第12話 正妃の夜会
淡い水色のドレスに身を包んだエリアノアは、結い上げた髪の毛に白い花を飾る。
隣に座る母クルファのドレスも同様に淡い水色。揃いで作ったドレスだった。
同じ生地ではあるが、デザインを変えて、エリアノアはフリルをあしらったAラインに、クルファはマーメイドラインのドレスに、それぞれ仕立ててある。
今夜は正妃の夜会だった。
正妃ラチュアノから届いた夜会の招待状には、ミレイの名もある。
「正妃陛下はミレイをご覧になりたいそうよ」
この状況を正妃に伝えていたクルファが、楽しそうに笑う。二人の間でミレイがどんな風に話題になっていたか、想像に難くない。
「悪くないんじゃない? ファトゥール公爵一家と共に正妃の夜会への出席。まるで、公爵家の一員になったかのような、勘違いをしそうだ」
「ホルトアったら、何を期待しているの」
呆れ顔のエリアノアに、茶目っ気たっぷりの表情で、弟が言葉を続ける。
「現実を知ってもらう良いチャンスじゃないか。正妃陛下の夜会であれば、殿下はエリーのエスコートだ。僕はグラフス王女殿下のエスコートをすることが決まってる。じゃぁミレイは?」
「……一人で大広間に入らせるつもりなのね」
「婚約者のいる相手に手を出すというのは、そういうことだろう」
「それだって、彼女一人でできることではないでしょう」
「エリーは誰の味方なのさ」
気付けばミレイの擁護のような台詞を口にしているエリアノアに、ホルトアは苦笑する。
「そういうところが、エリーの可愛いところなんだけどね」殿下は気付いていないみたいだけど。そう続けると、エリアノアが少しだけ寂しそうに笑った。
「私たちの後ろを歩かせてちょうだい」
馬車到着の知らせを聞いたクルファが、夫ゼノルファイアのエスコートで立ち上がりながら、そう言い切る。その響きには、反論を許さない厳しさがあった。
「さ、エリー。お城までは、僕がエスコートだ」
「ふふ。よろしくお願いね。──ミレイは」
「すでに馬車にお乗せしております」
執事のセルクが静かに口を開く。エントランスホールへと赴けば、なるほどすでに馬車に乗っていた。
(ふぅん。ミレイの馬車だけ一頭曳きなのね)
公爵夫妻、公爵姉弟がそれぞれに乗る馬車は四人乗りの四頭曳き。それに続き、侍女が乗る馬車とミレイが乗る馬車はそれぞれ一頭曳きだ。四台の馬車が夫妻を先頭に駆ける時、それを見る人は最初の四頭曳きの二台が公爵家の者、その後ろはお付きの者と見るだろう。
城に着いた時の扱いにも差が出る上に、馬車で入れる場所にも違いが出てくる。
(この待遇が正妃陛下の、ひいては王家の判断だと理解できるかしら。できたら、こんなことにはならない、か)
馬車を用意するのは、招待状を出す側だ。つまり、この扱いは正妃の考えと言える。サノファの母親は側妃であり、正妃に意見することは無論できない。加えて、側妃もミレイに対しては、けして寛容ではなかった。
「いくら殿下でも、手も足も出ないとはこのことだろうね」
「二人の接触を絶たせていたのも、良かったわ。ミレイを勝手に連れ出して、突然エスコートなんてして登場されたら、さすがに困るし」
馬車の外の景色をぼんやりと眺めながら、エリアノアの瞳は曇る。到着したら、サノファにエスコートをされるのだ。
愛情がなくても、公務としてきちんと対応してもらえればそれで良い。
今まではそう思っていた。しかし、ミレイを前にしてサノファが本当にきちんと対応できるのか。
正妃がミレイを見てみたいという気持ちはわからなくもないが、なにも夜会でなくとも。エリアノアの憂鬱は深くなっていく。
(本当に、面倒ごとだけは避けたいのよ。諸々のケアをするのはこっちなんだから)
「君は何も悪いことをしていない」
「ホルトア?」
「エリーは気が強いし、お転婆だ」
「ちょっと……」
「でもね。それでもいささか真面目が過ぎるし、なんだかんだ優しいんだよ。悪いのはあっちなんだから、たっぷり掌で転がしてやるくらいの気持ちでいないと」
とても公爵家嫡男とは思えないような軽薄さでそう言う。それがホルトアの優しさだと知っているエリアノアは、彼の両手を掴んで笑った。
「そうね。あなたの言う通りだわ。せっかくだから、この夜会を楽しむことにする」
(ごめん、ホルトア。私、そんなに繊細じゃないのに、良い方に誤解してくれて。訂正しないけど)
自分の手を握ったエリアノアの手。ドレスと同じ淡い水色のシルクのロング手袋に包まれたその手は、当然だがホルトアのそれよりもずいぶんと小さい。
「エリー」
「……ええ」
「僕は──僕や父上、母上。それに使用人たちは、全員エリーの味方だからね」
エリアノアを抱き寄せ、背中をゆっくりとさする。通常であれば、けしてしないようなその所作が、彼女の心を柔らかくさせる。
(ホルトアは優しい。こんなに優しい弟がいるなんて、幸せねぇ私)
泣きそうな顔で笑うエリアノアに、ホルトアは歌うように話しかける。
「かわいいエリー。大丈夫。いつでも僕らがついてるよ」
それは、幼い頃に夜眠れない時、ホルトアが口にしてくれた言葉。同じようにホルトアが眠れない時は、エリアノアが口にした。
姉弟二人の、二人だけの魔法の言葉。その言葉に、エリアノアは元気が出た、そんな気がした。
