アメ色の世界(2)
――ピロン♪
『ねえっ、薫ちゃん⁉ メメちゃん家に行くってどういうこと⁉ 浮気⁉ 浮気なの⁉』
――ピロン♪
『ずるいよ薫ちゃん‼ いつの間にそんなにメメちゃんと仲良くなったの⁉ 私もメメちゃんと仲良くなりたい~~! おうちに招待されて、いちゃいちゃしたい~~』
――ピロ―――プッ
…………。
……うるさい。
先ほどから休みなく鳴り響くスマホの通知音。
未読なのにどんな内容のメールなのか察してしまえる自分が優秀すぎて辛い。
『あのっ、きょっ今日、うちに来てくれませんか……っ⁉』
放課後。いつも通りさっさと帰宅しようとしていた俺は傘を返したいけれど家に忘れてしまったという天ノ目にそう言われて、一旦、電話で桃華に帰りが遅れる旨を伝えた。べつにあんな傘など捨ててくれて構わないと言ったのだが、そういうわけにもいきませんという天ノ目に、女子の鞄に勝手に私物をツッコんだ男であるところの俺としては逆らうことなどできなかった。
そして現在。その俺の傘がある天ノ目宅へと向かっているわけなのだが。学校から出るとき菜月に見つかり、なぜだとかずるいだとか代われだとか……まあ、いろいろとお察しである。
「……あの、一色さん。なぜそんなに離れて歩くのでしょうか?」
先ほどから居心地悪そうにこちらをちらちら振り返っていた天ノ目が、もう限界といった様子で尋ねてくる。
「俺と一緒に歩いているところなんて知り合いに見られたら、お前に悪いからな」
言わせるなよ恥ずかしい。
一度は言ってみたい台詞ではあるが、俺は今恥ずかしいというより虚しい気持ちだ。
「それに、女の子と並んで歩いているところを友達に見られるのは、思春期男子にとっては恥ずかしいことなんだぞ?」
「っ! ……な、なるほど。分かりました」
よく分かっていなさそうな天ノ目にそう説明すると、新たな価値観に戸惑った様子でそう言って、ぎこちなく歩き始めた。嘘も方便。そもそもお友達のいない俺が言ったところで、説得力があるかは怪しいところだ。
住宅街をさっきより少し俺から距離を取って歩く天ノ目の後ろをストーカーすることしばし。見慣れた交差点を曲がり、大通りから離れた天ノ目は少し歩いた後、小綺麗なマンションの前で足を止めた。
「ここがお前のマンションか? 小綺麗なもんだな。……というか、めちゃくちゃうちの近所なんだが」
以前、菜月と帰る途中、横断歩道で見かけた時になんとなくそうかもしれないとは思っていたが、それにしても駅一つ分どころか同じ地区に住んでいるとは。
「そうなんですか? 一月ほど前に引っ越してきたばかりなので、あまりこの辺りのことには詳しくなくて」
ああ、そういえばこいつは転校生だったな。だからこそ、安桜先生に気にかけてやってくれと頼まれていたのだ。……いや、まあそれはいいのだが。
「……今更だが、俺に家を教えたりしていいのか? 一応、俺は男なんだが」
本当に今更ではあるが、いざ家の前までくると無性に怖くなってきた。もうここに来る途中から手汗が凄かったからな。深く考えないようにしていたが、ちょっともう限界だ。
「? 今日来ていただいたのは私の姉の勝手ですから。むしろ、こちらこそ面倒をおかけしてすみません」
あまり分かっていない様子の天ノ目。
……まあ、本人がいいと言っているのならいいか。
「た、ただいま」
「……お邪魔します」
たどり着いた部屋の前。心なしか声を押し殺すようにしてドアを開ける天ノ目に続き、俺も緊張しつつ中に入る。声が裏返っていないか気になるところだ。
「と、とりあえず、姉はまだ帰っていないようですし、すぐにお借りした傘を持ってきますね」
こそこそと中の様子を確認した天ノ目は安心したように言って、急いで廊下の奥の部屋へと駆けていく。
「あっ、おい」
