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朝廷のない夜 『超美人ギャルに転生した藤原真夏、弱者男性を口説いたら朝廷ができた』続編

掲載日:2026/09/06

 修平は、真夏が来るとわかっている日にだけ、レモンの皮を多く入れた。


 それを誰にも言っていない。言わなければ、自分でも知らないままでいられるような気がした。


 十一月になっていた。窓の外では、雨で濡れた駐車場に、向かいの弁当屋の赤い看板が映っていた。店の人が看板をしまうと、水たまりはただの黒い穴になった。


 焼き上がったケーキを袋に詰め、口を針金入りのリボンで留めた。六つあった。ひとつは味見をして、残りを紙袋に入れた。


 今夜は十時から仕事だった。『双六』に寄っても一時間くらいしかいられない。行くほどではないと思いながら、いつもよりよい靴を履いた。


 店に着くと、篤が知らない女性と話していた。カウンターには本が二冊、重ねて置いてあった。


「それ、最後まで読んだんですか」

「読みましたよ。貸してくれたじゃないですか」

「いや、途中から急に、人が増えるので」


 篤の顔を見て、修平は女性のほうへ会釈した。


 女性は美穂といって、篤の勤める書店に、ときどき本を取り寄せに来る客だった。『双六』の話を聞いて、一度遊びに来たのだという。


「今日はもう帰るんです。次はゲーム、教えてください」


 美穂はそう言って、本を篤のほうへ押した。


「あと、次に読むならどれですか」


 篤は返された本の背を揃えた。すぐには答えなかった。


 修平はその間に、紙袋からケーキを一つ取り出した。


「よかったら、これ」

「いいんですか?」

「自分で焼いたんで。口に合うか、わかんないですけど」


 美穂が帰ったあと、篤は外へ向かっていた顔を戻した。


「ありがとうございます」

「俺のケーキで何か起きたら、報告して」

「何も起きないですよ」


 そう言って眼鏡を直す手つきが、いつもより忙しかった。


 修平はカウンターにもう一つ置いた。


「莉子さんの分」

「ありがと。飲み物、いつもの?」

「はい」


 そのとき真夏が入ってきた。


 黒い短いコートの肩に、雨の粒が残っていた。髪の根元は以前より少し暗くなっていたが、毛先の明るさが顔をいっそう白く見せた。片手に透明な傘、もう片方の手にコンビニの袋を持っていた。


「ねえ、すごい雨」


 誰にともなく言いながら、彼女は店の中を見渡した。


 修平は、自分の次に入口を見る彼女の目に気づいた。


 航はまだ来ていなかった。


     ◆


 航が来たのは、真夏のカフェラテの泡が消えかけたころだった。


 彼は濡れた折り畳み傘を、持ってきた細長いビニール袋に入れた。真夏はいつも、その用意のよさを見ると少し笑いたくなる。自分は店の傘立ての下を、さっきから水浸しにしている。


「おつかれ。今日も障害?」

「うん。小さいやつです」

「直った?」

「直りました」


 航は隣に腰を下ろした。真夏の青い爪の先が、テーブルの下で彼の膝に触れた。


 彼がこちらを見たので、真夏は目だけで笑った。


 付き合い始めて二か月になる。駅で待ち合わせても、もう二十分前には行かない。それでも航が改札から出てくるときには、相変わらず自分の口元を意識した。


 篤が、さっき来ていた美穂という客の話を始めた。貸した本を最後まで読んでくれたのだという。真夏が「へえ、女の子?」と聞くと、彼は頷いたが、それ以上は話さなかった。膝に置いた二冊の本に、ずっと片手を載せていた。


 その夜は、半年ぶりに来たという岡野が一緒の卓にいた。莉子が紹介してくれた常連で、ゲームの説明がうまかった。職場の転勤で、しばらく来られなかったらしい。


「あれ、お二人、付き合ってるんですか」


 航が頷くと、岡野は少し驚いた顔をしてから笑った。


「佐伯さん、いくら積んだんですか」


 真夏は、航の指がカードの角を押さえるのを見た。


「分割でいいって言ってあげた」


 間を置かずに言った。


 岡野が声を上げて笑った。修平も笑った。航は真夏の顔を見て、それから、少し遅れて笑った。


 誰も困っていない顔になった。


 真夏はカップを持ち上げた。底に残ったコーヒーは冷えていた。


「岡野さん、こっちの料金も先に払ってね」


 莉子がカウンターから言った。


「はいはい。すみません、変なこと言って」


 岡野は財布を探しながら、真夏と航に軽く頭を下げた。それで終わった話だった。


 真夏は次のゲームでも笑った。篤がルールの読み方を間違えたときには、その間違え方が本当におかしくて笑った。自分がいつから、どちらの笑い方をしているのか、だんだんわからなくなった。


