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甘い日常とビターな記憶

「ただいま」


 玄関のドアを開けてつぶやく。


「おかえりお兄ちゃん。お風呂とご飯の用意できてるよ。お風呂にする? ご飯にする? それとも~、わ、た」

「ああ、もちろん『わ・た・し』だ。美味しく頂いてやる」


 リビングの方からどたどたと、まるで飼い主が帰宅したときの飼い犬の様に駆け寄って来た白髪の少女――妹の桃華が新妻のようなことを言うので、思いっきりそれに乗ってみた。


「うぇッ⁉ じょ、じょうだんだよね? っ……今あんまり可愛い下着じゃないから、ちょっと着替えてくるね」


 顔を真っ赤にしてわたわたする桃華。驚くところはそこじゃないだろうと思うが、まあ桃華ならこんなもんだ。


「……冗談だ。悪いな、家事任せきりになってて。とりあえず風呂も飯ももう少し後だ」


 早速下着を着替えに自室へと向かおうとする桃華を、猫を持つように服のうなじ部分を引っ張って引き留める。


「ひっどいよお兄ちゃん! 帰って来て早々、一日中さびしい思いをしてた妹を弄ぶなんて! 知ってる? ウサギは寂しいと死んじゃうんだよ⁉」


 わめく桃華を放ってリビングへと向かおうと廊下を歩き始める俺の後ろをテテテとついてきながら、制服の端をつかんで甘えたように口を尖らせる桃華。


「はいはい、悪かった悪かった。でもウサギが寂しいと死ぬって話は嘘らしいぞ?」

「そんなことはどうでもいいよ! よそのウサギはそうかもしれないけど、桃華ちゃんウサギは死んじゃうの! 頭なでてくれたぐらいじゃほだされないからね‼」


 鞄を持っている方とは逆の手で桃華の頭をなでつつ言うと、理不尽なことを言って俺の前に移動した桃華は、ポカポカと俺の胸元を軽く叩いてくる。

 いつも大体こんな感じなのだが、今日はいつにも増して甘えん坊だ。相当暇だったんだな。


「お兄ちゃん成分きゅうしゅう~」などと言って、そのまま俺の胸に顔をうずめる桃華。

 桃華は同年代より少し小柄な体格なので、完全に上から見下ろす形となる。真っ白でさらさらの髪が視界に入り、ついその頭に手を置いてそっとなでた。


 しばらくの静寂。お互いの体温を交換するような何とも言い難い気恥ずかしい時間。


 そうしていると……ふと昔、桃華がまだ小学生だった頃の記憶が脳裏をよぎった。

 その時はまだ桃華が不登校になる前で、父と母と四人で一緒に暮らしていた。

 その日は両親とも仕事で帰れないということで、当時中学生だった俺が桃華の面倒をみることになっていたのだが、部活で大幅に帰りが遅れてしまった。

 もう小さな子供じゃないのだから大丈夫だろうと思っていたのだが、考えていたよりもずっと寂しい想いをさせてしまったようで、涙で目を腫らした桃華は、今みたいにしばらく離してはくれなかった。

 あの頃の妹は今ほど甘えん坊ではなかったので、甘えられることに慣れていない当時の俺はどうしていいか分からず、ただひたすらに桃華が落ち着くまでの間、彼女の頭をなで続けることしかできなかった。


 ……両親が離婚して、母親に引き取られた俺たちが二人で暮らすようになったのはそれから少し後のことだ。

 桃華が不登校になったのはその頃なので、もうあれから二年近く経つのか。


「まったく、いくつになっても子供のままだな。……そろそろ離してくれ。いい加減、荷物が重い」


 名残惜しいが、鞄を持つ右手の握力が限界に近いので、俺は桃華の頭から手を離してそっと肩を掴むと、桃華を俺の胸から引きはがす。

 不承不承といった様子で離れてくれた桃華は、まだ甘え足りないのか、俺の前に突っ立ったきり歩き出そうとしない。俺は仕方なく、そのまま桃華の肩に置いた手を背中にまわして軽く押しながらリビングへと移動する。軽いし別に構わないのだが、妹の甘えたにも困ったものだ。



 しばらくリビングで時間を潰して、風呂を済ませ、夕食を食べ終えた後は日課の勉強の時間だ。小学六年の頃に両親が離婚し、その頃から学校を休みがちになった桃華は、小学校を卒業する頃にはほとんど学校に行かなくなっていた。義務教育として近くの中学に通うことになってはいるのだが、入学式すら桃華は行っていない。