女子の家に入って早々に一人きりにされてしまった俺はあわててその背中へ声をかけるが、天ノ目はそれどころではないのか、こちらに振り返ることなく部屋に入って行った。
…………。
まあ、だからと言って俺が何をすることはないし、そんな度胸も甲斐性もない。これまで人の家自体あまり入ったことがないため、どうしていいか分からないだけだ。
とりあえずリビングのソファーに腰かけ、バッグを脇に置いて姿勢よく座る。
そういえばお姉さんと二人暮らしだと言っていたな。
…………。
菜月や妹で慣れているはずだが、やはり気心の知れた相手と他人とでは違うものだな。年頃の異性の生活している空間。甘い香りや、どことなく上品な家具。
……考えないようにしよう。
とはいえ、未知の領域に足を踏み入れた時、生物がとる行動は安全確保、つまりは周囲の観察だ。ここが自分にとってどのような場所で、どのような危険が潜んでいるのか。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、持てうる限りの操作能力を駆使し、徹底的に情報を集める。それは生物としての本能であり、習性であり、つまり不可抗力だ。
なので俺の目がついあっちこっち動いてしまうのも、ああ、やっぱ綺麗に掃除されてんなあとか、日当たりいいなあとか、洗濯もの乾くの早そうだなあ、とか、一々感想を思い浮かべてしまうのも、すべては生物的見地から見て俺自身ではどうにもならない不可抗力と言えよう。
「ん? これは――」
**
良かった。
一色さんを家に連れて来たのはいいけれど、いざ姉さんと会わせるとなると大変な迷惑をかけてしまうことになるのは明白。幸いにもまだ姉さんは帰っていないようなので、一色さんに借りていた傘を返したら、せっかく来ていただいて申し訳ないけれど、今日はそのまま帰ってもらい、姉さんは渋るかもしれないが、姉さんがいなかったから仕方ないと言って誤魔化そう。
そう思い、私は急いで自室へと向かい、机の中に大切に保管しておいた彼の傘を探す。
「……あれ? たしかここに入れておいたはずなのですが」
一色さんの傘をしまっていたはずの机の引き出しを開けるが、彼の傘が見当たらない。
念のため他の引き出しや机の周り、タンスやクローゼットの中もすべて探すが、見つかったのは一色さんのものではなく、同じような色をした私物の折り畳み傘のみ。
「ど、どうしましょう……」
申し訳ないという不安と、どうしていいか分からない恐怖に自分の顔がサアっと青ざめているのが分かった。
「ま、まずは一色さんに謝らないとっ」
部屋中を探しまわったが結局見つからず、私は急いでリビングに向かった。
*
「す、すみません一色さん。呼んでおいて待たせてしまって………え?」
急いでリビングのドアを開けた私は、そのわけのわからない光景に一瞬思考が停止した。
「それで薫君、紗月ちゃんは学校ではうまくやってる? もお、あの子ったら不器用で不器用で、姉としては心配なのよお。あの子から入学以来あなたにずっとお世話になってるって聞いたけど、どう? あの子、君に迷惑かけてない? 見かけはあんな感じだけど、本当はとっても不器用で繊細な子だから、あなたにたくさん甘えちゃうこともあると思うの。でも、根はとっても優しいいい子でね。むかしからお姉ちゃんお姉ちゃんって私の後ろを――」
「そ、そうですか。……まあ、俺は言うほど何もしてません。あいつは俺なんかとは違って、クラスの奴らにも好かれてますよ」
「そうなの? うふふ、それはお姉ちゃんとしてはすっごく嬉しいわ♪ それにしてもあなた、結構紗月ちゃんのこと分かってるわねえ。具体的には二人はどれくらいの関係なのかしら? 紗月ちゃんは友人と言っていたけど、いいのよ? お姉ちゃん怒らないから正直に――」
