2章5話 不思議な現象
神殿の中庭に戻ったケペトは、まだ少しぼんやりしていた。ラー神殿での出来事があまりにも鮮明で、現実に戻ってきた実感がなかなか湧かない。
「あれ、ケペト?どこにおったん?」
アケトの声で我に返った。振り返ると、心配そうな表情で立っている。
「あ、アケトさん!えっと…お昼休みに中庭でちょっと休んでました」
「そうか。なんやぼーっとしてるなあと思って。まあ、今日は暑いからな」
実際、太陽の日差しは強かったが、ケペトには心地よく感じられた。きっとラー様の優しい光が、自分を包んでくれているからだろう。
「そうそう、午後の予定、覚えてる?」
「あ、子どもたちに歌を教える約束でしたね!」
「そうそう。もう時間やで。みんな楽しみに待ってるから」
ケペトは急いで身支度を整えた。街の子どもたちとの時間は、いつも楽しみにしている大切な活動の一つだった。
街の広場での子どもたち
テーベの街の中央広場には、既に10人ほどの子どもたちが集まっていた。年齢は5歳から12歳くらいまでで、みんなケペトを見つけると嬉しそうに手を振ってくれる。
「ケペトお姉ちゃん!」
「待ってたよ〜♪」
「今日はどんな歌を教えてくれるの?」
子どもたちの無邪気な笑顔に、ケペトの心も自然と明るくなった。
「みんな、こんにちは♪ 今日もみんなで楽しく歌いましょうね」
「はーい!」
元気な返事が広場に響く。昨日会ったリナも、お友達と一緒に前の方に座っている。
「今日は、みんなで『太陽の歌』を歌ってみましょう」
ケペトがそう提案すると、子どもたちは「わあ〜♪」と歓声を上げた。
「♪お日様ありがとう、今日も明るく照らしてくれて♪」
ケペトが歌い始めると、子どもたちも一緒に歌い始めた。でも今日の歌声は、いつもより特別に美しく感じられる。
不思議な現象の始まり
歌を歌っていると、不思議なことが起こり始めた。
広場に植えられた花々が、歌声に合わせてより鮮やかに咲き始めたのだ。そして、空を飛んでいた小鳥たちも、一緒に歌うように鳴き始めた。
「あれ?お花がキラキラしてる」
一人の子どもが気づいて指差した。
「本当だ!すごくきれい♪」
「小鳥さんたちも歌ってる〜」
子どもたちは大興奮だった。でも、怖がる様子はまったくない。むしろ、とても楽しそうだった。
ケペトは左手首がほんのり温かくなっているのを感じていた。きっとラー様の教えてくれた「心の光」が、歌を通じて現れているのだろう。
「みんな、もっと楽しく歌いましょう♪」
「はーい!」
子どもたちの歌声がさらに元気になると、広場全体が明るい光に包まれた。それは眩しすぎない、とても優しい光だった。
街の人々の反応
広場での歌声と不思議な現象は、周りの街の人々の注目も集めていた。
「あら、今日の子どもたちの歌、いつもより素敵ね」
「お花もきれいに咲いてるし、なんだか幸せな気分になるわ」
「ケペトちゃんがいると、いつもこうなのよね」
大人たちも自然と足を止めて、微笑ましそうに見守っている。中には一緒に口ずさんでいる人もいた。
パン屋のおじさんも、焼きたてのパンを抱えながら立ち止まっていた。
「今日のパンも、いつもより美味しく焼けたんだよな。きっとこの歌声のおかげかもしれないな」
花屋のおばさんも、腰に手を当てながら嬉しそうに見ている。
「あの子がいると、お花たちも喜ぶのよね。本当に不思議な子だわ」
街の人々の温かい視線に包まれて、ケペトは改めて自分の故郷への愛情を感じていた。
特別なお客様の登場
歌の練習が終わり、子どもたちが楽しそうにおしゃべりしている時、広場に馬の蹄の音が響いてきた。