 八時半になると修平は帰った。


 仕事だという。いつものように少し残念そうな顔をするので、真夏は、


「行かないでって言ったら?」


 と言いかけ、やめた。


「気をつけてね」

「はい。ケーキ、早めに食べてください」


 彼が去ったあとの椅子に、真夏は自分のコートを置いた。


 九時を過ぎ、航と店を出た。雨はまだ降っていたが、傘を差すほどかどうか迷うくらいの細かさになっていた。


 駅までの道は歩道が狭く、二人で並ぶと、傘の端が触れた。


「今日、疲れたでしょ」


 航が言った。


「仕事?」

「店で」


 真夏は、傘の骨についていた水滴を見た。


「別に。いつもと同じ」

「無理して、俺たちと一緒にいなくていいですよ」


 真夏は足を止めた。


 航が何歩か先で振り返った。街灯の下で、彼の傘は内側まで薄く明るかった。


「うち、無理してた?」

「そういう意味じゃ」

「どういう意味?」


 航は口を開いたが、何も言わなかった。


 先ほどまでなら、真夏はそこに言葉を足してやれた。航が答えやすい質問を選び、軽く笑い、腕に触れる。そうすれば彼は、少しずつ自分の言いたかったことを話しただろう。


 その手順が、一つ残らず頭に浮かんだ。


 どれも、やりたくなかった。


「次から、そうする」


 真夏は言った。


 航の顔が変わった。


 見慣れない顔ではなかった。昔、こちらが冗談で済ませてやらなかった者は、よくこういう顔をした。


 駅では別々の改札を使った。


 帰りの電車で、航から連絡があった。


『さっきの言い方、ごめん。話したいです』


 真夏は何度か画面を閉じたあと、短く返した。


『明日、仕事のあとなら』


     ◆


 夜勤の休憩中、修平は、自分があの場で笑ったことを思い出した。


 休憩室のテレビでは、知らない若い俳優が、大きな肉を食べていた。音は小さくされていたが、笑い声だけはよく聞こえた。


 正面の席で、同僚が弁当の輪ゴムを手首にはめた。


「宮田さん、例の人、どうなった」

「彼氏ができました」

「ああ、そう。残念」


 同僚は箸を割った。


「俺の友達です」

「そうなんだ」


 それで話は終わり、二人は食べた。


 修平は、少しほっとした。励まされたり、自分も悪くないと言われたりすると、そのあと何を言えばいいのか困る。


 あの場では、自分が笑わなければよかった。


 そう思う一方で、航が困った顔をしたことに、たしかに気が晴れた瞬間があった。


 真夏が好きだった。航も嫌いではなかった。二つとも本当なのに、一緒になると、どうしてこんなものが出てくるのか。


 昼間、型から外したケーキを一つ、味見のために食べた。薄い焼き色が均一についていて、表面にはきれいな割れ目ができていた。いつもよりうまく焼けたと思った。


 美穂に一つ渡したので、いつもの五人のうち、ケーキをもらわなかったのは自分だけだった。


 そのことを急に、損をしたように感じた。


 自分には先に食べた一個があったくせに、そう感じた。


「何かあった?」


 同僚が聞いた。


「いや」


 修平は首を振った。


「今度、ケーキ持ってこようか」

「いいね。何の?」

「レモン」

「俺、チョコがいい」


 修平は顔を上げた。


「まだ食べてないのに注文する?」

「持ってきてくれるんでしょ」


 テレビの中で、また誰かが笑った。


 修平も少し笑った。


 スマホを開くと、三人のグループに篤から写真が届いていた。返してもらった本の間に、美穂が忘れたしおりが挟まっていたという。猫の形をした、小さな金属のしおりだった。


『これ、普通に連絡していいですよね』


 航はまだ読んでいなかった。


 修平は指を動かした。


『忘れ物だから連絡しろ』


 続けて、


『代わりに俺が連絡するぞ』


 と送った。


 篤からは、すぐに怒った猫の絵が返ってきた。


     ◆


 翌日、真夏は店でセーターを畳んでいた。


 客が手に取ったところから少しずつ山が崩れる。袖を内側へ入れて折り、裾を上げると、また同じ四角になる。客はその一枚下のものを抜いた。


「これ、毛玉になります?」


 真夏は顔を上げた。


「擦れるところは、どうしても少し。よく着るなら、こっちのほうが手入れは楽ですよ」


 別の棚へ案内すると、客は迷ったあと、そちらを買った。


 礼を言われると、普通にうれしかった。


 昨夜のことをずっと考えていても、仕事はできる。目の前の人が欲しい答えもわかる。笑う顔もちゃんと作れる。そのことが、真夏には妙に頼もしく、同時に少し腹立たしかった。