「なっ、何言ってるんですかさっきから! というか、姉さん帰ってたんですかっ⁉ それならさっきまで一体どこに」
リビングに入ってすぐ、ソファーに腰かけている一色さんに早口に詰め寄る姉と、そんな姉に詰め寄られ、戸惑った様子の一色さんを目にした私は、あまりの驚きに声を荒げて姉さんを一色さんから引き放す。
「あら、お帰り紗月ちゃん。この子が昨日言っていたお友達でしょう? 少し話してたけど、いい子そうでお姉ちゃん安心したわ」
私に両脇を羽交い絞めにされた状態の姉さんは、とぼけたように言って上機嫌に笑う。
そんな姉から距離をとった一色さんは、ホッとした表情で「ようやく来たか」と安心していた。うちの姉がすみません……。
「そ、それよりなんで姉さんがここにいるんですかっ⁉ さっき玄関を見た時は姉さんの靴は」
「ああ、実は今日、紗月ちゃんがお友達連れてきてくれると思ったから、驚かそうと思ってそこのカーテンの裏に隠れてたの」
「か、隠れてたって」
いたずらっ子のような笑みを浮かべて言う姉さんに、私は絶句する。
「俺もソファーに座っていたらいきなり後ろから声をかけられて、心臓が飛び出るかと思ったぞ」
そんな私を見て、気の毒そうに一色さんが言った。本当にうちの姉がすみません……。
「というかっ、なんでそんな面倒なことをっ」
憤る私に、姉さんはきょとんと首を傾げると、
「なんでって。だってあなた、私がいたら薫君に合わせてくれないかもしれないでしょう? 私がいないと分かって、急いで傘をとりに行ってたみたいだし」
「うっ、それは……」
さすが姉さん。私の浅知恵などお見通しのようです。
「で、では一色さんの傘は」
「あっ、それならはいこれ。ちょっとあなたの部屋の机の引き出しから借りて来たわ」
言って姉さんはロングスカートのポケットから紺色の折り畳み傘を取り出した。
わ、わたしの罪悪感は……。
「……すみません一色さん、姉さんがご迷惑を。それとその、昨日は傘を貸していただきありがとうございました」
「ああ……いや、何度も言っているが本当に気にしないでくれ。……それじゃあ、俺はこれで。お姉さんも、お邪魔しました」
私から傘を受け取った一色さんは、用事は済んだとばかりにそう言って玄関の方へと身を向ける。心なしか疲れたような顔をしていた。それに私は別れの挨拶を返そうとして、
「そうだわ! せっかくなんだし、薫君も晩ご飯食べて行って! もっと学校での紗月ちゃんのこととか聞きたいわ!」
…………。
やっと解放されると思っていた後のその一言に、一色さんの表情が青ざめたのが分かった。というより、小さく「げっ」と声を漏らしていた。
そんな姉さんの姿に、我が姉ながら本当に人の話を聞かない人だなと心底思った。
……本当に、うちの姉がすみません。
**
「――それで、さっきの話の続きだけど、具体的に二人はどこまでの関係なのかしら? 紗月ちゃんからはただのお友達だとしか教えてもらってないけど、薫君は紗月ちゃんのこと、どういう関係だと思ってるの?」
天ノ目の家に入ってすぐ一人にされた俺は、リビングのソファーに腰かけ、慣れない他人の家ということもあり緊張した面持ちで姿勢を正して座っていた。
「ん? これは」
あまり人様の、それも女子の家の家具などをじろじろと見るのは失礼だと思ったが、ふと目に着いた壁にかけられているカレンダーが気になり、もう少し近くでそれを確認しようとソファーから腰を浮かそうとした――その時。
「――ばあっ! うふふ、あなたが紗月ちゃんのお友達?」
…………。
そこからは美華さん――天ノ目のお姉さん――からの怒涛の質問攻めに目をまわしながら、ひらすら聞かれたことに答え続けた。美華さんと呼んでいるのは、「紗月ちゃんと紛らわしいから、どちらかは名前で呼んでほしいな♪」と言われたからだ。今さら天ノ目を名前で呼ぶのは何となく気恥ずかしいので、「ちなみに私のことはお義姉ちゃんって呼んでくれてもいいのよ?」と言う美華さんの申し出を丁重にお断りし、慣れないなとは思いつつ名前で呼んでいる。
