第29話 ジョコダ領01
ボルシェアの街での演説を終えると、船着き場で準備をしていた他の随従たちと合流し、エリアノアは再び船に乗る。
後ろに流れゆく景色の中で、次の生活に対するわずかな希望を手にした難民たちの明るい笑顔を見つめ、少しだけ気が緩んだのか、エリアノアは小さな息を吐いた。
「エリアノア様、お疲れなのでは」
昨夜はラズロルを心配していた為、睡眠も浅かった。朝からの移動に、大勢の人の前での演説。いくら衆目に慣れていると言っても、気を張り続けていれば疲れるであろう。
心配そうに侍女二人が傍らに侍る。
「ありがとう、大丈夫よ。それよりも、ラズやジョルジェは昨夜の早馬から起きてるんじゃないの? 二人の方が体を休めて──」
「エリー」
ラズロルが言葉を遮り、エリアノアの前に座った。優しく笑いかけ、口を開く。
「俺たちは大丈夫。こう見えても、体を鍛えている人間だからね。ジョルジェも」
「はい。二日や三日は徹夜も大丈夫です」
「ほらね。俺たちと違って、エリアノアはそういう訓練は受けてないだろ? 君が休んだのを確認したら、俺たちも休ませてもらうから」
「──私が休んだら、皆も休んでくれるのね」
「勿論」
その言葉に安心したのか、エリアノアの瞳がゆっくりと閉じていく。そのままうとうとと、眠りの底に沈んでいった。
「お嬢様がこんな風になるなんて、初めてです」
「本当ですわ。ラズロル様のことを、信頼なさっているのでしょうね」
マルアとミーシャの言葉に、ラズロルは軽く笑い「だったら嬉しいんだけど」そう言いながら、彼女の体を抱き上げた。横抱き──いわゆるお姫様だっこ──をすると、簡易的なベッドになるソファにエリアノアを運ぶ。
(なに? ふわふわとして、どこか心地が良いわ。とても……温かい)
浅くたゆたう眠りの中で、エリアノアはぼんやりと感じる。ラズロルの腕がエリアノアをしっかりと抱きしめ、その熱が互いに流れあう。そっとソファに彼女を下ろすと、髪の毛をさらりと撫でた。エリアノアの長い睫毛が、頬に影を作る。
「眠っているあなたに触れることを、お許しください」
小さな声でそう言うと、エリアノアの長い髪の毛の先を手に取り、そっと口付けをした。
*
船はそのまま、ムールアトとツァルセンの境を通り、やがてジョコダ領へと入る。オレンジ色のマジャリの木の花がいくつも咲き、ジョコダ領に入ったことを示していた。
その川を幾度か蛇行していくと、やがて海に出る。河口近くの船着き場に寄せ、今夜の宿へ向かうことにした。
休息をとったあと、エリアノアもラズロルも衣服を改めている。その為、この街でも商家の人間を装って宿に入ることができた。
部屋はそれでも、庶民の泊る場所としては十二分に広い。海辺の街ならではの白く明るい部屋に、大きなバルコニーが設えられている。
一行は夕食を終え、バルコニーから街を眺めていた。
「途中見たムールアトの村は、本当にひどい状況だったわね」
「はい。バスムルク害を鎮める為とは言え、自分の畑を焼き払う事は、民にとって大きな苦しみかと」
「グルサム、メイアルンへ一報は?」
「すでに済ませてございます」
「そう、ありがとう。うちにも麦を作ってくれている農家はいるもの」
「もともとメイアルンの農家は勉強家が多いので、アラートさえあれば、対策は十分にとれるかと存じます」
グルサムの言葉に頷くと、エリアノアは海の方を見つめる。
「あれがグリアーノ港」
「そう。明日すぐに向かうかい?」
「そうしましょう。前回は遅くなってしまったもの。ただ、早すぎても働く方の邪魔になるわよね」
「だったら、俺とジョルジェで様子を見てくるよ」
「それが良うございますわ、お嬢様」
「マルア?」
「港の男たちは多少荒くれだっておりますでしょう。男性が向かう方が調べも早いかと」
「……確かにそうね。お願いしても良い?」
「勿論。ジョルジェも良いよね」
「異論ございません。ラズ様は少々奔放が過ぎますが、私がサポートさせていただきます」
「奔放だなんてひどいな。ちょっと自由なだけだ」
「まぁ! 随分と打ち解けているのね」
「二人で早馬を飛ばしているうちに」
くすりと笑うラズロルに、エリアノアもつられて笑ってしまう。この旅に出て、エリアノアが自然に笑う回数が増えた。共をしている者たちは皆そう感じている。
「ジョコダ伯爵と言えば、ゼトファ侯爵の分家筋よね。グルサム、何か報告は上がっていて?」
「はい。ここ数年、街に人が増えている、という報告が上がってきておりました。住民の数も、商業収入もあがっています」
「活気があることは良いことだわ。何か理由があるのかしら。──そうね、明日ラズたちが港を見ている間に、私たちは街を視察して来ることにしましょ」
「ああ、それは良い考えだね。俺たちは、皆が眠っている間に出発することにするよ」
「気を付けてね」
「エリーも」
潮風がバルコニーを通る。エリアノアの銀色の髪の毛がかすかに揺れた。月の光を受け、それはキラキラと輝く。
「まるで、月の祝福を受けているようだな」
「ラズ?」
「エリー。その髪に、触れても?」
「え……ええ……」
エリアノアの許可を受けると、ラズロルはその場に跪く。
「ラ、ラズロル?」
そうして、彼女の細く柔らかい髪の毛先をそっと手にし、口付けをした。
「あなたに、多くの祝福が宿りますように」
ラズロルの金色の髪にも、月の光が落ちる。二人のその姿は、まるでどこかの国の戴冠式のような厳かさをも感じさせた。
港から警笛が響く。
聞こえるはずのない波の音が、聞こえてきたような、気がした。