 休憩前、段ボールの底を押し潰した拍子に、薬指の爪の飾りが外れた。


 青いネイルに載せていた銀の星だった。


 床には落ちなかった。箱の中へ入ったらしかった。しゃがんで、箱に残った紙を取り出していくと、小さな星は、梱包用の薄い紙の折り目に引っかかっていた。


 拾い上げ、手の甲に載せて眺めた。


 爪に載っていなければ、びっくりするほど小さかった。


 付き合い始めるとき、航の騎士に合わせて青と銀にした。それ以来、塗り替えるたびに、どこか一本だけはその色を残している。


 誰にも頼まれていないのに、続けている。


 真夏は星をレシートで包み、財布の小銭入れへ入れた。


 休憩室でスマホを見ると、莉子から連絡が来ていた。


『明日、新しい棚が届くから、今日の閉店後に古い棚を空けたい。二十分だけ手伝える?』


 続けて、


『航くんと何かあったなら別の日でもいい』


 とあった。


 真夏は通話を押した。


「わかるんだ」


 莉子は、電話に出るなりそう言われて、少し笑った。


『コート、修平くんの椅子に置いてたじゃん』

「それが?」

『いつも、荷物は壁側に寄せてって言ってるのに』


 厨房の換気扇の音が聞こえた。


『怒ってたか、何も考えてなかったか。どっちかだろうなとは思った』


 真夏は弁当の蓋を開けた。ご飯の上に載っていた梅干しが、蓋の裏についていた。


「あのさ。うちが行かなくなっても、あの三人、来るよね」

『来るでしょ。もともと来てたんだし』


 真夏は頷いた。


 電話なので見えないと気づいたが、声は出さなかった。


『棚、無理ならいいよ』

「行く。航くんと、話す約束してるから」

『じゃ、閉店ちょっと前においで』


 電話が切れた。


 真夏は梅干しを箸でつまんで、ご飯へ戻した。


 自分がいなくても三人は会う。篤は美穂に本を選び、修平は誰かに菓子を焼く。航は、ずっと前からあの店の窓際に座り、小さな駒の色について話していた。


 昨日、篤が美穂という人の話をしたとき、ほんの少し、余計なことを言いたくなった。何か一つ、昔のように耳を赤くさせる言葉を。


 言わなかったのは、自分が立派だったからではない。


 篤がこちらを見ていなかったからだ。


 真夏は、一度、箸を置いた。


 そういう自分を、航はまだ知らなかった。


     ◆


 航の机には、小さな騎士が二体置いてあった。


 青と銀のもの。それから、白と金のもの。


 白い騎士の盾には、彼があとから描き足した星があった。真夏の爪と並べて写真を撮ったころは、自分が彼女の恋人になるとは、まだ本気では考えていなかった。


 そのころのほうが、話しやすかった気がした。


 真夏が店で爪の飾りを探していた日の朝、航が机の灯りをつけると、一度ちらついたあとで消えた。スイッチを二度押し直したが、つかなかった。


 交換用の電球の型を、忘れないように撮った。


 そのすぐ前の写真は、真夏だった。


 駅の改札を出たところで、持っていたパンをこちらへ見せている。袋で顔の下半分が隠れていた。撮ってと言われる前に、航が自分から撮った写真だった。


 何度見ても、目がそこで止まった。


 この人が自分を好きだということを、誰かに説明しなければならない気がしていた。


 修平も篤も、説明を求めたことはなかった。真夏は一度も、そんなことを言っていない。


 昨夜、岡野の言葉に自分が最初に感じたのは、やはりそう見えるのか、という納得だった。


 傷つくより先に、納得してしまった。


 真夏が冗談を言ってくれたとき、航はほっとした。彼女は怒っていない。まだ帰らない。その安心が、あの笑いになった。


 会社へ向かう電車の中で、修平から個別に連絡が来た。


『昨日、俺まで笑って悪かった』


 航はしばらく、その一行を見ていた。


『俺も笑いました』


 そう返すと、修平から、


『見た』


 と返ってきた。


 航は小さく息を吐いた。向かいの席の人がこちらを見たので、口元を引き締めた。


『今日、真夏さんと話します』


 それを送ったあとで、消したくなった。