名前は? 趣味は? 好きな食べ物は?――
天ノ目との関係から終いには服のサイズまで、美華さんの質問は止むことがなく、途中からはもう無心でただ己の心のままに思ったことを答えていた。
そのため、正直自分でも途中から何を言ったのか覚えていない。調子に乗って適当なことを口走っていないか、俺はここに来てから気の休まる時がない。
夕飯を食べていくよう言われた俺は、その申し出を遠慮がちにではあるが承諾した。というより、承諾せざるを得なかった。
てっきりお姉さんが料理をするのかと思っていたが、どうやら家事は二人で分担して行っているらしく、今日の料理当番は天ノ目らしい。
そして現在。
エプロン姿でキッチンに立つ天ノ目を新鮮な気持ちで眺めていた俺は、お姉さんがお茶を淹れて戻って来きてすぐに、またしても先ほどの地獄の質問攻めを受けている。
「お友達……というか、俺たちは別に友人でもなんでもありません。当然、美華さんが思っているような関係でもないですし、俺たちは席が隣ってだけの他人です」
先ほどから紗月ちゃんのお友達お友達と言われているが、俺がいつ天ノ目と友人になれたのだろうか? 俺と友人だと思われるなんて、天ノ目が気の毒だ。
「そうなの? でも、紗月ちゃんがその傘はお友達から借りたって言ってたけど……。君だよね? 入学以来紗月ちゃんがお世話になってる隣の席の男の子って」
あれ? と首を傾げる美華さん。いくつなのか分からないが、なかなかイタイそのポーズも、流石は天ノ目の姉だけあってとてもよく似合っている。
全体的に天ノ目を少し大人っぽくしたような彼女は、誰がどう見ても清楚な美人だ。目鼻立ちやプロポーションなどは言うまでもなく、天ノ目とは違い肩あたりで切りそろえられた黒髪が、彼女が動くたびさらさらと揺れ、その拍子に香る甘い香りが俺の深層心理を誘惑する。その所作や立ち振る舞いに至るまで、自由なようで品があり、洗練されている。
自由にふるまっていても美しいのか、自由にしているようで、その一つ一つの立ち振る舞いにまで気を遣っているのかは分からないが、若しくはそのすべてが彼女に染みついていて、それが『天ノ目美華』という女性なのかもしれない。
俺ごとき愚人が、そんな彼女からの下命を断れるはずもなかったな。
「天ノ目が何て言ったのか知りませんが、たぶん俺が勝手にあいつの鞄に傘をツッコんでいたなんて言えないから、とっさに友人に借りたとかなんとかって説明したんでしょう。俺はべつに友人でもなければなんでもない、ただたまたま席が隣で、教科書がそろうまでの間それを見せていただけの関わりです。だから安心してください」
こちらを気にしつつも料理を続ける天ノ目にチラと視線を向けつつ言うと、お姉さんは一瞬目を見開いたあと、なぜかにこりと頬を緩めた。その微笑の意味は分からないが、それは今日見た中のどの微笑みよりも優しいものだと思った。
「あら、そうだったの? でも、君が紗月ちゃんを助けてくれていたのは本当なんでしょう?」
お互いの視線が重なる。
「……まあ、隣の席の人間の役目ですから。隣人愛って言葉もありますし」
年上の、それも美人なお姉さんにそんな風に見つめられては、思春期男子としては緊張を隠しきれるわけもない。
俺は第一印象とは違う美華さんの優し気な瞳からそっと視線を逸らし、ぼそりと答える。
そんな俺の様子に、何が面白いのか美華さんはさらに上機嫌に笑みを深めた。
「……あの、ひとつ聞いてもいいですか?」
一通り話したところで、俺は先ほどから気になっていたことを尋ねてみることにした。
