第17話 明日のドレス
エリアノアが自邸に戻ると、執事が出迎えた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。──ファトゥール大公殿下からお手紙が届いております」
「まぁ、もう? 流石ね」
フットマンの手を取り、馬車を降りる。
ドレスの裾を侍女が直すと、自室へ移動した。
執事から手紙を受け取る。封筒は大公の印である薄い銀色。ファトゥール家の、バラにユニコーンの封緘がされていた。
執事が「旦那様から」と言わず、「ファトゥール大公からの手紙」と告げた理由はここにあった。ファトゥール公爵としての手紙である場合、封筒は薄い水色となる。
封緘を確認し、再び執事へと戻す。受け取ると、彼は封を丁寧にあけ、エリアノアへ手渡した。
「あら。ムールアト伯爵はすでに動いているの。思ったよりも素早い対応だわ」
ミレイの父親であるムールアト伯爵から謁見の申し出があり、今晩より実家へミレイを呼び戻す旨を受け付けた、と手紙にはあった。
「この屋敷に娘を帰すほど、恥知らずではなかったようね」
ミレイがこの屋敷に来てから、実家へ手紙を出している形跡はない。サノファと二人、共に出かけていることは、多少の人の口には上がっていたが、夜会での出来事ほどのインパクトはなかった。
そもそも、第一王子が王位を求める以上、エリアノアを正妃とする条件を外すとは、誰も思っていなかったのだ。
ムールアト伯爵にとって、今回の件は寝耳に水と言えるだろう。
この国の貴族であれば、この状況で娘が正妃になれると考える者はいない。
「手駒に傷がついたとでも、思ってそうだけど」
手紙をぱさりとガラステーブルに置き、天井を見上げる。
(疲れた)
考えねばならないことは山積しているが、今は何も考えたくない。それが彼女の素直な気持ちだった。
「お嬢様。お湯の用意ができております」
控えめに、けれどエリアノアの現在の状況を的確に把握した侍女が声をかける。
「ありがとう。そうね、今は気分転換が必要」
傍に控える執事に手紙を渡す。
手紙には他に、サノファとエリアノアの婚約を解消する旨が記載されていた。この一文の公的意義の為に、手紙はファトゥール公爵ではなく、カイザラント・ファトゥール大公としての──つまり、王弟のものとして差し出されていたのだ。
「セルク、明日には正式にサノファ殿下と私の婚約解消が表に出ます。対応をお願いね」
「かしこまりました」
長く公爵家に仕える執事は、静かにそう応える。だが、心の中は穏やかではない。小さな頃から見守ってきた、大切な大切な公爵家の姫になんという無礼を、と老兵今にも剣を持つと言わんばかりに震えているのだ。それと同時に、今は目の前のエリアノアが少しでも心安らかに、この夜を過ごせることを望む。
「お嬢様、マルアが言うように、お湯浴みをなさいませ」
「ふふ。セルクにまで心配されちゃった」
「当たり前でございます。温かいお湯は、心も体も休ませてくれます。さぁ、お湯上がりには、甘いものをご用意いたしましょう」
「あら。遅い時間だと言うのに怒らないの?」
「お嬢様の夜のおやつをお叱り申したのは、もう何年も昔のことでございましょう」
セルクの優しい瞳に、エリアノアが笑いかける。
幼い頃、夜遅くにおやつをねだっては、叱られたことを思い出す。そうして叱られると、小さなエリアノアは弟のホルトアと共に執事の目を盗み、そっと台所に忍び込みシェフにおやつを出してもらう。その度に、おやつを夜遅くに食べたことに加えて、使用人の職場に立ち入ったことまでも叱られていた。
公爵家の全ての人間に見守られていることを改めて感じ、エリアノアは瞳を閉じる。
(私は、幸せ者ね)
サノファとの婚約破棄──と、彼は言うが実質は解消だ──に関して、エリアノア自身にはなんら瑕疵を負わない。それはたとえ、心に於いてでも同じだった。
(殿下とは、結局最後まで言葉が通じ合わなかった。そのことは悲しいことだけど、この悲しみは国民の一人として、次期王たる者への失望に近い気がする)
失恋の痛みなどという言葉とはあまりにも遠いところに、彼女の心はある。多少の情からくる寂しさはあったとしても、それは恋を失ったものとは全く異なっていた。
それよりも、温かい湯に浸かることで緩んだ気持ちに、ふと思い出す瞳がある。そのことに、エリアノアはわずかに動揺した。
