第27話 婚約破棄のその後01 ミレイとサノファ
正妃の夜会の後、ミレイは第一王子の控えの間にサノファ共々下がった。だが、そのまま王城に残ることは許されない。そのことを理解していなかった二人は、王からの指示で第一王子側近のイルダが部屋に訪れ、サノファだけが王城の奥の間に呼び出されたことに疑問を持つことはなかった。
「ミレイ。父上に話をして来よう。このイルダは、きっとその為に私を呼びに来たのだろう」
「サノファ様。待っておりますわ」
「殿下こちらに」
「うむ。ああ、ミレイにワインを用意してやってくれ。私が戻るまでの間、ゆっくりしていてもらいたい」
「──善処いたします」
しかし、その後サノファがこの部屋に戻ることはなかった。サノファを奥の間へ案内し終えたイルダは、その足でミレイを馬車へと連れ出す。
「私はサノファ様を、あの部屋でお待ちするのよ」
「国王陛下のご命令でございます」
「陛下の? でも私はまだ陛下にご挨拶していないわ。未来の娘になるのに」
「それであれば尚更のこと、陛下のご命令にお従いください」
「ああ、わかったわ! きっと花嫁衣装を用意して、屋敷に迎えに来てくださるのね」
「私は陛下の御心のままに、あなたを馬車へとご案内するまでです」
イルダに連れられ、ミレイは城の裏門への道を進む。しかしミレイはこの城のことを知らない。エリアノアであれば、その道が夜会に参加する人間が使う門ではないことを、知っていただろう。
ミレイの不幸であったことは、それを知らなかった為に己の扱いを理解できていなかったことであり、幸いであったことは、知らなかったが為に、己の立場を理解しないで済んだことだろう。
「無知の無知は、一生無知であれば幸いなことね」
エリアノアがこの場にいれば、そう呟いたに違いない。
連れられてきた門は薄暗い。荷揚げや荷出しなどを主に行う門である為、夜会が開催されるような時間には使用されない為だ。
そこに、一頭立ての質素な馬車が一台用意されている。
「ミレイ・ムールアト伯爵令嬢。こちらの馬車へ」
「なによこれ。私は第一王子の正妃になる者よ。こんなにみすぼらしい馬車に乗れと言うの?」
「──できるだけ目立たないように」
イルダの言葉に、ミレイが目を細めた。
「そうね。今はそっと屋敷に帰ってあげないと、エリアノア様がかわいそうですものね」
「馬車をお出しします。──御者、ムールアト伯爵のお屋敷まで」
「え? 公爵邸ではないの?」
「……あなたは、公爵令嬢ではない。公爵邸へ帰る権利など、どこにもございません」
ばたり、と閉められた馬車の扉に、ミレイの表情が凍る。
「嘘! 嘘でしょう? 正妃になる私が帰るに相応しいのは公爵邸じゃなくて?」
「あなたはこの城に来た時から、いや来る前からずっと、伯爵令嬢でしかない」
窓越しにイルダが言葉を交わす。
「ふ、ふん。でもすぐにお城から支度金と、陞爵の勅使がたつはずだわ」
この国で陞爵がある場合、その多くは業績を認められてのことだ。結婚の為に爵位をあげるということは、ない。
貴賤結婚をする場合、必要な爵位の者への養子縁組をするか、後見を依頼することが常套となっているのだ。それもままならない場合は、上位の爵位の者がその爵位を放棄することになる。
この国の歴史を知っている、または常識的な貴族であれば、誰もが知っていることではあった。だが、ミレイは貴族になって日が浅い。ファトゥール公爵家がつけた家庭教師の歴史の授業も、ややもすれば半分も記憶になかった。
「ずいぶんと華やかなお考えで結構」
「イルダ様。私の事をようやく褒めてくださいましたのね」
「──御者、待たせたな。もう行って構わない」
遠回しな嫌味は何一つ通じない。呆れ返ったイルダは、ミレイを送り出す。
馬が大きく一声、いななく。
がたりと動き出した馬車は、まるで城から罪人を送り出すかのように、闇の中へと消えていった。
「エリアノア様へのご無礼、しっかりと反省されるが良い」
馬車の後ろ姿を見ながら、イルダがそう口にする。だが、その言葉をミレイが耳にすることはない。
やがてイルダの視界から、馬車の姿が完全に消え去っていった。
*
「父上はまだか」
王城の奥の間に入り、王を待つ。すでに二時間ほどが過ぎているが、王が現れる気配は一向になかった。
すぐ近くに立つ警備兵に声を荒立たせ問うが、一介の警備兵に王の動向などわかる筈もない。