 修平へ伝える必要があっただろうか。自分はもう、真夏とのことを彼に相談していい立場ではないのではないか。


 だが、消す前に返事が来た。


『そう。俺は寝る』


 航は画面を閉じた。


 電車が川を渡っていた。低い灰色の空の下で、土手を歩く人の黄色い雨合羽だけが明るかった。


     ◆


 夜、『双六』に着くと、航はすでに棚の前にいた。


 卓の上にゲームの箱が積まれている。真夏の顔を見て、彼は手に持っていた箱を置いた。


「もうやってんの」

「早く終わったので」


 昨日着ていた上着が、椅子の背にかかっていた。肩のところに、小さな乾いた泥の点があった。


 真夏はコートを脱ぎ、壁際のフックへ掛けた。


「どこ持つ?」


 航は大きな箱の底を押さえていた。


「そっちも、下から。底が抜けかけてます」


 真夏は箱の下へ両手を差し入れた。持ち上げると、中で何かが転がる音がした。


 二人で箱を運び、棚板を外した。棚の裏には、なくなったと思われていた赤い駒と、黒くなった輪ゴムが落ちていた。


 莉子が駒を拾って、指先で埃を払った。


「いた」


 誰かを見つけたときのような言い方だった。


 作業は思っていたより早く終わった。莉子は、これから車で来る叔母に古い棚を渡すと言って、分解した板を台車に載せ始めた。


「二人、まだいる?」


 真夏と航が頷くと、莉子はカウンターのマグカップを顎で示した。


「お茶あるから。十分くらいで戻る」


 扉のベルが鳴った。


 閉店後の店は、冷蔵庫の音がよく聞こえた。窓の外をバスが通るたびに、座っている二人の足元まで白い光が届いた。


 真夏は、いつもの窓際に座った。航は向かいに座りかけ、椅子を引いたまま止まった。


「隣でいいじゃん」


 真夏が言うと、彼はそちらへ来た。


 カップの中には、まだ湯気があった。


「昨日、ごめん」


 航が言った。


「何が?」


 聞き返す声がきつくなった。真夏はカップの取っ手から指を外した。


「ごめん。責めてるんじゃなくて、どこのことか聞きたい」

「笑ったこと。それから、帰りに言ったこと」


 航は両手を膝の間に挟んでいた。


「笑ったのは、真夏さんが平気だと思って、ほっとしたからです。何とかしてもらったのに、俺まで、見てる人みたいに笑って」


 真夏は返事をせず、カップの縁を見た。


 薄い茶色の線が一本、内側についていた。


「うちも、ごめん」


 彼女は言った。


「分割ってやつ。あれ、航くんのこと、勝手にネタにした」


 航は首を横に振りかけた。


 途中で、やめた。


「少し、嫌でした」

「うん」

「でも、俺が何も言わなかったから」

「うちが言ったことは、うちが言ったことじゃん」


 航は頷いた。


 真夏はお茶を飲んだ。熱くて、少ししか口に入れられなかった。


「ああいうの、言われたことなかった?」

「何をですか」

「彼女にいくら積んだとか」

「彼女がいたこと、ないので」


 真夏は航を見た。


「あ、そっか」


 二人とも少し笑った。それまで椅子の背から離れていた真夏の体が、ようやく後ろへ戻った。


「うちは、わりとある。顔で得してるとか、誰かに買ってもらったんでしょとか。いちいち止まってらんないから、返すのだけはうまくなった」


 前世にも、そういう言葉はあった。


 父の威光。


 主君の覚え。


 お前自身に何がある、とわざわざ聞く者はいない。別のことを褒めながら、その意味だけは十分に届くようにする。


 今のほうが、言葉は短い。


 けれど真夏が一番話したかったのは、そのことではなかった。


「帰り、航くんと二人になってからは、もう笑わなくてよかったじゃん」


 彼女は指先を合わせた。薬指だけ、触れるところが平らだった。


「黙っててもよかったのに。あれ、うちは好きで隣にいたのに、無理して来なくていいって言われて」


 航が顔を上げた。


「……来てほしくないのかと思った」

「違います」


 今度はすぐに声が出た。