振り返ると、立派な白い馬に乗った騎士の姿があった。茶色の短髪、深い青色の瞳…アケムだった。
「あ…」
ケペトの頬が自然と赤くなる。
「ケペトさん!」
アケムも嬉しそうに手を振って、馬から降りてきた。
「アケムさん、こんにちは♪」
「こんにちは。素晴らしい歌声が聞こえてきたので、つい足を止めてしまいました」
「えへへ、子どもたちがとても上手なんです♪」
子どもたちも、格好いい騎士の登場に興味津々だった。
「わあ、騎士さんだ!」
「かっこいい〜♪」
「お馬さんも大きいね!」
アケムは子どもたちに優しく微笑みかけた。
「こんにちは、みんな。とても上手な歌声でしたね」
「ありがとう♪」
子どもたちは嬉しそうに答えた。
アケムとの会話
「少しお時間はありますか?」
アケムがケペトに尋ねた。
「はい、大丈夫です♪」
子どもたちには「また今度ね」と手を振って、ケペトはアケムと一緒に広場の端の方に移動した。
「今日は王宮のお仕事ですか?」
「ええ、街の見回りをしていたんです。でも、こんな素敵な場面に出会えて、とても幸せです」
アケムの言葉に、ケペトの胸がドキドキした。
「そんな…私たちはいつものことをしているだけですから」
「いえ、いつものことだからこそ素晴らしいんです。ケペトさんがいることで、街の人々がこんなに明るくなっている」
「そう…でしょうか?」
「ええ。僕も、ケペトさんにお会いしてから、毎日がより楽しく感じられます」
アケムの真剣な眼差しに、ケペトは顔が真っ赤になってしまった。
「あ、あの…」
突然の異変
その時、急に空が曇り始めた。さっきまで明るく輝いていた太陽が、雲に隠れてしまったのだ。
「あれ?」
ケペトが空を見上げると、左手首の痣が急に熱くなった。
「ちょっと待って!」
美しい女性の声が空から響いてきた。雲の間から現れたのは、虹色の髪を持つ華やかな女神だった。
「あの…あなたたち、とっても素敵な歌声ね♪ 私も一緒に歌いたくなっちゃった♪」
その女神は、音楽の女神ハトホルだった。でも、人間のアケムにも見えているようだった。
「え…神様?」
アケムが驚いて呟いた。
「あら、この騎士さんにも見えてるのね♪ ということは…」
ハトホルがケペトを見つめた。
「あなたがケペトちゃんね!ラーから聞いてるわよ♪」
ハトホルの登場と混乱
「ハトホル様…!」
ケペトは慌ててお辞儀をしようとしたが、ハトホルは空中からひらりと舞い降りて、ケペトの手を取った。
「堅苦しいのは嫌よ♪ 私たち、お友達になりましょう♪」
ハトホルの明るいエネルギーに圧倒されながらも、ケペトは嬉しくなった。
「でも、アケムさんにも見えてしまって…」
「大丈夫よ♪ この騎士さん、とっても心の優しい人みたいだし、きっと秘密を守ってくれるわ」
ハトホルがアケムの方を向いた。
「そうよね?騎士さん♪」
「あ、はい…その、状況がよくわからないのですが、ケペトさんに関することでしたら、もちろん秘密を守ります」
アケムの誠実な答えに、ハトホルは満足そうに頷いた。
「やっぱり♪ いい男性ね〜。ケペトちゃんも幸せね♪」
「は、ハトホル様!」
ケペトの顔が真っ赤になってしまった。
音楽の力の実演
「それじゃあ、せっかくだから私の力も見せてあげる♪」
ハトホルが手を広げると、どこからともなく美しい音楽が流れ始めた。それは楽器の音ではなく、まるで空気そのものが歌っているような、不思議な音楽だった。
「わあ…」
広場にいた人々が、みんな音楽に引き寄せられて集まってきた。子どもたちも、大人たちも、みんな自然と笑顔になっている。
「これが音楽の力よ♪ 人の心を繋げて、幸せにするの」
「すごいです…」
