第3話 夜会
エリアノアの支度が終わるタイミングで、ノックの音が響く。侍女のマルアが扉を開くと、執事が手紙を渡した。
深い緑色の皮に、ファトゥール公爵家の紋章を意匠とした柄が焼き込まれたトレイ。その上に、白い封筒がのる。刻印は第一王子を表す八重のバラだ。それを確認し、エリアノアはマルアに封を開けるよう指示をした。
封を開けたそれを受け取り、手紙を開く。そこにはいつもの通り、『王城の貴女の控えの間に、迎えに行く』という儀礼的な文章が綴られている。
「ああ、ちょうど良いタイミングかも。ミレイも同じ控えの間に入ってもらって、殿下にご挨拶だけでもさせましょう」
王室が主催する茶会などに連れて行くことはできない身分であっても、こうしたタイミングで紹介することは可能だ。せっかく行儀見習いとして上がってきたのだから、少しでも経験を積ませてあげたい。
サノファ王子の手紙を再びトレイに戻すと、エリアノアはミレイをエントランスホールにスタンバイさせるよう伝えた。
屋敷の中央にある階段を降りる。両側から始まる階段は、折返しの踊り場で一つにまとまり、エントランスホールに出ることができた。踊り場には現当主の肖像画が大きくかけられている。赤い絨毯を降りきれば、ミレイがエリアノアに満面の笑みを向けた。
「エリアノア様っ! 似合いますか!」
(え、えぇ?!)
思わず心の中の声が出そうになる。
(挨拶が先! 挨拶が先でしょ! そのくらい市井の子どもだってわかるでしょうが!)
挨拶もせずに、自分の身支度を自慢よりの確認をするミレイに、エリアノアは心中の突っ込みが止まらない。
どうせ今それを注意したところで、彼女の脳裏に焼き付くとは思えないので、あとで家庭教師から注意させることにする。
「……ええ、似合っているわ。これから向かうのは王城よ。王族の方にご挨拶することにもなるのだから、礼儀をしっかりとね」
「えっ、王族の方に? そうよねそうよね。なんたって私も公爵家に……」
王族という単語に、すっかりと浮足立っているミレイを横目に、執事があける扉へと向かう。
「さぁミレイ、いらっしゃい」
馬車の上座にエリアノアが座り、その隣にミレイ。下座にはミーシャとマルアが同乗した。夜会でのサポートの為だ。
全員が席についたことを確認し、執事が扉を閉める。扉内側についた鈴をマルアが鳴らす。リン、と高い音が鳴り、一息付くと馬車が動き出した。
数分ほど馬車が走ったところで、王城に到着する。王家に近い血筋のファトゥール公爵家は、王城にほど近い場所に王都での邸宅を構えていた。
「ファトゥール公爵令嬢メイアルン子爵ご到着です」
馬車の扉が開く前に、肩書を呼ばれる。
「メイアルン子爵?」
ミレイが不思議そうに首を傾げた。エリアノアはそのことに驚く。
「お嬢様は、ファトゥール公爵家の領地のうち、メイアルンを継受されています」
「メイアルンって、サンドレイア帝国に隣接している?」
「ええそうよ。もう五年ほど前に先代が身罷られて、私がそこを預かることに。その時に子爵位も賜ったの」
行儀見習いにあがる家の領地や位階程度、最低限知っておくべきことだ。それすら知らずにきたことに、エリアノアは衝撃を受けてしまう。
(このあとのミレイの動き次第で、それがミレイの問題なのか、ムールアト伯爵の問題なのかが、はっきりするかしらねぇ)
妾腹で市井にいたとあれば、ある程度の常識がないことは仕方がないとエリアノアは考えている。だが、彼女の父であるムールアト伯爵は、曲がりなりにも貴族だ。基礎教育を施した上で行儀見習いにあげるべきことも、またそうすることが公爵家への最低限の礼儀であることも理解してるはずである。
(ま、今考えても仕方がない、か)
考えているうちに開けられていた扉から、侍女とミレイが降りたことを見届けると、見目麗しい紳士が差し出した手に自らのそれを重ね、馬車を降りた。
そのままその紳士に伴われ、控えの間へと向かう。彼女の脇に控えるミレイは、何かを言いたそうな顔をしている。
「ミーシャ、ミレイも連れてきて」
「かしこまりました」
エリアノアと紳士の後ろにマルア、そしてミーシャに伴われミレイが続く。
「ミーシャ、あの騎士は?」
後ろの会話に、エリアノアは耳を澄ませる。ミレイがミーシャを呼び捨てにしたことに小さく苛立ちを覚えるが、ここで言うことではない。
「サノファ殿下の側近のお一人ですわ。お名前を私から申し上げるべきではないので、控えさせていただきますが、騎士というお立場ではございません」
「そうなの? じゃあ爵位持ちってこと?」
「重ねて申し上げますが、私から申し上げることはできません」
「えー、良いじゃない。ね、こっそり教えて」
「それは私が判断するべきことではございませんので」
(さすがはミーシャ! まぁ、軽率に侯爵子息のことを話す侍女なんて、うちにはいないけど)
彼女をエスコートしているのは、ゼトファ侯爵長子のイルダ。第一王子の側近として、城にあがっている。王子の婚約者であり、公爵家の娘でもあるエリアノアを控えの間までエスコートするには、相応の身分の者でないとならないからだ。
やがてエリアノアに用意された部屋に到着する。三間続きの部屋は、奥に休憩用と衣装直しの為のベッドルーム、手前が応対用のリビングになっていた。リビングの逆側に、お付きの者の控えの間がある。
「イルダ様、ありがとうございます」
「半時後、殿下がおいでになる予定です」
「かしこまりました。殿下へこれを」
エリアノアは用意してきた手紙を渡す。それには、ミレイを伴ってきている旨を記載していた。すでに先触れを通じて伝えてはあるが、到着の知らせと共に、改めて連絡をする。
封筒からは柔らかな百合の香りがした。彼女の好む香水だ。
「確かにお預かりいたしました」
イルダが下がり、部屋にはエリアノア、ミレイと侍女だけとなった。
「かっこいいー! エリアノア様、あの方どなたなんです?」
「今名前をお呼びしていたのを、聞いていなかったの?」
「イルダ様でしょ? でも家名を知らないわ」
目眩がしそうな勢いで衝撃を受ける。
(私の爵位の事も知らなかったのだし、これも当然なのかもしれない。家庭教師も、この程度は知っていて当然と教えていないのかもしれない……)
「彼はイルダ・ロンガ・ゼトファ。ゼトファ侯爵子息よ」
「へぇぇぇぇ。素敵ですね。あの方と踊れるかしら」
「……タイミングがあえば」
ぐったりと疲れてしまうが、どうにかそれだけを口にする。
(今すぐこの子を放り出したい気分よ。こんな面倒な子は、初めてだわ。新卒の研修だって、もっと気が楽だった)
マルアが用意したハーブティを口にすると、スッキリとしたレモングラスの香りが広がった。
それがエリアノアの心を、少しだけ立て直してくれたような気がする。
そろそろ、婚約者であるサノファ第一王子がやってくる頃だ。
(問題を起こさず、挨拶ができますように……!)
エリアノアのその願いは、残念ながら思わぬ方向に転がってしまうのだったが──。