第一章 夏の香りだ。そんな気がした。
「ふわあああっ」
店のカウンターに頬杖をついたまま、早川郁は盛大な欠伸をした。今日も、喫茶「シュガー」開店休業状態だ。天井に付いた年代物のプロペラは「ブゥーン」という不快な音を奏で続け、三つしかないテーブル席は、形も大きさも様々で、つぎはぎだらけのような違和感を与える。カウンターに使われている木は黒ずんでいて、かつての重厚さを僅かに想起させるものの、今ではコーヒーの染みにまみれ、永い眠りに付いた老人のように無機質だ。店内は薄暗く、慣れない人には、どこと無く犯罪臭が漂っているようにも感じられるだろう。
店員である郁のほかには、毎日のようにやってくる職人風の無口な男しかいない。彼は、開店時間と同時にやってきて、閉店時間と同時に帰っていく。その癖、スペシャルケーキセットだけで一日中粘るから、性質が悪い。郁はいつもタオルを頭に巻いている彼のことを、頭の中で《タオル男》とストレートに呼んでいた。
郁はやることも無く視線を彷徨わせる。特に何かを見るでもなく、視線の先はどこか遠くにあった。今は夏。父の死後、大学進学をあきらめて父の跡を継いだ郁は、病弱な母と共に喫茶店を経営している。
かれこれ、もう六ヶ月になるのか……
郁は、死んだ父のことを思い返し、寂しげに苦笑した。そこには、将来を棒に振らざるを得なかったことへの遣る瀬無さがあった。郁と同じ高校だった生徒達は皆、今も当たり前のように日常を歩んでいる。夢を目指している。自分だけが人生と言うゲームから脱落したのだ。
それだけでも十分不幸なのに、今度は郁の母親が疲労で倒れた。今は病院で療養中だ。
「負け犬、だよなぁ」
郁は嘲笑した。もう一度欠伸をした郁は、気だるさと倦怠感を抱えたまま、休憩を兼ねて一度店の奥に下がろうとした。
カランコロン―――
風が、吹いた。
夏の香りだ。そんな気がした。その香りに惹きつけられるようにして、扉のほうへ振り向く。
最初に目に入ったのは、ぼさぼさの髪だった。垢と泥で汚れた顔と、穴だらけの粗末な服、ほっそりとした手足。そして、靴を履いていない足は、砂利やアスファルトによって傷つき、血を流していた。
それは、小さな女の子だった。
ホームレス。そんな言葉が脳裏に浮かび、しかし、即座に打ち消した。
ホームレスと言うには、あまりにも幼すぎる。見た目、小学生にも満たない。せいぜい幼稚園ぐらいだ。本来なら、どこに行くにもまだまだ保護者の付き添いが必要な年齢だろう。
けれど、その女の子は一人だった。
女の子は、郁の姿を確認すると躊躇いも無く近づいてくる。そして口を開いた。
「もか」
「……は?」
「もか」
女の子は言い直し、右手を差し出してくる。いっぱいにひろげた小さな手の平で、三つの百円玉が輝いていた。
「もかって……ああ、モカね」
・モカコーヒー 三百円(税込)
「……はい。熱いから気をつけてよ」
カウンターの一番手前の席に座った女の子にコーヒーを差し出すと、両手で抱えてフーフーする。カウンターの丸椅子は大人用に作られているので、女の子がカウンターから頭を出すには、椅子の上に立っていなくてはいけない。郁はじっと天井を睨んでいたが、しばらく経ってとうとう我慢ができなくなって、女の子に質問した。
「ねえ、きみ、なんて名前?」
フーフー。
「おとうさんとおかあさんは?」
フーフー。
「どこに住んでるの?」
フーフー。
「足、傷だらけだよ。痛くない?」
フーフー。
「…………」
こくん。
女の子は十分に冷ましたコーヒーを飲み始めた。しかし、すぐに唇を歪める。苦いのだ。
「……もし良かったら、ほら、そこに砂糖があるから、入れてみたら?」
そう提案してみたら、案外素直に砂糖の容器に手を伸ばす。ティースプーンで砂糖をすくって、まずは一杯。そしてもう一杯。さらにもう一杯。とどめの一杯。