「会いたいです。今日も、明日も。ただ、俺といて疲れるなら、そのほうが真夏さんにいいのかなって」


 真夏は彼を見ていた。


 航は口を結び、それから言い直した。


「嫌われるのが怖くて、俺が帰ってほしいみたいな言い方をしました」


 店の前で車が止まった。窓に光が溜まり、すぐに消えた。二人ともそちらを見たが、莉子は入ってこなかった。


「航くん」

「はい」

「うち、自分のこと好きな人、みんな近くにいたらいいなって思ってた」


 航は黙っていた。


「今もちょっと、そう思う。篤くんが、ほかの子ばっかり見てるとさ。うちと付き合いたいわけじゃないんだ、って、当たり前のことで変な気分になる」


 話しているうちに、自分の言い方が幼く聞こえた。


 真夏は爪の表面を親指でなぞった。


「すごい嫌なやつじゃん」


 航は、すぐには慰めなかった。


「俺も、修平さんには、もうあんまり笑いかけないでほしいと思うことがあります」


 真夏は顔を上げた。


「でも、真夏さんが来る前は、俺が一番、修平さんの話で笑ってたんですよね」


 航は困ったように眉を寄せた。


「あの人、面白いので」


 真夏は息を漏らした。


「そうなんだよね」


 少し笑ってから、二人とも黙った。


 相手の返事を待つ沈黙ではなかった。それぞれ、まだ言いきれていないことを持ったまま、同じ机を見ていた。


     ◆


「もう一個、話していい?」


 真夏が言った。


 航は頷いた。


「うち、前世の記憶がある」


 彼の目が動いた。


「……前世?」

「うん。藤原真夏っていう、昔の貴族。男の人だった」


 口に出すと、莉子に話したときよりずっと奇妙だった。よりによって今、この人に、そんなことを言う必要があるのだろうかと、言い終わってから考えた。


 航はテーブルへ目を落とした。


「冗談じゃなくて?」

「うん」


 真夏は、頷いたまま待った。


 いつもなら、自分で先に笑ってしまう。そうすれば、相手も笑っていいし、信じた顔をしてもいい。どちらへ転んでも、話を続けられる。


 今は、笑わなかった。


「どんなこと、覚えてるんですか」


 航が聞いた。


 真夏は、少し考えた。


 官位や、宴や、弟の話をすればよかった。


 けれど最初に浮かんだのは、誰もいない廊下だった。


「うちに会いに来る人が、減ったころのこと」


 声に出すと、当時の木の匂いまで近くなった。


「足音がすると、誰かなって思うの。贈り物かな、用事かな、って。でも、うちの部屋の前は通り過ぎる」


 航は何も言わなかった。


「たまに来る人には、すごく親切にした。前より贈り物もしたし、面白い話もした。今日、退屈させなかったら、また来るかなって」


 真夏は顔を伏せた。


 それを言うつもりはなかった。


 長い一生の中で、もっとよい思い出はいくらでもあったのに。


「莉子にはさ、公卿だったから人付き合い得意って話した。ほんとに、そういうところもあったんだけど」


 机に置いた手を、反対の手で覆った。


「そうじゃなかったとこも、ある」


 航が動くのがわかった。


 手を握られるのかと思ったが、彼は冷めかけたお茶を一口飲んだ。


「……信じられる?」


 真夏は聞いた。


「まだ、全然わからないです」


 その返事を聞いて、真夏は顔を上げた。


 航は困っていた。どう答えれば彼女を傷つけずに済むか、考えているのがわかった。


 けれど、わかったふりはしなかった。


「でも、それを俺に話すの、嫌だったんじゃないですか」

「……ちょっと」

「話してくれて、うれしいです」


 真夏は、今度こそ自分から手を伸ばした。


 航の指先に触れると、彼が握り返した。


「うまいこと言うようになったじゃん」


 真夏が言うと、航は首を振った。


「ずっと、何て言えばいいか考えてました」


 彼女は笑った。


 扉の向こうで台車の車輪が鳴り、続いて莉子の声がした。


「そこ、段差あるから」


 二人は繋いだ手を離さず、椅子を少し引いて通り道を空けた。


     ◆