彼はわかりかねます、と困ったように返すしかなかった。
「イルダ。イルダを呼べ」
側近のイルダが、王の命を受けて自分をここへ連れてきた。それなのに、この場にいない。そのことにサノファはようやく気付く。
「どこに行ったのだ」
「──王子。落ち着いてください」
「ジェシカではないか。なぜここに? 母上も来るのか」
栗色の髪の毛を一つにまとめあげた、老齢の女性。ジェシカ・アルヴェルテは側妃に長く仕える侍女である。側妃が幼い頃から仕えている為、側妃からもエヴァルンガ侯爵からも、そして王からも信頼が篤い。
「サルール殿下がおいでになります。御身、お大事になさってください」
「どういうことだ」
「おわかりになっていないのですか? 今の状況を」
「良い、ジェシカ。サノファにはわからないのです」
「母上!」
奥の間の上座には、カーテンがかかり、その奥に王の扉と呼ばれる扉がある。王とその妃のみが使うことができるものだ。側妃はその扉から現れた。顔色は悪く、表情も冴えない。
「母上、ご体調が悪いのですか? お顔の色が」
「誰のせいだとおもっている。己が何をしでかしたか、理解もしないで」
「王子、中央で礼拝を」
大きな溜め息を吐きながら、側妃は正面の椅子に座った。すぐ横にジェシカが侍る。側妃の前から部屋の扉──サノファが入ってきた扉だ──までは、一直線に緋毛氈が伸びていた。緋毛氈の端は金と銀の刺繍が施されている。
この部屋は密かな王命を受ける時に使われる部屋であった。サノファは王族である為、待機の間は部屋に置かれた椅子に座っていたが、本来王の扉から王、妃が現れればすぐに、中央で膝をつく礼拝と呼ばれる礼を取らなければならい。
ジェシカの言葉に、サノファも礼を欠いていたと気付く。緋毛氈の中央でサルールに対し膝をついた。
「母上、私はエリアノアとではなく、ミレイと結婚をしようと思っております」
「ムールアト伯爵令嬢といいましたね」
「はい。私をとても愛してくれています」
まるでそれが至上の命題とでも言うかのように、サノファは愛、と口にする。第一王子である意味を、まるで理解していないその振る舞い。それをサルールは憎々しげに見た。
「エリアノアを正妃に迎えるつもりはない、と」
「まぁ、私の妻になる為に妃教育を受けてきたことは、きっと彼女の今後に役立つと思います。母上も、エリアノアに申し訳ないと思わないでいただければ」
その場にいる全ての人間が、サノファの言葉に絶句する。サルールは、言葉があまりにも通じないことに加え、それが己の生んだ息子であることに絶望を感じた。
「わかりました。では陛下のお言葉を伝えましょう」
「はい」
陛下の言葉、と聞きサノファは喜色を浮かべる。
(父上から、許可が降りたらすぐに、ミレイに伝えにいかねばならないな)
ミレイとの婚姻の許可と信じ切ったその表情を隠すこともなく、サルールを見つめた。
だが、その表情は次に告げられた言葉で一転する。
「指示があるまで、自身の宮からの外出を禁じます」
「なっ……。どういうことです、母上!」
「サノファの今後を陛下が預かっておいでです。指示をお待ちなさい」
サルールはそれだけを言うと、王の扉から部屋を後にする。ジェシカは横にある従者の扉をあけると、サノファを見て口を開いた。
「王子。あなたの持つお名前と称号の重さを、今一度お考えくださいませ」
そう言うと、ジェシカもその場から姿を消した。後に残されたサノファは、礼拝の姿勢を解き、椅子に座る。小さく首を振り、目を閉じた。扉ががちゃりと開き、イルダが現れる。
「殿下、宮までお供いたします」
「──イルダ、今までどこへ」
「ミレイ様をお送りする手はずを」
「送る?」
「陛下のご指示です。殿下が宮にお籠りになるならば、王宮に留めおくわけにもいきませんでしょう」
「私と一緒に宮にいさせれば良い」
「本気でございますか? 今はまだ何の縁も結んでいない娘です」
「娘と呼ぶな」
「殿下が正妃に望むとあっても、現在は伯爵家の令嬢。礼を尽くしはいたしますが、立場は私の方が上でございます」
イルダの言う通りである。イルダはゼトファ侯爵家の長男。ミレイは伯爵家の養女だ。望めば王家と婚姻を結べる立場の侯爵家と、最低限後見がないと婚姻することはできない伯爵家。その立場の違いは歴然としている。
王家という血筋の中で生まれ育ち、周囲もそうした人間ばかりであったサノファだ。そうはっきりと言われれば、それ以上何も言うことはできなくなった。
