朝廷のない夜 『超美人ギャルに転生した藤原真夏、弱者男性を口説いたら朝廷ができた』続編
修平は、真夏が来るとわかっている日にだけ、レモンの皮を多く入れた。
それを誰にも言っていない。言わなければ、自分でも知らないままでいられるような気がした。
十一月になっていた。窓の外では、雨で濡れた駐車場に、向かいの弁当屋の赤い看板が映っていた。店の人が看板をしまうと、水たまりはただの黒い穴になった。
焼き上がったケーキを袋に詰め、口を針金入りのリボンで留めた。六つあった。ひとつは味見をして、残りを紙袋に入れた。
今夜は十時から仕事だった。『双六』に寄っても一時間くらいしかいられない。行くほどではないと思いながら、いつもよりよい靴を履いた。
店に着くと、篤が知らない女性と話していた。カウンターには本が二冊、重ねて置いてあった。
「それ、最後まで読んだんですか」
「読みましたよ。貸してくれたじゃないですか」
「いや、途中から急に、人が増えるので」
篤の顔を見て、修平は女性のほうへ会釈した。
女性は美穂といって、篤の勤める書店に、ときどき本を取り寄せに来る客だった。『双六』の話を聞いて、一度遊びに来たのだという。
「今日はもう帰るんです。次はゲーム、教えてください」
美穂はそう言って、本を篤のほうへ押した。
「あと、次に読むならどれですか」
篤は返された本の背を揃えた。すぐには答えなかった。
修平はその間に、紙袋からケーキを一つ取り出した。
「よかったら、これ」
「いいんですか?」
「自分で焼いたんで。口に合うか、わかんないですけど」
美穂が帰ったあと、篤は外へ向かっていた顔を戻した。
「ありがとうございます」
「俺のケーキで何か起きたら、報告して」
「何も起きないですよ」
そう言って眼鏡を直す手つきが、いつもより忙しかった。
修平はカウンターにもう一つ置いた。
「莉子さんの分」
「ありがと。飲み物、いつもの?」
「はい」
そのとき真夏が入ってきた。
黒い短いコートの肩に、雨の粒が残っていた。髪の根元は以前より少し暗くなっていたが、毛先の明るさが顔をいっそう白く見せた。片手に透明な傘、もう片方の手にコンビニの袋を持っていた。
「ねえ、すごい雨」
誰にともなく言いながら、彼女は店の中を見渡した。
修平は、自分の次に入口を見る彼女の目に気づいた。
航はまだ来ていなかった。
◆
航が来たのは、真夏のカフェラテの泡が消えかけたころだった。
彼は濡れた折り畳み傘を、持ってきた細長いビニール袋に入れた。真夏はいつも、その用意のよさを見ると少し笑いたくなる。自分は店の傘立ての下を、さっきから水浸しにしている。
「おつかれ。今日も障害?」
「うん。小さいやつです」
「直った?」
「直りました」
航は隣に腰を下ろした。真夏の青い爪の先が、テーブルの下で彼の膝に触れた。
彼がこちらを見たので、真夏は目だけで笑った。
付き合い始めて二か月になる。駅で待ち合わせても、もう二十分前には行かない。それでも航が改札から出てくるときには、相変わらず自分の口元を意識した。
篤が、さっき来ていた美穂という客の話を始めた。貸した本を最後まで読んでくれたのだという。真夏が「へえ、女の子?」と聞くと、彼は頷いたが、それ以上は話さなかった。膝に置いた二冊の本に、ずっと片手を載せていた。
その夜は、半年ぶりに来たという岡野が一緒の卓にいた。莉子が紹介してくれた常連で、ゲームの説明がうまかった。職場の転勤で、しばらく来られなかったらしい。
「あれ、お二人、付き合ってるんですか」
航が頷くと、岡野は少し驚いた顔をしてから笑った。
「佐伯さん、いくら積んだんですか」
真夏は、航の指がカードの角を押さえるのを見た。
「分割でいいって言ってあげた」
間を置かずに言った。
岡野が声を上げて笑った。修平も笑った。航は真夏の顔を見て、それから、少し遅れて笑った。
誰も困っていない顔になった。
真夏はカップを持ち上げた。底に残ったコーヒーは冷えていた。
