第16話 約束
(私が王位に着けるわけがないでしょう。継承位が何番目だと思っているのよ。ばっかじゃないの)
広間の光が漏れる、城の庭。
サノファの間抜け過ぎる問いに、怒りよりも呆れる気持ちが湧き上がる。
(最後まで、私に対しての愛情など欠片もなかったわね)
エリアノアとて彼に愛情があったわけではない。けれど、五歳からずっと共に過ごした中で、生まれた情は確かにあったのだ。
それすらも、まるで存在しなかったかのような振る舞いに、さすがに少々の切なさは生まれる。
(あーあ。あんな人間を、立場的に仕方がないとは言え、支えようと頑張ってきただなんて)
不愉快と不機嫌の底なし沼に入りそうになった感覚から抜け出したく、広間の音楽に耳を澄ませるが、どうにも気持ちが乗らない。
美しい筈の庭も、どこかどろりと陰気な森のように感じてしまう。
「プリンセス・エリアノア」
突然そう呼ばれる。それは今しがた口にしたばかりの、称号。別段そう呼んでもらいたくて、口上したわけではなかった。
むしろ誰かにそう呼ばれたら、実際には王位を希望しているわけではない分、不快感の方が強くなるのかもしれない。
だが、不思議と今そう呼ばれたことに、不愉快な気持ちなど生まれなかった。逆に、その柔らかな声の響きに、安堵してしまうほどだ。
声の主へと振り向く。
そこには、仮面の紳士が立っていた。
「まぁ。まさかあなたに、その名を呼ばれるとは」
「このタイミングで、公爵令嬢や子爵とお呼びするわけにも参りませんでしょう」
「確かにそうね」
ふふ、と自然な笑いが生まれたことに、エリアノアは驚く。先程まで、どろどろのコーヒーのような気持ちから這い出ることができなかったというのに、こんなにも簡単に楽しく明るい気分になってしまったのだから。
「そう言えば、あなたに名前を呼ばれたのは、初めてかもしれないわ」
「──卿の名前を、唇にのせたくて」
甘い言葉がエリアノアに触れる。
ざわりと風が吹く。
庭の木々が揺れ、満開の花はその花びらを散らした。
エリアノアのドレスの裾も揺れる。
頬に触れる髪の毛が、風の道筋を示すように舞う。
庭に降りる月明かりに、仮面の下の瞳が柔らかく光った。
じっとエリアノアを見つめるその瞳は、優しく明るいグレー。
深い、深い何かをたたえて、彼女を見つめる。
(その、瞳を知っている。人を、誰かを、熱く、慈しむような、瞳)
サノファがミレイを見ている時に。
ミレイがサノファを見ている時に。
己には向けられることがないと思っていた、その熱い瞳。
それが今、自分に向けられていることに戸惑いを隠せない。
(そんなことが、あるわけがないのに。私にそんな瞳を向けられることなど、あるわけがないのに)
まだ二度しか会っていない。
第一、今しがた口頭での婚約解消が決まったばかりだ。
それに──恋心など、サノファとの婚約の時に捨ててきた。
必死で心を取り繕うエリアノアは、気付いていなかった。
その全てが、意味などないということを。
「……あ、わ……私……。もう行かなくては」
「ええ、それがよろしいかと。陛下のところへ? それともご自宅へ?」
どうにか平静を装い対応するエリアノアに、彼はそれ以上の距離を詰めてはこない。
優しく、彼女の気持ちを汲みとり、できる限り怯えさせることがないように。
「家に帰ります……」
「今日はゆっくりお休みになってください。王女殿下方には、私からお伝えします」
近くを通るメイドに、エリアノアの侍女を呼ぶように告げる。その手際の良さに、やはり人に指示を出し慣れている立場の人間だと実感した。
「エリアノア様」
聞き慣れた声が彼女を呼ぶ。
「来てくれてありがとう、ミーシャ」
エリアノアは、彼に向き合いゆっくりと笑う。
「また……お会いできるかしら」
夜会の音楽が聞こえる。恋を歌ったワルツだ。
「ええ、必ず」
仮面の紳士はエリアノアの手をとり、その指先にそっと口付けをする。
「私は、約束を守りますから」
動揺を隠すことなど、できるわけもなかった。エリアノアは、高鳴る心音を耳中で聞きながら、小さく「やくそく」と口にする。
「……約束ですわよ」
そう笑うと、彼も同じように、笑った。
エリアノアが去る間際に、彼は声にならないよう口元だけで言葉を放つ。
──エリー。エリアノア。必ず君を迎えに行くよ。
それは、エリアノアの耳に届くことはなかった。




