第15話 婚約破棄
「サノファ様……! そのお言葉を、お待ちしておりました」
まさかのプロポーズだ。
四人の顔もさすがに引き攣る。
広間にいる貴族も、隣にいる者と小声で何かを口にした。
そんな周囲の驚きなど気にもとめず、二人の世界は紡ぎ続けられていく。
「無論私の──正妃に」
「嬉しゅうございます」
まるで美しい物語のようなワンシーンだ。
だが、彼らの周りでは、当たり前だがざわめきが起きている。
「あぁ、でもそうしたらエリアノア様は……」
「そうだったな」
(私は今、とんでもない茶番を見せられているのではないかしらね。思った以上に面倒ごとが大きくなってしまった)
まさに茶番。開いた口が塞がらないとはこのことなのだろう。
「エリー」
「判っているわ、ホルトア。行ってこないと」
この夜会に参加している貴族の中に、サノファとエリアノアが婚約していることを知らない人間は誰ひとりとしていない。そして、その意味を知らない人間もいないはずだった。本来ならばサノファを含めて──。
エリアノアは手にしていたワイングラスを近くのテーブルに置くと、ゆっくりと立ち上がった。
(殿下。お手並み拝見よ)
「エリアノア」
広間の中央、ミレイを抱きしめながらサノファがエリアノアを呼ぶ。
「サノファ殿下」
「エリアノア。聞いていたか?」
「ええ、聞いておりました。──私をお呼びになるのでしたら、先ずはその娘の手を離していただけませんこと?」
ミレイの腰と手に自らの手を絡めているサノファを見て、エリアノアは溜め息を吐いた。それでもサノファはその手を離さない。
(なんてみっともない。一秒でも早く、この状況を終了させたくなる)
吐き気をもよおすほどの嫌悪感を抱きながら、サノファに対峙する。その姿は、サノファよりもよほど、王位に近いような威圧感と存在感を、たたえていた。
「今、仰ったことは本気ですか?」
「ああ。私が求めるのはこの娘だ」
「嬉しい! エリアノア様、やっぱり私の方がサノファ様に」
「お黙りなさい」
エリアノアはミレイに一瞥もくれず、切り捨てる。
「先程私に問うていたのは、こういう理由だったのですね」
「その通りだ。私の正妃には、私を愛している人間が相応しいだろう。サポートならば側妃でも構わぬ」
その言葉に、エリアノアだけではなく、会場中の温度が下がったことに、サノファは気が付かない。
(色ごとに夢中になると、物事の判断ができなくなるというのは、本当のことなのね。巷の物語が大げさなのかとおもってたけど。……まさかこんな形で、知りたくはなかった)
サノファの今の発言は、伯爵令嬢を正妃にし、公爵令嬢を側妃にすると公言したも同然だ。それが許される筈も、実現する筈もない。
侮辱された形のエリアノアは、それでも悠然と笑っていた。
「サノファ殿下。私を正妃にはなさらない。そういうご選択ということで、よろしいのですね」
「ああ。必要なら今ここで、はっきりと宣言をしておこうか」
「それはどちらでも。正式な手続きは、この場でできるわけはございませんもの」
「本当にお前は、こんな時にも可愛げのない女だな」
可愛げのない女。
この言葉で、エリアノアの何某かを傷付けることができると思っているサノファに、エリアノアを含めその場にいる人間は呆れてしまう。
(王妃に求められることが、何一つ理解できていないなんて。どれだけ驚かせてくれるのかしら。こちらは五歳のときからたたき込まれてるというのに)
「私を、お選びにならないのですね」
エリアノアは何度もそう口にする。それは、サノファが後悔をしないのかを確認する為ではない。この場にいる全ての人間に、サノファの選択を確認させる為だ。
「選ばない。私はエリアノア、お前を選ばない」
エリアノア以外の人間が、この件に介入してこないことに気を良くしたのか。サノファは言葉を続けた。
「今、ここに宣言する。私、カイザラント王国第一王子、サノファ・トゥーリ・カイザラントは、エリアノア・クルム・ファトゥールとの婚約を破棄し、ミレイ・ムールアトを正妃と迎える為に婚約をする」
(婚約は破棄じゃなくて、解消よ。ああ、そうか。殿下有責の破棄ということね)
呆れ顔を隠し、サノファを見る。
水を打ったような静けさの中、エリアノアが口を開いた。
「では、その旨を両陛下、ならびに側妃殿下、そして我が両親であるファトゥール公爵に申し伝えます。サノファ殿下が『お選びに』なった結果ということとして」
美しいカーテシーを見せ、エリアノアはサノファの前を去ろうとする。
「まて、エリアノア」
「……サノファ殿下。以後、私の事を名前でお呼びになるのでしたら、『プリンセス・エリアノア』とお呼びくださいませんか」
プリンセスとは、王位継承権のある女性につける称号だ。エリアノアは、あえてここでその言葉を口にした。
「それは──」
この場にいるサノファとミレイ以外が、エリアノアが言った「私を選ばないのか」という意味を理解している。
そして、エリアノアが自らプリンセスと称号をつけたことにより、サノファもようやく理解した。
今、この国の公侯伯子男爵は正妃、第一王女派と、側妃、第一王子派に分かれている。そのバランスは非常に微妙なものであった。その中で、王弟であるファトゥール公爵家の娘が第一王子の婚約者でいることが、パワーバランスの要でもあったのだ。
逆に言えば、そのバランスが崩れた時、第一王子が必ず王位に着くことができるとは保証されない。
側妃がかつて、幼いサノファに「エリアノアと結婚すれば王になれる」と告げた真意は、そこにあったのだ。それを彼は、十九歳になっても正しく理解できていなかった。
いや、理解はしていたが、その重要度に実感が持てていなかったのだ。
第一王子という立場でありながら、婚約者の力がないと王になれるかが不安定であるという現実から、逃れたいと常に思っていた。
そんな中、イルダという側近を得たことで、その後ろにいるゼトファ侯爵家の力をも手に入れることができた気になる。それはつまり、母親の実家であるエヴァルンガ侯爵家と、ゼトファ侯爵家の二つの侯爵家の後見を得ているということだ。
だからこそ、彼はエリアノアを手放しても良いと思うようになった。否。手放したいとまで思うようになったのだ。
しかし、エリアノアが婚約者であるとは、王位継承権のある者が妻となるという強みであることを失念していた。
「まさか……。お前が王位継承問題に絡んでくると?」
「サノファ殿下。私との婚約を破棄──解消とのことですので、以後我が公爵家との関わりは公務以外は一切ございません。──ごきげんよう」
サノファの言葉を無視し、エリアノアは足取りも軽やかにその場を辞した。
呆然と立ち尽くすサノファにミレイが声をかけ、彼もまた部屋に戻る。
ようやく当事者が皆いなくなった広間に、夜会の参加者はこの後どうするか戸惑うばかりだ。そこへ、グラフスとホルトアが現れる。
「音楽を」
ホルトアのその声に、広間には再びワルツがかかった。
バイオリンの音色が響き、それが天井から吊るされるシャンデリアにまで届いているかのように、光が広がる。
夜会は再び、華やぎを取り戻していった。
庭に向かったエリアノアを除いて──。