「岡野さん、こっちの料金も先に払ってね」
莉子がカウンターから言った。
「はいはい。すみません、変なこと言って」
岡野は財布を探しながら、真夏と航に軽く頭を下げた。それで終わった話だった。
真夏は次のゲームでも笑った。篤がルールの読み方を間違えたときには、その間違え方が本当におかしくて笑った。自分がいつから、どちらの笑い方をしているのか、だんだんわからなくなった。
八時半になると修平は帰った。
仕事だという。いつものように少し残念そうな顔をするので、真夏は、
「行かないでって言ったら?」
と言いかけ、やめた。
「気をつけてね」
「はい。ケーキ、早めに食べてください」
彼が去ったあとの椅子に、真夏は自分のコートを置いた。
九時を過ぎ、航と店を出た。雨はまだ降っていたが、傘を差すほどかどうか迷うくらいの細かさになっていた。
駅までの道は歩道が狭く、二人で並ぶと、傘の端が触れた。
「今日、疲れたでしょ」
航が言った。
「仕事?」
「店で」
真夏は、傘の骨についていた水滴を見た。
「別に。いつもと同じ」
「無理して、俺たちと一緒にいなくていいですよ」
真夏は足を止めた。
航が何歩か先で振り返った。街灯の下で、彼の傘は内側まで薄く明るかった。
「うち、無理してた?」
「そういう意味じゃ」
「どういう意味?」
航は口を開いたが、何も言わなかった。
先ほどまでなら、真夏はそこに言葉を足してやれた。航が答えやすい質問を選び、軽く笑い、腕に触れる。そうすれば彼は、少しずつ自分の言いたかったことを話しただろう。
その手順が、一つ残らず頭に浮かんだ。
どれも、やりたくなかった。
「次から、そうする」
真夏は言った。
航の顔が変わった。
見慣れない顔ではなかった。昔、こちらが冗談で済ませてやらなかった者は、よくこういう顔をした。
駅では別々の改札を使った。
帰りの電車で、航から連絡があった。
『さっきの言い方、ごめん。話したいです』
真夏は何度か画面を閉じたあと、短く返した。
『明日、仕事のあとなら』
◆
夜勤の休憩中、修平は、自分があの場で笑ったことを思い出した。
休憩室のテレビでは、知らない若い俳優が、大きな肉を食べていた。音は小さくされていたが、笑い声だけはよく聞こえた。
正面の席で、同僚が弁当の輪ゴムを手首にはめた。
「宮田さん、例の人、どうなった」
「彼氏ができました」
「ああ、そう。残念」
同僚は箸を割った。
「俺の友達です」
「そうなんだ」
それで話は終わり、二人は食べた。
修平は、少しほっとした。励まされたり、自分も悪くないと言われたりすると、そのあと何を言えばいいのか困る。
あの場では、自分が笑わなければよかった。
そう思う一方で、航が困った顔をしたことに、たしかに気が晴れた瞬間があった。
真夏が好きだった。航も嫌いではなかった。二つとも本当なのに、一緒になると、どうしてこんなものが出てくるのか。
昼間、型から外したケーキを一つ、味見のために食べた。薄い焼き色が均一についていて、表面にはきれいな割れ目ができていた。いつもよりうまく焼けたと思った。
美穂に一つ渡したので、いつもの五人のうち、ケーキをもらわなかったのは自分だけだった。
そのことを急に、損をしたように感じた。
自分には先に食べた一個があったくせに、そう感じた。
「何かあった?」
同僚が聞いた。
「いや」
修平は首を振った。
「今度、ケーキ持ってこようか」
「いいね。何の?」
「レモン」
「俺、チョコがいい」
修平は顔を上げた。
「まだ食べてないのに注文する?」
「持ってきてくれるんでしょ」
テレビの中で、また誰かが笑った。
修平も少し笑った。
スマホを開くと、三人のグループに篤から写真が届いていた。返してもらった本の間に、美穂が忘れたしおりが挟まっていたという。猫の形をした、小さな金属のしおりだった。
『これ、普通に連絡していいですよね』
航はまだ読んでいなかった。
修平は指を動かした。
『忘れ物だから連絡しろ』
続けて、