「お嬢様、お湯のお加減はいかがでしょうか」
すぐ横でメイドが声をかける。動揺を隠すように、エリアノアはばちゃりと手で湯の表面を弾いた。
「え、ええ。ちょうど良いわ」
浴槽の中から髪の毛を掬われ、丁寧に洗い上げられる。やがてそれは体中に広がり、隅々まで磨き上げられていく。
その間中エリアノアの脳内は、仮面の紳士が最後に彼女に笑いかけた表情で、埋め尽くされていた。
(約束、とおっしゃった)
エリアノアが家族以外とした約束で、守られたものは一つもなかった。幼い頃異国の城で交わした夢のような約束。そして、サノファと交わした約束。どちらも彼女が小さかった頃の約束だ。だからこそ、守るようなものではなかったのかもしれない。けれど彼女の中で、約束がいつしか無意識的に禁忌となっていた。
(今度の約束は、大人になってからのものだから。きっと……)
そんなことに期待をしてはならない。それは判っている。けれども、だいそれた願いではない筈だ。
(このくらいのこと、願っても構わないよね)
再び会う、たったそれだけのこと。けれど、相手の素性も知らなければ、エリアノアは公爵家の娘。そして王位継承権を有する者。小さくも難しい願いに、彼女には思えた。
*
湯上がりの身支度を整えているところに、ノックの音がした。執事が新たに手紙を持ってきたという。侍女が取り次ぎ、受け取る。
「あら、今度はお母様から」
中身を改めると、明日新しいドレスを作るというものだった。
「……お母様ったら」
新しいドレスを作り、新しい装飾品を用意する。
それは、新たな戦闘服の用意ということだ。
(衣服と装飾品は、相手に舐められない為にも、気持ちを切り替える為にも、必要なことだと教えてくれたのも、お母さまだったわね)
その時々に必要な衣装に装飾品を身に纏った瞬間から、その衣装にふさわしい人格が表に出てくるよう意識が切り替わっていく。
「明日には、グラフス殿下のご縁談の話や私の縁談の話、またいろいろ始まるもの。気を引き締めないといけないわね」
ファトゥール公爵令嬢が第一王子の婚約者ではなくなる、つまりは後見ではなくなるということは、貴族間のパワーバランスが崩れるということだ。正妃、第一王女派が黙ってはいないだろう。
だが、それを跳ね返すほどの力が側妃、第一王子側にはない。公侯伯爵家の力としては劣っているわけではないが、第一王子の愚かさが露呈した今、彼らの旗印とすべきものがないのだ。
(王女殿下とホルトアの婚約という可能性が、高くなるわけね)
エリアノアが第一王子と婚約ができる立場であるということは、同時に双子の弟であるホルトアが、第一王女と婚約ができる立場であるとも言える。
この国では、王の子二人のうち、一人の言動が児戯に類するようであれば、もう一人が王位を継承するのが常であった。
そうなると、王の配偶者として相応しい血筋、教育を受けている人間が、第一王女の婚約者として求められる。
王位継承権を有しているホルトアは、最有力候補とされて不思議はない。
(ということは、私が公爵家を継ぐことになるから、お相手をそういう視点で探さないといけないのか。うぅん。今から良い方がいるのかしらねぇ)
公爵位を継ぐのは実子だ。配偶者はそのサポートをすることとなる。野心家で、己が公爵と勘違いしてしまうような人間を遇するわけにはいかない。
「……グラフス殿下は、あの方とは……」
夜会でのグラフスの優しい表情を思い出し、エリアノアの眉はわずかに皺を寄せる。グラフスがホルトアと婚約をする場合、仮面の紳士と結ばれることはない。二人の関係はわからないが、グラフスのあの表情は、エリアノアが見たことのないものだった。
「あの方の立ち居振る舞いは、高貴な方のもの。あるいは、婚約相手はホルトアではなく──」
可能性を口にしてみると、一気に現実のもののような気がしてしまう。
エリアノアは小さく首を振ると、侍女に手紙の支度をさせる。
「今夜はとにかく──。側妃殿下へお手紙を書いて、寝てしまいましょう」
夜会での仔細を──無論、すでに側妃にも報告は上がっているだろうが──エリアノアの言葉で綴り、拝辞を側妃へと伝えるのだった。
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