「? いいよいいよ、なんでも聞いて! 紗月ちゃんのアルバムなら私の部屋の――」
「いえ、それはまた今度で。あの、……俺を見て、なにか思うことってありませんか?」
「薫君を見て? んん~、顔はけっこう好みだよ?」
結構真面目に質問したのだが、美華さんはあまり気にした風もなく答える。
「それは光栄ですね。……いえ、そういうことではなくて。俺のこの髪とか見て、不良だとかは思いませんか?」
俺は正直、今日ここに呼ばれたのは妹の友人がどんな奴なのか確認するためだと思っていた。そして連れて来たのは真っ赤な髪をした俺。きっといい印象は持たれないだろうなと思っていたのだが、予想に反して美華さんは好意的に接してくれる。
「そう? まあ、ちょっぴり個性的なヘアスタイルだとは思うけど、でも今時髪くらいみんな染めてるし、君の髪が赤いくらいで不良だとは思わないよ」
「っ……そうですか」
見透かすように頬を緩める美華さん。それから彼女はその微笑みのまますっと瞳を鋭くして。
「君は、人が少し普通と違っていたら、その人のことを何も知りもしないのに否定するの?」
試すような視線。
しかし、その問いかけの答えならば既に持ち合わせている。
だから何の気負いもなく、
「それをするくらいなら、俺は常に否定される側でいることを選びます」
「――うんっ! 合格っ!」
彼女の瞳に安心の色を見て、少しだけ姉の心の内を知れた気がした。
*
「それじゃあ俺はこれで失礼します。夕飯ごちそうさまでした。すげえ美味かったです」
天ノ目の手料理をごちそうになった俺は、桃華のこともあるためさっさとお暇しようと椅子を引く。
「でしょう? さっすが紗月ちゃん♪ ただ、初めて家に呼んだ男の子への手料理が肉じゃがって、ちょっとあざといよねえ~」
「んなっ⁉ あざとくなんてありませんっ!」
さすが美華さん。帰ると言って席を立っている俺の都合など完全に無視して、自分の言いたいことをニコニコと話す。
食事中も美華さんの気まぐれは続き、俺たちは終始翻弄されていた。
天ノ目の学校では見せない、慌てたり怒ったり、その表情豊かな様子は新鮮で、それを見られたのはまあ、役得だと思った。
「……まあ、少し」
「いっしきさんっ⁉」
長い物には巻かれる精神の俺は、「薫君もそう思うよね~?」と美華さんに言われてはどうすることもできない。せめてもの抵抗として直接的な表現を避けたところは評価してもらいたいところだ。
「――すみません、妹に留守番させているので、今日はほんとこれで失礼します。またな天ノ目。美華さんもお邪魔しました」
時計を確認すると、そろそろ十九時をまわろうとしていた。いつもなら桃華と夕飯を食べた後、昼間のうちに桃華がやっていた宿題を採点している時間だ。
俺は今度こそ強い意思を込めて立ち上がる。
「ありゃ、薫君って妹がいたんだねえ。それなら仕方ない! 急いで帰ってあげないとね!」
妹と聞いた途端、美華さんはぱっと席を立って早く早くと俺の背中を押して、急かすように玄関へと連れて行く。
「ちょっ、ちょっと姉さん!」
後ろからは慌てた声の天ノ目がそんな俺たちを追ってバタバタと駆けてくる。そして美華さんの隣まで来た天ノ目は俺の手に荷物がないことを確認し、「ああっ、もう……っ!」と珍しく声を荒げてリビングへと駆け戻っていった。
「……美華さんは、天ノ目のことが大好きなんですね」
「ふふ、もっちろん♪」
ちらと後ろを振り返りつつぼそりと言うと、美華さんは柔らかい微笑とともにはっきりと肯定した。
「君も、妹は大事にしなきゃだめよ?」
そしてすっと真剣な表情をつくり、俺の肩をしっかりとつかんで正面を向かせると、俺の目を覗き込んで言う。今日何度目かの探るような、試すような視線。
俺は一つ呼吸を整え、