『代わりに俺が連絡するぞ』
と送った。
篤からは、すぐに怒った猫の絵が返ってきた。
◆
翌日、真夏は店でセーターを畳んでいた。
客が手に取ったところから少しずつ山が崩れる。袖を内側へ入れて折り、裾を上げると、また同じ四角になる。客はその一枚下のものを抜いた。
「これ、毛玉になります?」
真夏は顔を上げた。
「擦れるところは、どうしても少し。よく着るなら、こっちのほうが手入れは楽ですよ」
別の棚へ案内すると、客は迷ったあと、そちらを買った。
礼を言われると、普通にうれしかった。
昨夜のことをずっと考えていても、仕事はできる。目の前の人が欲しい答えもわかる。笑う顔もちゃんと作れる。そのことが、真夏には妙に頼もしく、同時に少し腹立たしかった。
休憩前、段ボールの底を押し潰した拍子に、薬指の爪の飾りが外れた。
青いネイルに載せていた銀の星だった。
床には落ちなかった。箱の中へ入ったらしかった。しゃがんで、箱に残った紙を取り出していくと、小さな星は、梱包用の薄い紙の折り目に引っかかっていた。
拾い上げ、手の甲に載せて眺めた。
爪に載っていなければ、びっくりするほど小さかった。
付き合い始めるとき、航の騎士に合わせて青と銀にした。それ以来、塗り替えるたびに、どこか一本だけはその色を残している。
誰にも頼まれていないのに、続けている。
真夏は星をレシートで包み、財布の小銭入れへ入れた。
休憩室でスマホを見ると、莉子から連絡が来ていた。
『明日、新しい棚が届くから、今日の閉店後に古い棚を空けたい。二十分だけ手伝える?』
続けて、
『航くんと何かあったなら別の日でもいい』
とあった。
真夏は通話を押した。
「わかるんだ」
莉子は、電話に出るなりそう言われて、少し笑った。
『コート、修平くんの椅子に置いてたじゃん』
「それが?」
『いつも、荷物は壁側に寄せてって言ってるのに』
厨房の換気扇の音が聞こえた。
『怒ってたか、何も考えてなかったか。どっちかだろうなとは思った』
真夏は弁当の蓋を開けた。ご飯の上に載っていた梅干しが、蓋の裏についていた。
「あのさ。うちが行かなくなっても、あの三人、来るよね」
『来るでしょ。もともと来てたんだし』
真夏は頷いた。
電話なので見えないと気づいたが、声は出さなかった。
『棚、無理ならいいよ』
「行く。航くんと、話す約束してるから」
『じゃ、閉店ちょっと前においで』
電話が切れた。
真夏は梅干しを箸でつまんで、ご飯へ戻した。
自分がいなくても三人は会う。篤は美穂に本を選び、修平は誰かに菓子を焼く。航は、ずっと前からあの店の窓際に座り、小さな駒の色について話していた。
昨日、篤が美穂という人の話をしたとき、ほんの少し、余計なことを言いたくなった。何か一つ、昔のように耳を赤くさせる言葉を。
言わなかったのは、自分が立派だったからではない。
篤がこちらを見ていなかったからだ。
真夏は、一度、箸を置いた。
そういう自分を、航はまだ知らなかった。
◆
航の机には、小さな騎士が二体置いてあった。
青と銀のもの。それから、白と金のもの。
白い騎士の盾には、彼があとから描き足した星があった。真夏の爪と並べて写真を撮ったころは、自分が彼女の恋人になるとは、まだ本気では考えていなかった。
そのころのほうが、話しやすかった気がした。
真夏が店で爪の飾りを探していた日の朝、航が机の灯りをつけると、一度ちらついたあとで消えた。スイッチを二度押し直したが、つかなかった。
交換用の電球の型を、忘れないように撮った。
そのすぐ前の写真は、真夏だった。
駅の改札を出たところで、持っていたパンをこちらへ見せている。袋で顔の下半分が隠れていた。撮ってと言われる前に、航が自分から撮った写真だった。
何度見ても、目がそこで止まった。
この人が自分を好きだということを、誰かに説明しなければならない気がしていた。
修平も篤も、説明を求めたことはなかった。真夏は一度も、そんなことを言っていない。