 本音を言えばもちろん、普通の同年代の子供たちのように毎日学校に通ってもらいたいのだが、彼女がそうなってしまった事情を考えると、何が最善の選択なのか分からないのが現状だ。そんな状況に、元から放任主義だった母親は俺達兄妹に二人暮らしをすることを提案した。今では仕送りくらいでしか繋がりを感じることはないが、向こうにも新しい人生がある。俺達はもう終わった家族だ。あの頃のようには戻れない。

 だから俺がそれ以上を求めることは、もう二度とない。


「――ちゃん! ねえ、お兄ちゃん!」


「……ん? ああ、悪い。どうした? どこか分からないところでもあったか?」


 考え事に夢中でボーとしていた俺は桃華に呼ばれて我に返る。


「うん、ここの問題なんだけど……大丈夫?」

「ん? 何がだ?」

「いや、ボケーっとしてたから疲れてるのかなって。それに、……なんだかちょっと怖い顔してたよ?」


 心配そうに、隣に座る俺を見上げる桃華。

 言われて、俺は自分の拳が握りっぱなしだったことに気づいた。


「……大丈夫だ。ちょっと今日学校で寝られなかったからな。眠いってだけだ」


 心配させないように笑顔を張り付けて軽口を返す。

 その言葉に桃華は安心したように笑顔を見せて、先ほどの問題を改めて尋ねてきた。


 突然のことに、つい嘘をついてしまった。桃華の勉強を見るために、高校に入学して以来、俺は意外と真面目に授業を受けている。中学の範囲も菜月に教わって人に教えられるくらいにはなった。菜月はああ見えて成績がいいのだ。俺が言えたことではないが。


 俺は尋ねられた問題を解説しながら、そっとリビングの隅に置かれた姿見に目を向ける。

 そこには真っ赤な髪の目つきの悪い男と、まつげの先まで真っ白な彫刻のように美しい少女が並んで座る光景があった。


「……もう俺しかいないんだ」


 ふと漏らした俺のつぶやきは天使の様に愛らしい妹の耳には届くことなく、ただ俺の胸の内にそっと積もった。



 *



「……寝ちゃったのか」


 勉強道具を片づけた後、ソファーに並んで座ってテレビを観ていると、ふと隣から寝息が聞こえてくることに気づいた。


「んん~……おにいちゃん。うさぎさん食べちゃダメ~……」


 俺の肩に身を預け、口元をモニュモニュさせながら変な寝言をつぶやく桃華。


「はは、どんな寝言だよ。……まったく、寝づらいだろ」


 そんな可愛い妹の姿を見ていると、自然と俺の頬も緩んでしまう。

 俺は桃華を一旦肩からはがし、膝の上に頭をのせさせる。


「……こんなに綺麗なのにな」


 神聖さすら覚える真っ白な髪に手を置き、丁寧に髪をすく。


 ――先天性白皮症。

 遺伝子の突然変異によって、体内の色素であるメラニンの遺伝情報が欠損することで、先天的にメラニンが不足し、髪や皮膚が白く、虹彩が淡い青色や灰色になる遺伝性疾患で、一般的にアルビノと呼ばれる。動物の場合、劣性遺伝であるため野生では不利に働くことが多く、ほとんどの場合群れを追われるなどして生き残ることは難しいのだが、ペットショップなどではその希少性や美しさなどから高値で取引される。

 日本人では数万人に一人の割合で発生するらしく、桃華もまたその一人だ。

 神秘的で美しく、無責任なことを言えば、何も持たない俺からすれば、羨ましいとすら思えてしまう。

 ……だが、アルビノはその特異な見た目から歴史的に多くの迫害を受けて来た。

 異形を恐れるのは人の常であり、決して他人事ではない。人間は酷く脆弱で、常に安心を求めている。自分が下になることが怖くて怖くて仕方ない。怖いからこそ故意に下を作り出し、安心を得ようとする。周りと違う存在をはじき出し、集団でもって貶める。薄汚い人間の本性だ。

 っ……まったく、本当に腹が立つ。

 知らず、自分の顔が強張っているのが分かった。姿見に映る自分の顔を見て、はっとして呼吸を整える。

 鬱陶しい思考をかき消すように、スヤスヤと気持ちよさそうに眠る桃華の髪を優しく指で梳いた。


 一旦、桃華を起こして歯磨きを済ませ、俺もまた寝る準備を整える。

 妹である桃華も今年で十四歳。過保護だという自覚はあるが、それでもやめられないのはお兄ちゃんだからだろう。

 自室のベッドの上。目を閉じて少しすると、意識が遠のいていく。

 先程までいらんことを考えていたせいか、最後に頭をよぎったのは――大嫌いな記憶だった。



 *



 昔から、妹はよく笑う子だった。

 人付き合いが下手な俺にとって、いつも人懐っこく笑顔を絶やさない桃華は自慢の妹だった。

 年が離れているためあまり外で関わる機会はなかったが、それでも家ではよく話をしたし、ときどきおこる家庭の不調和も、下手くそな俺に代わっていなしてくれた。


 俺が中学に上がった頃からだろうか。

 父も母も、その頃から既に顔を合わせる機会は少なくなり、元から放任主義だった二人は俺のことも放っておいたが、それでも桃華の前では取り繕っていた。あの頃の家族は多分、桃華のおかげでギリギリ成り立っていたのだ。


