本当は、わかってたの。
彼から連絡が来るのは、決まって夜だった。
日付が変わる少し前。
お風呂から出て、髪を乾かして、ベッドに入ろうとした頃。
スマートフォンの画面に彼の名前が浮かぶ。
それだけで、身体の奥が先に反応した。
『今から行っていい?』
私はいつも、少しだけ時間を置いてから返信した。
すぐに返すと、待っていたみたいで恥ずかしかったから。
本当は、ずっと待っていた。
スマートフォンを握ったまま、眠るふりをしていた夜もある。
それでも、
『うん』
と送る。
たった二文字。
それだけで、眠れなかった夜が報われたような気がした。
私たちは、付き合っていなかった。
彼にも恋人はいなかったし、私にもいなかった。
けれど、恋人ではないということ以外は、恋人とあまり変わらなかった。
一緒にご飯を食べることもあった。
映画を見ることもあった。
彼の仕事の愚痴を聞くこともあったし、私のくだらない話を彼が笑って聞いてくれることもあった。
そして夜になると、身体を重ねた。
朝になると、彼は帰った。
それだけだった。
たぶん、世間ではこういう関係をセフレと呼ぶのだろう。
私はその言葉が嫌いだった。
汚いからではない。
正確すぎるからだ。
私は、自分が何者なのかを一言で言い当てられるのが怖かった。
だから誰かに聞かれたら、
「友達」
と答えた。
彼もきっと、そう答えただろう。
友達。
便利な言葉だった。
友達なら、手をつないでもおかしくない。
友達なら、泊まってもおかしくない。
友達なら、朝まで抱き合っていても――
そんなわけがない。
そんなことは、最初からわかっていた。
ある夜、彼が帰ったあと、私はベッドの中で彼の匂いを探していた。
枕に顔を押しつける。
洗い立てのシーツに、かすかに残った香水の匂い。
それを吸い込んでいる自分が、ひどく惨めだった。
「何してるんだろ、私」
声に出して笑った。
誰もいない部屋で、自分だけが馬鹿みたいだった。
それでも、シーツはすぐには洗わなかった。
翌朝も。
その次の日も。
匂いが消えてしまうのが嫌だった。
私は、そういう女だった。
彼が残していったものなら、何でも大事にしてしまう。
コンビニでもらった箸。
部屋に置いていった充電器。
タバコの空箱
そんなものまで、捨てられなかった。
彼にとっては、ただ忘れただけのものなのに。
私は、それを「置いていってくれたもの」に変えていた。
自分でも、馬鹿だと思う。
でも恋というものは、たぶん、そうやって始まる。
相手がくれたものよりも、
自分で勝手に意味をつけたもののほうが、
大切になってしまう。
私はいつから彼が好きだったのだろう。
考えてみても、境目がわからない。
最初からではない。
最初は、本当に何とも思っていなかった。
彼と会うことは楽だった。
彼の前では、取り繕わなくてよかった。
化粧を落とした顔も見せられた。
眠そうな顔も。
機嫌の悪い顔も。
泣いた顔だって。
「俺の前では無理しなくていいよ」
そう言われたことがある。
その言葉が、ずっと残っていた。
たぶん私は、その言葉を「好き」と同じ意味に変換した。
彼にそんなつもりがなかったことくらい、本当はわかっていた。
わかっていたのに。
人は、自分に都合のいい言葉だけを拾って生きていける。
ある晩、私は彼の胸に頬をつけたまま聞いた。
「ねえ」
「ん?」
「私たちって、何なの?」
彼の身体が、一瞬だけ固まった。
ほんの一瞬だった。
でも、わかった。
ああ。
聞いちゃいけなかったんだ。
「何って?」
彼が笑った。
私はその笑顔を見て、急に恥ずかしくなった。
「……なんでもない」
「何それ」
「ほんとに、なんでもない」
笑った。
笑えているつもりだった。
でも、たぶん顔は引きつっていた。
彼は気づかなかった。
それでよかった。
もし気づかれていたら、私はもっと惨めになっていた。
その夜、彼が眠ったあと、私は天井を見ていた。
暗い部屋の中で、彼の寝息だけが聞こえる。
規則正しい寝息。
安心しきった顔。
その横で、私は眠れなかった。
彼にとって私は何なのだろう。
抱きしめたい女?
寂しいときに呼ぶ女?
性欲を満たす女?
それとも。
ただ、都合のいい女?