「言われるまでもなく、世界で一番愛しています」
力強く答えた。美華さんの視線が何を意味していようと、俺の答えは変わらない。
人様の前で言うことに気恥ずかしさはあったが、俺の一番はどんなときも変わらない。
「あああ、あのっ。いいっ、いっしきさん……⁉」
…………。
かっこつけて言った後、にんまりと唇をゆがめた美華さんを見てなんとなく嫌な予感はしたが………最悪だ。
ドサ。
何かが落ちたような音が聞こえ、美華さんの後ろの廊下へと目をやると、頬を朱に染めた天ノ目が俺と美華さんを気まずそうに見つめている。
「……狙ってましたね?」
「ふふっ、私も愛してるよっ‼」
⁉⁉⁉⁉
苦々し気に言った俺を見て楽しそうににやりと笑みを深めた美華さんは、未だ俺の肩に置いている手をそっと俺の首筋にまわすと、思わず見惚れてしまうような所作で俺の耳元に不敵に歪む唇を近づけて、猫なで声で言ってふうっと吐息を吹きかけた。
「ッ⁉ あ……ああああああいっ…あいしてっ、ねっ、姉さんっ‼」
先ほどまでの赤い顔をさらに真っ赤に染めた天ノ目が、今にもショートしてしまいそうなほど狼狽えながら強引に美華さんを俺から引き放す。
「あははは。……それじゃあこれ以上は紗月ちゃんがやきもち妬いちゃうからまた今度ね♪ これからも紗月ちゃんのことよろしくね、薫くん! またいつでも遊びにきてね~」
言うだけ言った美華さんは最後ににこりと微笑んだあと、ひらひらと手を振ってリビングの方へと去って行った。
「「………」」
台風の去った玄関ではきまずい空気が流れていて、お互い視線を合わせづらく、ただただ立ちつくす。
「あー……それじゃあ俺はこれで。晩飯どうもな。すげえ美味かった」
何も言わずに黙って帰るわけにもいかないので、先ほどまでのことをまるっとなかったことにした俺は、今日何度目かになるさよならの挨拶をする。
「い、いえ、今日は本当に姉さんがすみませんでした。……一色さんは妹さんがいるんですね? もしよろしければ、今日の夕飯の残りですが」
俺と同じくいろいろなことから目を背けた天ノ目は、気を取り直すように言って、さっき俺の荷物と一緒に床に落としていた包みを開き、タッパーを差し出してくる。
「……これさっき床に落としてなかったか?」
「だっ、大丈夫です! こぼさないようきちんと蓋、閉めてますから!」
…………。
「そうか。いや、冗談だ。わざわざありがとな。きっと妹も喜ぶ」
ついいじわるなことを言ってしまったが、冗談抜きで天ノ目の作った肉じゃがはこれまで食べたものの中で一番と言っていいくらい美味しかった。あの腹立たしいことに無駄に多才な菜月よりも料理の腕がいいとは。桃華が餌付けされたらどうしようか。
「一色さんも、そんな顔をするんですね」
「? 何がだ?」
「……いえ、なんでもありません」
ぽつりと漏らした声がうまく聞き取れず聞き返すが、天ノ目はなんでもないと首を振る。
「あの、最後にひとつだけ……」
天ノ目から荷物と肉じゃがの入った包みを受け取った俺が玄関のドアを開け、外に出ようとした瞬間、意を決したようにおそるおそると言った様子で声をかけられた。
「先ほどの姉さんとの話は――」
「忘れてくれ」
人生で一番うまく微笑んだ。
*
家までの帰り道。気持ち急ぎ足になりつつも、俺は今日の天ノ目の家でのことを思い返す。
桃華にはマンションを出るときにメールを送っているため、今から帰る旨は伝えてある。
「……まあ、人それぞれいろいろあるか」
ぽつりと独り言が漏れる。今日は雲もなく、美しい三日月が夜空に輝いていた。