 しかし、桃華の髪は白かった。


 ただそれだけ。たったそれだけの理由で、桃華は学校でいじめを受けていた。

 俺がそれを知ったのは、桃華が学校に行けなくなった後だ。


 ある日、両親の離婚が決まった。

 ――遂にこの時がきたか。

 その時の俺の感想はそれくらい淡白なものだった。


 しかし、俺はそれまで大きな勘違いをしていた。

 両親の不仲は俺にとっては物心ついたころから当たり前のことで、当然、桃華も理解していると思っていた。

 だが、それを理解するにはまだ桃華は幼かった。純粋だった。

 思い返せば、両親も桃華の前では仲のいいふりをしていたように思う。それを俺は表面上を取り繕っているだけの滑稽なものだと思っていたが、桃華にとってはそれが見えていた世界だったのだ。


 離婚の話を聞いて、今までに見たこともないほど心を乱した桃華は、一時期自室に引きこもってしまい、数日間、食事もとらずに泣き続けた。それでも、そんな娘の姿を見ても、両親の考えは変わらず、もともと母親の持ち物だったマンションを父親が出ていく形で話がまとまり、結局、父親は最後まで桃華と顔を合わせることはなかった。俺たちを引き取った母親も、仕事を理由に桃華と家のことを俺に任せ、今では別に部屋を借りて暮らしている。

 その後、なんとか桃華を励まし続け、どうにか部屋から出て来た彼女は驚くほど痩せていて、美しかった髪は乱れ、肌は荒れ、思わず俺は涙がこぼれた。

 調子を取り戻して学校に通えるようになったあと、それまで耐えられていたいじめに心の支えをなくした桃華がどうなったのか。……もはや考えるまでもないだろう。

 だから、俺は誓った。


 ――俺が桃華を幸せにする。


 思い出す彼女の顔はどれも涙に濡れていて、まだまだ俺は弱いままだ。



 *



「今日もありがとうございました、一色さん。来週からは教科書をもらえるはずなので、安心してください」


 金曜日。

 今週中ずっと机をくっつけていた俺たちはそれなりに機会があり、始めこそぎこちなかった天ノ目も、今では普通に話しかけてくるようになった。一々礼を言われるのはむずがゆいので、いい加減やめてほしいところだが。

 何を安心するのか謎だが、これでこいつも俺と関わる機会が減って、これまで以上にクラスメイトたちとの交流が増えることだろう。俺もいい加減、チラチラと向けられてはすぐに逸らされる鬱陶しい視線にもうんざりしていたので、安心と言えば確かに安心だ。


「……そうか。まあ、どうせ隣の席なんだし、困ったことがあれば―――……頑張れ」


 言ってくれと言おうとして、俺に言うより、それこそ周りの誰かに相談した方が交流も増えて、よっぽど天ノ目のためになるだろうと気づいてやめた。今も羨ましそうに俺の方を睨みつけている菜月のアホで良ければ、すぐにでも仲良くなれるはずだ。あいつはこの一週間、常に天ノ目と席をくっつけている俺に物凄くジェラシーを燃やしていたからな。そろそろ構ってもらわないと俺の身が危うそうだ。


「……え?」


 と、俺の言葉になぜかポカンとした表情を浮かべ、珍しく気の抜けたような様子で俺を見つめる天ノ目。


「? なんだ、変な顔して」


 俺が怪訝な目で言うと、正気に戻った天ノ目は慌てたように。


「いえ、一色さんがそんなことを言うとは思わなかったので。……って、変な顔とか言わないでください!」


 失礼なやつだ。とはいえ、今日までの俺の態度をあらためて客観的に考えると、天ノ目がそう思うのも当然だろう。不愛想の権化だったからな。


「……別に、俺が何かをしてやれるわけでもないけどな」


 変に期待されても困るので、先に断っておく。

 俺の言葉になぜか頬を緩める天ノ目を無視して、荷物をまとめて席を立つ。そのついでに、思い上がりそうになった恥ずかしいバカを戒めた。


 妹一人守れなかったお前に、誰かを助けられるわけないだろ。


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