昨夜、岡野の言葉に自分が最初に感じたのは、やはりそう見えるのか、という納得だった。
傷つくより先に、納得してしまった。
真夏が冗談を言ってくれたとき、航はほっとした。彼女は怒っていない。まだ帰らない。その安心が、あの笑いになった。
会社へ向かう電車の中で、修平から個別に連絡が来た。
『昨日、俺まで笑って悪かった』
航はしばらく、その一行を見ていた。
『俺も笑いました』
そう返すと、修平から、
『見た』
と返ってきた。
航は小さく息を吐いた。向かいの席の人がこちらを見たので、口元を引き締めた。
『今日、真夏さんと話します』
それを送ったあとで、消したくなった。
修平へ伝える必要があっただろうか。自分はもう、真夏とのことを彼に相談していい立場ではないのではないか。
だが、消す前に返事が来た。
『そう。俺は寝る』
航は画面を閉じた。
電車が川を渡っていた。低い灰色の空の下で、土手を歩く人の黄色い雨合羽だけが明るかった。
◆
夜、『双六』に着くと、航はすでに棚の前にいた。
卓の上にゲームの箱が積まれている。真夏の顔を見て、彼は手に持っていた箱を置いた。
「もうやってんの」
「早く終わったので」
昨日着ていた上着が、椅子の背にかかっていた。肩のところに、小さな乾いた泥の点があった。
真夏はコートを脱ぎ、壁際のフックへ掛けた。
「どこ持つ?」
航は大きな箱の底を押さえていた。
「そっちも、下から。底が抜けかけてます」
真夏は箱の下へ両手を差し入れた。持ち上げると、中で何かが転がる音がした。
二人で箱を運び、棚板を外した。棚の裏には、なくなったと思われていた赤い駒と、黒くなった輪ゴムが落ちていた。
莉子が駒を拾って、指先で埃を払った。
「いた」
誰かを見つけたときのような言い方だった。
作業は思っていたより早く終わった。莉子は、これから車で来る叔母に古い棚を渡すと言って、分解した板を台車に載せ始めた。
「二人、まだいる?」
真夏と航が頷くと、莉子はカウンターのマグカップを顎で示した。
「お茶あるから。十分くらいで戻る」
扉のベルが鳴った。
閉店後の店は、冷蔵庫の音がよく聞こえた。窓の外をバスが通るたびに、座っている二人の足元まで白い光が届いた。
真夏は、いつもの窓際に座った。航は向かいに座りかけ、椅子を引いたまま止まった。
「隣でいいじゃん」
真夏が言うと、彼はそちらへ来た。
カップの中には、まだ湯気があった。
「昨日、ごめん」
航が言った。
「何が?」
聞き返す声がきつくなった。真夏はカップの取っ手から指を外した。
「ごめん。責めてるんじゃなくて、どこのことか聞きたい」
「笑ったこと。それから、帰りに言ったこと」
航は両手を膝の間に挟んでいた。
「笑ったのは、真夏さんが平気だと思って、ほっとしたからです。何とかしてもらったのに、俺まで、見てる人みたいに笑って」
真夏は返事をせず、カップの縁を見た。
薄い茶色の線が一本、内側についていた。
「うちも、ごめん」
彼女は言った。
「分割ってやつ。あれ、航くんのこと、勝手にネタにした」
航は首を横に振りかけた。
途中で、やめた。
「少し、嫌でした」
「うん」
「でも、俺が何も言わなかったから」
「うちが言ったことは、うちが言ったことじゃん」
航は頷いた。
真夏はお茶を飲んだ。熱くて、少ししか口に入れられなかった。
「ああいうの、言われたことなかった?」
「何をですか」
「彼女にいくら積んだとか」
「彼女がいたこと、ないので」
真夏は航を見た。
「あ、そっか」
二人とも少し笑った。それまで椅子の背から離れていた真夏の体が、ようやく後ろへ戻った。
「うちは、わりとある。顔で得してるとか、誰かに買ってもらったんでしょとか。いちいち止まってらんないから、返すのだけはうまくなった」
前世にも、そういう言葉はあった。
父の威光。
主君の覚え。
お前自身に何がある、とわざわざ聞く者はいない。別のことを褒めながら、その意味だけは十分に届くようにする。
今のほうが、言葉は短い。