ケペトは感動していた。これこそ、ラー様が言っていた「神々の個性的な力」なのだろう。
「でもね、私一人だと、時々音楽が大きすぎちゃうの。静かに過ごしたい人もいるのに、つい盛り上げちゃって」
ハトホルが少し困ったような表情を見せた。
「みんなを楽しませたいって思うんだけど、時々やりすぎちゃうのよね」
ケペトの自然な調和
「でも、ハトホル様の音楽、とても素敵ですよ♪」
ケペトがそう言うと、左手首の痣が温かくなった。
「みんなが笑顔になってるし、心が軽やかになります。ただ、もう少し優しい音楽だったら、もっといろんな人が楽しめるかもしれませんね」
「優しい音楽?」
「はい。子どもたちが遊びながら聞ける音楽とか、お年寄りの方がゆっくり散歩しながら聞ける音楽とか」
ケペトの提案を聞いて、ハトホルの目がキラキラと輝いた。
「それよ!そういうのが知りたかったの♪」
「一緒にやってみませんか?私の歌と、ハトホル様の音楽を合わせて」
「ぜひ♪」
二人が手を繋ぐと、美しいハーモニーが生まれた。ケペトの優しい歌声と、ハトホルの心地よい音楽が合わさって、広場全体が温かい雰囲気に包まれた。
アケムの理解と決意
音楽が静まると、アケムがケペトに近づいてきた。
「ケペトさん、あなたは本当にすごい方なんですね」
「そんなこと…」
「いえ、僕にもわかります。あなたには、人々を幸せにする特別な力がある」
アケムの真剣な表情に、ケペトは驚いた。
「でも、神様のことは…」
「秘密を守ることはもちろんです。そして、もし何かお手伝いできることがあれば、ぜひ協力させてください」
「アケムさん…」
「僕も、この街の人々を守りたいと思っています。ケペトさんと同じ気持ちです」
アケムの言葉に、ケペトの心が温かくなった。
ハトホルの恋愛アドバイス
「あらあら〜♪ 素敵な展開ね〜♪」
ハトホルがにやにやしながら二人を見ている。
「この騎士さん、本当にいい人ね♪ ケペトちゃん、大切にしなさいよ」
「ハトホル様…!」
「恋愛は最高の音楽よ♪ 心がときめいて、世界が美しく見えて、毎日が楽しくなるの」
ハトホルの恋愛論に、ケペトとアケムは顔を赤くしてしまった。
「まだそんな関係じゃ…」
「そうそう、これからよ♪ でも、お互いに想い合ってるのは明らかね」
「え?」
「だって、見てるだけでわかるもの♪ 愛の歌が聞こえてくるわ」
ハトホルの言葉に、二人はますます照れてしまった。
新しい約束
「それじゃあ、そろそろ私は帰るわね♪」
ハトホルが空に向かって手を広げた。
「でも、今度はちゃんとした音楽のお稽古をしましょう♪ ケペトちゃんの歌声、本当に素敵だったから」
「ありがとうございます♪ 楽しみにしています」
「アケムさんも、またお会いしましょうね♪ ケペトちゃんを大切にするのよ」
「は、はい…よろしくお願いします」
ハトホルは虹色の光に包まれて、空へと舞い上がっていった。
「楽しかった〜♪ また今度〜♪」
夕方の穏やかな時間
ハトホルが去った後、広場は穏やかな夕方の雰囲気に包まれた。
「今日は…不思議な一日でしたね」
アケムが呟いた。
「はい。でも、とても素敵な一日でした♪」
「僕も同感です。ケペトさんと過ごす時間は、いつも特別です」
夕日が二人を優しく照らしている。きっとラー様も、温かく見守ってくれているのだろう。
「アケムさん、今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ。また、お時間があるときに、お話しできれば嬉しいです」
「はい♪ 私も、とても楽しみにしています」
二人の自然な約束に、夕風がそっと祝福するように吹いていた。