考えれば考えるほど、答えは簡単だった。
でも、私はその答えを口にしたくなかった。
だから目を閉じた。
眠ったふりをした。
彼が私を抱き寄せてくれることを、期待して。
しばらくすると、背中に彼の腕が回った。
その瞬間、私は泣きそうになった。
馬鹿みたいに嬉しかった。
それだけで全部許せると思った。
「好き」
声には出さなかった。
出せなかった。
彼の腕の中で、私は目を閉じた。
そして、その腕が自分を愛している証拠だと思い込んだ。
その日は、何の前触れもなかった。
彼の部屋で、一緒に夕飯を食べていた。
テレビがついていた。
くだらないバラエティ番組。
彼は笑っていた。
私は味の薄いスープを飲んでいた。
そのときだった。
「そういえばさ」
「うん」
「俺、彼女できた」
箸が止まった。
「……え?」
自分でも驚くほど、間抜けな声が出た。
彼は私を見た。
「だから、彼女」
「……いつ?」
「この前」
「そうなんだ」
私は笑った。
笑えていると思った。
「おめでとう」
「ありがとう」
それだけだった。
あまりにもあっさりしていて、三年間くらい一緒にいたものが、一瞬でほどけていくようだった。
「じゃあ……もう会わない?」
聞いた瞬間、喉が痛くなった。
彼は少しだけ黙った。
「うん」
たった一文字。
それで終わった。
私は自分でも不思議なくらい冷静だった。
泣かなかった。
怒らなかった。
「そっか」
とだけ言った。
彼は気まずそうにテレビの音量を下げた。
「ごめん」
「何が?」
「今まで」
その言葉を聞いて、初めて腹が立った。
今まで。
まるで、なかったことみたいだった。
私は笑った。
「謝らなくていいよ」
「でも」
「私も楽しかったから」
嘘だった。
楽しかった。
それは本当だった。
でも、それだけじゃなかった。
嬉しかった。
苦しかった。
期待した。
傷ついた。
嫉妬した。
何度も泣いた。
それでも会いたかった。
そんな全部を「楽しかった」の一言に押し込めた。
彼の前で泣きたくなかった。
最後くらい、綺麗な女でいたかった。
「じゃあ、帰るね」
立ち上がった。
「送ろうか?」
「いい」
靴を履く。
玄関に立つ。
何度も見た玄関だった。
何度もここで靴を脱いだ。
何度もここで彼を待った。
そして今度は、私が出ていく。
「元気でね」
彼が言った。
私は振り返らなかった。
「うん」
ドアが閉まった。
その音が、思っていたよりずっと大きかった。
外に出ると、雨が降っていた。
傘を持っていなかった。
濡れてもいいと思った。
駅まで歩いた。
髪が濡れた。
頬も濡れた。
雨なのか涙なのか、もうわからなかった。
駅のトイレに入って、鏡を見た。
ひどい顔だった。
目が赤い。
化粧も崩れている。
私は鏡の中の自分に向かって笑った。
「馬鹿だね」
声が震えた。
「最初から、わかってたじゃん」
彼は一度も私に、
「付き合おう」
と言わなかった。
私も一度も、
「好き」
と言われなかった。
誕生日を一緒に過ごしたこともない。
クリスマスもない。
将来の話なんて、一度もしたことがない。
彼女になりたいと願ったのは、私だけだった。
彼は何も約束していない。
何も嘘をついていない。
だから責められなかった。
責める資格なんて、私にはなかった。
私はただ、自分で勝手に期待して。
勝手に好きになって。
勝手に傷ついただけだった。
家に帰る。
玄関を開ける。
静かな部屋。
昨日までと何も変わっていない。
ベッドも。
テーブルも。
ソファも。
全部、同じ。
なのに、何かだけがなくなっていた。
私はベッドに座った。
枕を抱きしめる。
そこには、もう彼の匂いは残っていなかった。
当たり前だった。
洗濯したばかりだった。
私は枕に顔を埋めた。
そして、ようやく泣いた。
声を出して泣いた。
子どもみたいに。
悔しかった。
悲しかった。
寂しかった。
何より、自分が嫌だった。
彼女になれなかったことより、
彼女になれると信じていた自分が嫌だった。
スマートフォンを開く。
彼とのトーク画面。
最後のメッセージは、
『元気でね』
だった。
私は文字を打った。
『私、本当は好きだった』
消した。
『どうして私じゃだめだったの?』
消した。
『一度くらい、私のこと好きになってほしかった』
また消した。
最後に、
『今までありがとう』
と打った。
それも送れなかった。
スマートフォンを伏せた。
もう、彼から連絡が来ることはない。
夜中に、
『今から行っていい?』
と通知が来ることもない。
もう、待たなくていい。
もう、彼のために化粧をする必要もない。
もう、彼の好きな煙草の匂いを嗅ぐ必要もない。
もう、彼女になれるかもしれないなんて、夢を見る必要もない。
そう思ったら、少しだけ楽になった。
私は布団に入った。
いつも彼が眠っていた場所に、一人で横になる。
目を閉じる。
暗闇の中で、最後に一つだけ思った。
本当は、わかってたの。
彼が私を選ばないことも。
私たちに未来がないことも。
いつか、こうやって終わることも。
ずっと前から、わかってた。
本当は、わかっていたのに。
それでも私は、
彼が帰ってくる夜を待っていた。
彼の「今から行っていい?」を、
誰よりも欲しがっていた。
そしてたぶん。
あの頃の私は、
捨てられる最後の日まで、
自分が愛されているふりをしていたかったのだと思う。