天ノ目の家では美華さんの印象が強すぎてあまり考えることがなかったが、ちらりと見たキッチンやリビング、洗面所など、驚くほど整頓された家中の家具にはそれぞれの家具や収納している棚などにその家具の色が書かれたシールが貼られていた。前々から違和感はあったが、筆箱の中身程度ならまだしも、流石におかしい。そして何よりリビングで待たされているときに見えたカレンダー。なぜかその後もう一度そちらに目をやると、そのカレンダーは裏返されていた。今考えると、美華さんのあの印象的な目を引く所作は、俺の意識を何かから遠ざけるためだったのかもしれない。
――北原総合病院。
カレンダーとともにいつの間にか見なくなった病院のパンフレット。
洗面所に大量にあった市販品とは違う目薬。
安桜先生が俺に彼女を気に掛けるよう言った理由が、何となく分かった気がした。
**
「いい子そうだったね、彼。ちょっと気難しそうだったけど、紗月ちゃんに初めて紹介された男の子がちゃんとした子で、お姉ちゃん嬉しいわ♪」
一色さんを見送ってリビングに戻った私に、冷蔵庫から取り出した麦茶をコップに移し、それを口元に運びながら姉さんが冗談交じりに言う。
「じ、事実ですけどその言い方だと誤解が生じるのでやめてください。……はい、一色さんは良い人です」
先ほどのこともあってまだ少し動揺が残っていた私は、思わず声が裏返ってしまった。最初から最後まで姉さんのせいで本当に散々な結果になってしまったけれど、こうして普段お世話になっている一色さんのことを姉さんに認めてもらえたことは、凄く嬉しかった。
「ふふ、紗月ちゃんもけっこう満更でもない感じ? たしかになかなかイケメンだったもんねえ、彼。面白い子だったし、お姉ちゃんも結構タイプだな~」
「なっ、やっぱり最後のあれは」
「あははは。でも紗月ちゃんのお友達じゃあ仕方ないねえ。お姉ちゃんとしては義弟ができた方が嬉しいし」
「な、なに言ってるんですかっ……! 何度も言っていますが、一色さんとはただの友人です! 姉さんの考えているような関係ではありません‼」
必死に否定するけれど、姉さんは面白がってケラケラと笑うばかり。本当に、いじわるです。
そうしてひとしきり私の反応を楽しんだ姉さんはコップの麦茶を一口飲んで、言った。
「でも、やっぱりまだ目のことは話してなかったんだね」
「っ……はい」
穏やかな雰囲気のまま切り出した姉さんの言葉に、しかし私は動揺することなく頷いた。一色さんが家にいる間、姉さんが一色さんの目からそれを遠ざけるように振舞っていてくれたことは分かっていた。
「一色さんは良い人ですし、信用できると思います。ですが」
「それとこれとは話が違う、ね」
しぼんでいく私の声に、姉さんが続きを紡ぐ。
「……ありがとうございました、姉さん。その、いろいろと」
「まあ、呼んでって言ったのは私だしね。でもたぶん彼、いろいろ気づいちゃったと思うよ?」
容赦なくその可能性を突きつけてくる姉さん。その言葉の裏にはたぶん、これから人と付き合っていく上での忠告のようなものも含まれているのだと分かった。
いつまでも隠してはいられない。関わる機会が増えれば違和感を覚えることも増えて、その時々でうまく誤魔化せるとは限らない。隠し事は敏感に相手に伝わり、それが深い溝となり、壁となり、本当の意味で心を許せることはない。
いつか光を失う日は必ず訪れる。それまでの変化を、減衰していく時間を、誰かと共有することはきっとできない。
分かっている。それは避けては通れない事実。それはとても残酷で、考えるほど目の前が真っ暗な闇の中に包まれる。
「っ……はい。分かっています……」
しかしいざこうしてその事実を突きつけられると、うまく姉さんと視線を合わせられない。声が震える。
掃除の行き届いたリビングのフローリング、埃は見えない。その埃すら、いつか見えなくなる日が来るのだろうか。
「大丈夫。お姉ちゃんがついてるよ」
優しく添えられた姉さんの手は、何よりも優しかった。