「ありがとう。ファトゥール公爵家の名を汚さぬよう、楽しんでくるわ」
エリアノアが笑顔を再び見せると、馬車はゆっくりとその歩みを止める。
「さぁ! 私の気持ちはしっかりと戦いに向かったわ」
彼女の言葉に、ホルトアは満面の笑みを浮かべた。
*
久しぶりに顔を合わせたサノファは、落ち着きがなかった。順番に名前を呼ばれ広間に入っていく時にも、周囲を見回してばかりだ。
(大方、ミレイを探しているのでしょうね)
隣に婚約者がいる時くらいは、それなりに体面を保って欲しい。そう願うのは、大した望みではない筈なのに。エリアノアは、情けなさと呆れた気持ちを行ったり来たりさせながら、サノファの腕をひいた。
「殿下。ファトゥール公爵夫妻が入場しました。次は私たちです。しっかりなさってください」
「わかっている。いちいちうるさい女だな」
「……お言葉遣い、お気をつけくださいませ」
「──すまなかった」
思っていても良いが、口には出すな。出すならば、もう少し上品に言い回せ。
暗にそれを含ませ伝えれば、さすがのサノファも反省をしたようで、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「サノファ・トゥーリ・カイザラント第一王子殿下、並びにご婚約者ファトゥール公爵令嬢メイアルン子爵エリアノア・クルム・ファトゥール様ご入場」
広間に響き渡る声に、大きな歓声があがる。すでにワルツがかかっていた。踊るような足取りで中に入り、そのまま踊りの輪の中に入っていく。
その直ぐ後に、ミレイが一人名を呼ばれ広間に入ってくるところが見えた。サノファの瞳がそちらをちらりと見る。
「殿下。今はこちらに」
「──エリアノア。君はどうして私と婚約をしているんだ」
踊りながら、サノファが口を開いた。エリアノアは目を瞠る。今更何を言っているのだろうか。
「……おそれながら殿下。私と殿下の婚約の意味がわからないとは、仰いませんよね」
「わかっているさ。私をサポートするのに、エリアノアほど優秀な令嬢は他にいない」
「それを本気で仰っているのですか?」
(いやだ。まるでわかっていないじゃない)
「政略結婚だ。私が王になるには、君という能力が必要だとは判っている。それにイルダ」
「イルダ様? あの方がどうされましたか?」
あまりにも突拍子もないことを言い出したサノファに、エリアノアは怪訝な表情を隠すことを忘れそうになる。
サノファの側近であるイルダ・ロンガ・ゼトファは、ゼトファ侯爵の嫡男だ。ゼトファ侯爵家は、第一王子派であることは有名で、娘がいなかったことを悔やむ言葉を聞いたという話も、噂として出るくらいだった。
「イルダがいれば、私は安心できる」
「まぁ。それは良い側近を得ましたね」
(グリニータ伯爵家の茶会についての手紙を渡したのは、イルダ様よね。そして、その手紙は強い芳香がしていた。グリニータ伯爵と殿下は、今まで接点がないはず。なのに、イルダ様が接点のない人間からの手紙を、そのまま渡すなんてことはありえない……)
イルダという名を聞き、先日のミレイの話を思い出す。この状況下で、エリアノアがこの第一王子の手を取り続けることが、果たして正しいことなのか。ことはミレイとの恋物語などという問題以上になっていた。
「エリアノア? どうした。お前がぼんやりするなど珍しいな」
「失礼しました。少し考え事をしてしまいまして」
「良い。休憩していろ。私は他の者と踊ってくる」
エリアノアを椅子に座らせると、まるで飛んでいるかのような足取りで、サノファはその場を去っていった。いつもは少なくとも用意させる飲み物すら、指示を出すのを忘れている。
(しまった……! ミレイに声をかけに行くきっかけを、作ってしまった)
だが、夜会だ。誰も彼もが様々な人と踊る。むしろエリアノア自らが多くの人間と踊ることで、サノファの動きを目立たなくさせれば良いのだと、考え直した。
「お久しぶりです。メイアルン卿」
かけられた声に振り向くと、以前踊った仮面の紳士が礼を取っている。
「まぁ、息災でしたか?」
「はい。我らが女神カイアルファトゥール様の思し召しに於いて。──踊っていただけませんか?」
「ぜひお願いしたいわ」
広間には明るい曲調の音楽が流れていた。
それに合わせ、仮面の紳士のリードで二人が踊っていく。
「あなたとは、まだ二度しかお会いしていないのに、何故だかずっと以前から知り合っているような気がしますわ」
「それは光栄です、卿。私もあなたと踊るのが楽しくて仕方がない」
「私もだわ。まるでこの曲のような気持ちです」
エリアノアが踊るたびに、ドレスの裾がふわりふわりと揺れる。まるで彼女の心が浮かれるように、軽く、明るく、リズミカルに。
周囲を踊る貴族たちも、二人の美しい動きに目を奪われ、口々に「素敵だわ」「妖精のパーティのようだ」などと絶賛した。
(この方の瞳を見ていると、胸が高まってしまう。こんなにもドキドキするなんて、私はなんて失礼なことを)
エリアノアも馬鹿ではない。ここまで高まる気持ちに気付けば、それが何を意味するのかは判っている。
(サノファ殿下に嫁ぐと決めた時。もう他の人に恋をしないと決めたのに)
仮面の下に見える美しいライトグレーの瞳を見ながら、エリアノアの心はゆっくりと過去に引き寄せられていった。