「殿下。あなたが口にしたことの重大さを、そろそろお気づきなのではありませんか?」
「なんのことだ」
ふい、と顔をそむける。それ以上の言葉は不要だと言わんばかりの態度に、イルダは内心舌打ちをした。
(馬鹿王子に、これ以上付き合っていられるか)
その心の内を表には一切出さず、扉をあける。
「殿下、宮へ参りましょう。どちらにせよ、陛下からのお言葉を待つしかございません」
「それもそうだな。父上には、後で改めて手紙を出そう。そうだ、ゼトファ侯にも手紙を書くから、預かってくれ」
「父へ、ですか?」
「ああ。ミレイを貴公の養女にしてくれ、と伝えねばならん」
「は?」
「お前にはわからないか。ミレイを正妃に迎える為に、侯爵令嬢にしないとならないだろう。この程度常識だ」
それ以前の問題でイルダが驚いたことなど、サノファは思いもよらないようだった。だが、それを今告げたところで、理解などしないだろう。そう判断したイルダは、曖昧な笑みを浮かべながら、サノファを彼の宮へと連れ出したのであった。
王宮の中、側妃の住まいのすぐ近くに、第一王子が住む宮がある。
その宮での謹慎をサノファが申し付けられた日から──つまりは正妃の夜会から、四日が経っていた。
「父上からの返信はまだないのか」
「サノファ殿下。同じご質問を一時間おきに口にされても、早く届くわけではございません」
「だがもう四日が経つ。父上へ手紙をお送りしたのは、あの夜だぞ」
「陛下はご多忙でございます故」
「このままではミレイにも、いつまで経っても会えないではないか」
「左様でございますね」
「それにイルダ。お前に渡したゼトファ侯への手紙も、返事はまだだ」
「父はただいま領地に帰っておりまして」
嘘である。側妃派としてエヴァルンガ侯爵と並び称されるゼトファ侯爵だが、今回のサノファの言動により、その立場を変えつつあった。
ミレイと出会ってからのサノファの愚かな言動は、息子イルダを通じ無論ゼトファ侯は知っている。しかし、エリアノアを正妃に迎えることは動かしようのない事実と考えていた為、静かに様子を見ていたのだ。
夜会であのような振る舞いをし、あまつさえ王弟を父に、カイザラント王国の次に大きなミンドリアル王国の第三王女を母にもつエリアノアを、婚約者の座から外す。そんな愚かなことをしでかすとは、一体誰が予想しただろうか。
領地に帰っているわけではないが、そうした背景の中、ゼトファ侯は現在多方面の貴族と秘密裏に会うことに忙しかった。
そしてその中で今、サノファの愚かな申し出に断りの返事すら迂闊にするわけにはいかなかったのだ。
「手紙鳥を飛ばせば良いだろう」
「殿下の許可なくそのようなこと、いたしかねます」
「では今、許可を出す」
「今からですと、父と行き違う可能性もございますので」
のらりくらりと交わしながら、イルダは退室のタイミングを探る。いつまでもサノファの宮にいるわけにはいかない。
(殿下の側近を辞退したい旨、父上に早くお伝えしたい)
側近を辞する場合、当主から国王へ奏上する必要がある。今夜は侯爵の外出はないと、執事に確認をとってあった。
(いつまでも、愚かな王子の側近でいても仕方がない。それに……)
「ああそうだ。エリアノアに手紙を出せば良い」
エリアノア、という言葉に、イルダは目を瞠る。
「で、殿下?」
「今すぐに書くから、直接公爵家に届けるように。今日はそのまま帰って構わない」
イルダが二の句を継げられないうちに、すらすらとペンは進む。流石に内容を確認するわけにはいかず、その突飛な行動をどうにか理解しようと、努力をするだけしてみるが無駄だった。
(衆人環視の元、婚約破棄を叫んだ相手に手紙を書く? 例えそれが詫び状であったとしても理解し難いが、この馬鹿王子が詫び状を書くとは思えない。一体何をエリアノア様に伝えようと言うのだ)
「これで良い。これで事態は動き出す筈だ。イルダ、エリアノアにこれを届けよ」
「おそれながら殿下。エリアノア様に一体」
「お前に教える必要はない。だがまぁ──私とミレイが一刻も早く会えるようになる為のもの、とだけ言っておこうか」
「……はぁ」
サノファに手渡された白い封筒。封緘には第一王子を表す八重のバラが刻印されている。それを箱に入れ、イルダは悩ましい心の内を一切表情にのせず、宮を後にした。




