふと女の子のいた席を見ると、もう、そこには誰もいなかった。



「つ、疲れた~」

結局、一向に客が途切れずに閉店時間まで働き詰めだった。

郁が頬杖をついていると、店の奥からクククと笑い声がする。驚いて見ると、開店直後からいたタオル男が、まるで面白いものを見たかのように笑っている。

「いやあ、君。なかなか面白いものを見せてもらったよ」

「……ええ。この店に客が来ることなんてあったんですね」

郁も苦笑する。

「ああ、そういうことじゃない。そういうことじゃないんだよ君。君の目は節穴かい? あの正体が本当に判らなかったのかい? あれは僕と間逆の性質を持つ存在だよ。その上気まぐれやだから性質が悪い。……いやあ、それにしてもたいした力だ。僕が何年もこの店に刷り込んできた負の力を、あっさり無効化して上回りやがった。あれで童を語るとは恐れ多い。あれはもう神のレベルだよ」

「? ……あなた、一体何の話をしているんですか?」

男は笑ったまま立ち上がる。そして困惑している郁に、「お代、ここに置いてくよ」と声をかけて立ち去ろうとした。

「ち、ちょっと待ってください!」

郁は、とっさに声をかけてしまった。

「あなた、何者なんですか? 父の生前の知り合いですか?」

男ははたと笑いを止めて、頭をがりがりと掻く。それから愉しそうにきゅっと唇を吊り上げて、

「僕かい? 僕は……貧乏神さ」

男は、店を出て行った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