けれど真夏が一番話したかったのは、そのことではなかった。
「帰り、航くんと二人になってからは、もう笑わなくてよかったじゃん」
彼女は指先を合わせた。薬指だけ、触れるところが平らだった。
「黙っててもよかったのに。あれ、うちは好きで隣にいたのに、無理して来なくていいって言われて」
航が顔を上げた。
「……来てほしくないのかと思った」
「違います」
今度はすぐに声が出た。
「会いたいです。今日も、明日も。ただ、俺といて疲れるなら、そのほうが真夏さんにいいのかなって」
真夏は彼を見ていた。
航は口を結び、それから言い直した。
「嫌われるのが怖くて、俺が帰ってほしいみたいな言い方をしました」
店の前で車が止まった。窓に光が溜まり、すぐに消えた。二人ともそちらを見たが、莉子は入ってこなかった。
「航くん」
「はい」
「うち、自分のこと好きな人、みんな近くにいたらいいなって思ってた」
航は黙っていた。
「今もちょっと、そう思う。篤くんが、ほかの子ばっかり見てるとさ。うちと付き合いたいわけじゃないんだ、って、当たり前のことで変な気分になる」
話しているうちに、自分の言い方が幼く聞こえた。
真夏は爪の表面を親指でなぞった。
「すごい嫌なやつじゃん」
航は、すぐには慰めなかった。
「俺も、修平さんには、もうあんまり笑いかけないでほしいと思うことがあります」
真夏は顔を上げた。
「でも、真夏さんが来る前は、俺が一番、修平さんの話で笑ってたんですよね」
航は困ったように眉を寄せた。
「あの人、面白いので」
真夏は息を漏らした。
「そうなんだよね」
少し笑ってから、二人とも黙った。
相手の返事を待つ沈黙ではなかった。それぞれ、まだ言いきれていないことを持ったまま、同じ机を見ていた。
◆
「もう一個、話していい?」
真夏が言った。
航は頷いた。
「うち、前世の記憶がある」
彼の目が動いた。
「……前世?」
「うん。藤原真夏っていう、昔の貴族。男の人だった」
口に出すと、莉子に話したときよりずっと奇妙だった。よりによって今、この人に、そんなことを言う必要があるのだろうかと、言い終わってから考えた。
航はテーブルへ目を落とした。
「冗談じゃなくて?」
「うん」
真夏は、頷いたまま待った。
いつもなら、自分で先に笑ってしまう。そうすれば、相手も笑っていいし、信じた顔をしてもいい。どちらへ転んでも、話を続けられる。
今は、笑わなかった。
「どんなこと、覚えてるんですか」
航が聞いた。
真夏は、少し考えた。
官位や、宴や、弟の話をすればよかった。
けれど最初に浮かんだのは、誰もいない廊下だった。
「うちに会いに来る人が、減ったころのこと」
声に出すと、当時の木の匂いまで近くなった。
「足音がすると、誰かなって思うの。贈り物かな、用事かな、って。でも、うちの部屋の前は通り過ぎる」
航は何も言わなかった。
「たまに来る人には、すごく親切にした。前より贈り物もしたし、面白い話もした。今日、退屈させなかったら、また来るかなって」
真夏は顔を伏せた。
それを言うつもりはなかった。
長い一生の中で、もっとよい思い出はいくらでもあったのに。
「莉子にはさ、公卿だったから人付き合い得意って話した。ほんとに、そういうところもあったんだけど」
机に置いた手を、反対の手で覆った。
「そうじゃなかったとこも、ある」
航が動くのがわかった。
手を握られるのかと思ったが、彼は冷めかけたお茶を一口飲んだ。
「……信じられる?」
真夏は聞いた。
「まだ、全然わからないです」
その返事を聞いて、真夏は顔を上げた。
航は困っていた。どう答えれば彼女を傷つけずに済むか、考えているのがわかった。
けれど、わかったふりはしなかった。
「でも、それを俺に話すの、嫌だったんじゃないですか」
「……ちょっと」
「話してくれて、うれしいです」
真夏は、今度こそ自分から手を伸ばした。
航の指先に触れると、彼が握り返した。
「うまいこと言うようになったじゃん」