 店を出ると、雨はやんでいた。


 歩道には小さな水たまりがいくつも残っていて、車が通ると街灯がその中で揺れた。


 真夏は傘を畳んだまま持っていた。航も、ビニール袋に入れた折り畳み傘を、鞄から出さなかった。


「明日、仕事?」


 真夏が聞いた。


「休みです」

「うちも。何してんの」

「机の電球、買いに行こうと思ってました」


 真夏は少し考えた。


「うちも行く」

「電球ですよ」

「聞こえたよ」


 彼女は財布を取り出し、小銭入れから折り畳んだレシートを出した。街灯の下で開くと、小さな銀の星が一つ、紙に載っていた。


「これ、取れちゃった。つけ直すのも買いたい」


 航は彼女の薬指を見た。


「失くさなかったんですね」

「探したから」


 大したことではない、と言うつもりだった。


 しかし、けっこう探した。箱を逆さにして、底に残った紙を一枚ずつ広げた。休憩に入るのが五分遅くなった。


 航にはそれくらい、知っていてもらってよかった。


「あの青い騎士、まだ机にいる?」

「います。白いのと一緒に」

「明日、見に行っていい?」


 航は彼女を見た。


 口が少し開いて、閉じた。


「……片づけます」


 真夏は笑った。


「そこまでじゃなくていいよ」


 航は、彼女の顔を見たまま首を横に振った。


「俺が片づけたいです」


 真夏は頷いた。


「じゃ、待ち合わせ昼にしよ」


 駅の前で立ち止まると、航は何か言いかけた。真夏が顔を上げる前に、今度はちゃんと声になった。


「キスしても、いいですか」


 人が通っていた。少し離れたところで、タクシーの運転手が車から降り、腰を伸ばしていた。


 真夏は航の袖を引いて、駅舎の柱の脇へ寄った。


「ここなら」


 唇が触れたのは短い間だった。


 離れると、航の上着にまた、あの泥の点が見えた。真夏は指で払った。乾いた泥は、小さな粉になって落ちた。


「帰ったら、まずその上着、拭いて」

「はい」


 彼女はもう一度だけ航の手を握り、それから、自分の使う改札へ向かった。


     ◆


 翌日の昼、修平はチョコレートを刻んでいた。


 夜勤明けで眠るつもりだったが、一度売り場へ寄ると、作りたくなった。焼いたあとで十分に冷ます時間があるほうがいい。


 まな板には、大小ばらばらの茶色い欠片が散っていた。


 スマホに篤から連絡が来た。


『しおり、来週取りに来るそうです』


 修平は包丁を置き、手を拭いた。


『お前が持っていけば来週まで待たなくて済む』


 送ったあとで、余計なことを言ったと思った。


 だが、篤からはしばらく返事がなかった。


 修平はスマホを伏せた。チョコレートを一片つまみ、口に入れた。


 甘かった。


 もう一片、食べた。


     ◆


 航の部屋には、洗濯物の匂いがした。


 畳んだタオルが、棚の一段だけにぎゅうぎゅうに詰めてある。ほかの段は空いていた。真夏は理由を聞こうと思って、あとにした。


 二人で買った電球に交換すると、机の上が明るくなった。


 航は騎士を二体、手前へ出した。


 真夏は青い騎士を覗き込んだ。最初に見たときと同じ、マントの裾についた泥の色。それから、盾の端に、以前はなかった小さな傷が描き足されていた。


「これ、新しい?」

「はい。ずっと綺麗すぎたので」


 真夏は頷いた。


 窓際に椅子は一脚しかなかった。航がそれを引いてくれたので座ると、彼は台所から小さな丸椅子を持ってきた。


「それ、低くない?」

「少し」


 座った航の頭が、いつもより下にあった。


 真夏は何か言おうとした。よくできた軽口が一つ、簡単に浮かんだ。


 言わずに、自分の椅子を机から少し横へずらした。


 航の丸椅子を、灯りが届くところまで寄せた。


 彼は買ってきたネイル用の接着剤の袋を渡してくれた。真夏は財布からレシートを出し、丁寧に開いた。


 小さな星は、まだそこにあった。


(了)

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