「…………」
結局、カップが砂糖で埋まるまでその作業を続けた。もう、コーヒーに砂糖を入れたのか砂糖の山にコーヒーをかけたのかわからなくなっている。
「……甘いの、好きなんだ」
聞くと、こくんと頷く。
その後は静かな時間が流れ、プロペラの駆動音と女の子が時折コーヒーを飲む音がするだけが空気を揺らした。郁は、この空間だけが外の世界と切り離されているかのように感じた。
カランコロン―――
しかし、やがて扉が開かれ、新しい客が店内に入ってくる。一日にこんなに客が来る日は珍しい。今度の客は、どこにでもいそうな若いカップルだった。彼らは、一番手前のテーブル席に着いた。
「いらっしゃいませ」
伝票を持って注文をとりに行く。
「うわあ、なんだかレトロな感じのお店ですね。隠れた名店みたいな感じで素敵です」
カップルの、女性のほうが郁に話しかけてきた。
「うん。どこかのグルメ雑誌にひょっこりと名前を出していそうな感じだ」
男性のほうも同意する。
「あ! そうそう、そんな感じ。ねえ、やっぱり雑誌の取材とかあるんですか?」
どうだろう?
そんな話は、聞いたことが無いけど。
郁が返事に困っていると、その間に彼らは矢継ぎ早に質問してきた。
「なんだか喫茶店って儲かりそうですよね。年収はいくらぐらいなんですか?」
「内装って誰が設計したんですか?」
「若いようですけど、オーナーさんなんですか?」
「お客さんってどのくらい来るんですか?」
「見た目、結構老舗ですよね」
「随分値段が安いですけど、大丈夫ですか?」
「え? いや、あ、その……」
しどろもどろになって答える。郁だってそこまでこの喫茶店のことを知っているわけではない。
カランコロン―――
またも扉がベルを奏でる。
「こんなところに喫茶店なんてあったんだな」
「俺、毎日この前通ってるのにぜんぜん知らなかった」
「ばーか。そりゃお前が周りに関心を持ってないからいけねえんだろ」
今度は三人組の男子高校生だ。
「いらっしゃいませ。少々お待ちください」
カランコロン―――
「いやー、今日は暑いわねー」
「本当よー。私もう喉がカラカラだわ」
今度は中年女性が二人。
郁は目を丸くした。もう何日も喫茶店の店番をしているけれど、こんなに客が入ったのは初めてだ。慣れない事なので、手際よく注文をこなせない。そんなこんなをしていて、しばらくしてふと女の子のいた席を見ると、もう、そこには誰もいなかった。
「つ、疲れた~」
結局、一向に客が途切れずに閉店時間まで働き詰めだった。
郁が頬杖をついていると、店の奥からクククと笑い声がする。驚いて見ると、開店直後からいたタオル男が、まるで面白いものを見たかのように笑っている。
「いやあ、君。なかなか面白いものを見せてもらったよ」
「……ええ。この店に客が来ることなんてあったんですね」
郁も苦笑する。
「ああ、そういうことじゃない。そういうことじゃないんだよ君。君の目は節穴かい? あの正体が本当に判らなかったのかい? あれは僕と間逆の性質を持つ存在だよ。その上気まぐれやだから性質が悪い。……いやあ、それにしてもたいした力だ。僕が何年もこの店に刷り込んできた負の力を、あっさり無効化して上回りやがった。あれで童を語るとは恐れ多い。あれはもう神のレベルだよ」
「? ……あなた、一体何の話をしているんですか?」
男は笑ったまま立ち上がる。そして困惑している郁に、「お代、ここに置いてくよ」と声をかけて立ち去ろうとした。
「ち、ちょっと待ってください!」
郁は、とっさに声をかけてしまった。
「あなた、何者なんですか? 父の生前の知り合いですか?」
男ははたと笑いを止めて、頭をがりがりと掻く。それから愉しそうにきゅっと唇を吊り上げて、
「僕かい? 僕は……貧乏神さ」
男は、店を出て行った。