真夏が言うと、航は首を振った。
「ずっと、何て言えばいいか考えてました」
彼女は笑った。
扉の向こうで台車の車輪が鳴り、続いて莉子の声がした。
「そこ、段差あるから」
二人は繋いだ手を離さず、椅子を少し引いて通り道を空けた。
◆
店を出ると、雨はやんでいた。
歩道には小さな水たまりがいくつも残っていて、車が通ると街灯がその中で揺れた。
真夏は傘を畳んだまま持っていた。航も、ビニール袋に入れた折り畳み傘を、鞄から出さなかった。
「明日、仕事?」
真夏が聞いた。
「休みです」
「うちも。何してんの」
「机の電球、買いに行こうと思ってました」
真夏は少し考えた。
「うちも行く」
「電球ですよ」
「聞こえたよ」
彼女は財布を取り出し、小銭入れから折り畳んだレシートを出した。街灯の下で開くと、小さな銀の星が一つ、紙に載っていた。
「これ、取れちゃった。つけ直すのも買いたい」
航は彼女の薬指を見た。
「失くさなかったんですね」
「探したから」
大したことではない、と言うつもりだった。
しかし、けっこう探した。箱を逆さにして、底に残った紙を一枚ずつ広げた。休憩に入るのが五分遅くなった。
航にはそれくらい、知っていてもらってよかった。
「あの青い騎士、まだ机にいる?」
「います。白いのと一緒に」
「明日、見に行っていい?」
航は彼女を見た。
口が少し開いて、閉じた。
「……片づけます」
真夏は笑った。
「そこまでじゃなくていいよ」
航は、彼女の顔を見たまま首を横に振った。
「俺が片づけたいです」
真夏は頷いた。
「じゃ、待ち合わせ昼にしよ」
駅の前で立ち止まると、航は何か言いかけた。真夏が顔を上げる前に、今度はちゃんと声になった。
「キスしても、いいですか」
人が通っていた。少し離れたところで、タクシーの運転手が車から降り、腰を伸ばしていた。
真夏は航の袖を引いて、駅舎の柱の脇へ寄った。
「ここなら」
唇が触れたのは短い間だった。
離れると、航の上着にまた、あの泥の点が見えた。真夏は指で払った。乾いた泥は、小さな粉になって落ちた。
「帰ったら、まずその上着、拭いて」
「はい」
彼女はもう一度だけ航の手を握り、それから、自分の使う改札へ向かった。
◆
翌日の昼、修平はチョコレートを刻んでいた。
夜勤明けで眠るつもりだったが、一度売り場へ寄ると、作りたくなった。焼いたあとで十分に冷ます時間があるほうがいい。
まな板には、大小ばらばらの茶色い欠片が散っていた。
スマホに篤から連絡が来た。
『しおり、来週取りに来るそうです』
修平は包丁を置き、手を拭いた。
『お前が持っていけば来週まで待たなくて済む』
送ったあとで、余計なことを言ったと思った。
だが、篤からはしばらく返事がなかった。
修平はスマホを伏せた。チョコレートを一片つまみ、口に入れた。
甘かった。
もう一片、食べた。
◆
航の部屋には、洗濯物の匂いがした。
畳んだタオルが、棚の一段だけにぎゅうぎゅうに詰めてある。ほかの段は空いていた。真夏は理由を聞こうと思って、あとにした。
二人で買った電球に交換すると、机の上が明るくなった。
航は騎士を二体、手前へ出した。
真夏は青い騎士を覗き込んだ。最初に見たときと同じ、マントの裾についた泥の色。それから、盾の端に、以前はなかった小さな傷が描き足されていた。
「これ、新しい?」
「はい。ずっと綺麗すぎたので」
真夏は頷いた。
窓際に椅子は一脚しかなかった。航がそれを引いてくれたので座ると、彼は台所から小さな丸椅子を持ってきた。
「それ、低くない?」
「少し」
座った航の頭が、いつもより下にあった。
真夏は何か言おうとした。よくできた軽口が一つ、簡単に浮かんだ。
言わずに、自分の椅子を机から少し横へずらした。
航の丸椅子を、灯りが届くところまで寄せた。
彼は買ってきたネイル用の接着剤の袋を渡してくれた。真夏は財布からレシートを出し、丁寧に開いた。
小さな星は、まだそこにあった。
(了)




