10章30話 神殿の混乱
ケペトがいなくなって三日が過ぎた。神殿では、今まで経験したことのない混乱が起きていた。
「また喧嘩してる…」
イシスが疲れた表情で呟いた。
セトとアポピスが些細なことで口論を始めていた。料理の味付けを巡って、いつもなら笑い話になるようなことが、なぜか深刻な対立に発展してしまう。
「俺の方が正しいんだ!」
セトが怒鳴った。
「いえ、論理的に考えれば私の方が…」
アポピスが反論した。
「二人とも、落ち着いて」
ラーが仲裁に入ろうとしたが、彼女自身もイライラしていて、うまくいかない。
ハトホルとネフティスも、音楽の理論について意見が分かれ、気まずい雰囲気が続いていた。
「ケペトがいないと、こんなにも…」
イシスが悲しそうにつぶやいた。
「私たちは一体、何をしていたんだろう」
ホシが静かに言った。
アケムの気づき
一方、王宮ではアケムが一人で考え込んでいた。ケペトの手紙を何度も読み返しながら、自分の気持ちと向き合っていた。
「僕がケペトを好きになったのは、本当に自然なことだったのか?」
最初に出会った時の記憶を辿ってみる。確かにケペトは美しく、優しく、魅力的だった。でも、その時に感じた「特別な感じ」は何だったのだろう?
アケムは王宮の庭を歩きながら、ケペトがいない今の自分の気持ちを確かめてみた。
胸の奥に、確かに彼女への想いがある。心配で、恋しくて、一刻も早く会いたい。でも、それは依存ではなく、純粋な愛情のように感じられた。
「僕は本当に彼女を愛している」
アケムは確信した。力による影響があったとしても、今の気持ちは本物だ。
「ケペト、君にそれを伝えたい」
愛の精霊の発見
古い神殿で、愛の精霊はケペトの側にいた。ケペトが力を封印してからというもの、愛の精霊も自分の本当の気持ちと向き合うことができるようになっていた。
「ケペト様、私はやっぱりあなたのことが大切です」
「愛ちゃん…」
「最初は、あなたの力から生まれたのかもしれません。でも、今の私の気持ちは本物です」
愛の精霊の光が、今までよりも温かく、安定して輝いていた。
「あなたが悲しんでいると、私も悲しい。あなたが幸せだと、私も嬉しい。それは力による影響じゃなくて、友情です」
ケペトの目に涙が浮かんだ。
「ありがとう、愛ちゃん」
「でも、ケペト様には知ってほしいことがあります」
愛の精霊は少し真剣な表情になった。
「神殿のみんな、本当に困ってるんです。喧嘩ばかりして、誰も笑わなくて…」
「それは、私の力がなくなったから…」
「違います」
愛の精霊がきっぱりと言った。
「あなたの力がなくなったから喧嘩をしているんじゃありません。あなたがいないから寂しくて、不安で、それで些細なことでぶつかってしまうんです」
ケペトは愛の精霊の言葉に驚いた。
「それって…」
「みんな、本当にあなたのことを大切に思ってるんです。力による影響じゃなくて、本当に」
神殿での話し合い
その頃神殿では、神々たちが集まって話し合いをしていた。ケペトがいなくなってから、初めて全員が冷静に話し合うことができていた。
「私たちは、ケペト様に甘えすぎていたのかもしれないな」
セトが反省した。
「確かに」
イシスが頷いた。
「何でもケペト様に頼って、自分たちで解決しようとしなかった」
「でも」
ハトホルが言った。
「ケペト様がいない今、私たちの気持ちがはっきりした。本当に大切な人だったんだって」
「力による影響があったとしても」
ネフティスが静かに言った。
「今の私たちの気持ちは本物よ。ケペト様への感謝も、友情も」
ラーが威厳ある声で言った。
「我々は、ケペト様に真実を伝える必要がある。彼女の力がどうであれ、我々の心は本物だということを」
「そうですね」
ホシが頷いた。
「ケペト様は、自分の力を恐れている。でも、愛の力があっても、それを使う心が美しければ、それは真の愛なんです」
「みんなで迎えに行こう」
イシスが提案した。
「そして、私たちの本当の気持ちを伝えよう」
古い神殿での再会
夕方、古い神殿にアケムと神々たちがやって来た。ケペトは一人で中庭に座り、夕日を見つめていた。
「ケペト」
アケムの声に、ケペトは振り返った。そこには、心配そうな表情の神々たちと、決意を秘めた瞳のアケムがいた。
「みんな…どうして?」
「君を迎えに来たんだ」
アケムが歩み寄った。
「僕たちの本当の気持ちを伝えるために」
ケペトは立ち上がった。
「でも、私の力が…」
「君の力がどうであれ」
アケムがケペトの手を取った。
「僕の君への愛は本物だ。それは、君がいなくなった今、よく分かった」
セトが前に出た。
「俺たちも同じだ。確かに最初は君の力に助けられたかもしれない。でも、今の俺たちの友情は本物だ」
「喧嘩もしたし、困ったこともあった」
ハトホルが続けた。
「でも、それでもあなたが恋しかった。それが答えよ」
イシスが優しく微笑んだ。
「ケペト様、愛の力があることは罪ではありません。その力をどう使うかが大切なんです」
ネフティスが頷いた。
「あなたは誰かを支配しようとしたことなどない。いつも相手の幸せを願ってきた。それこそが真の愛よ」
ラーが威厳ある声で言った。
「愛の調停者よ。汝の力を恐れることはない。その心が純粋である限り、その力は祝福なのだ」
真実の理解
ケペトは神々たちの言葉を聞いて、涙を流した。
「でも、私がいると、みんなの本当の気持ちが分からなくなって…」
「それは違うよ」
愛の精霊が光りながら言った。
「私たちの気持ちを引き出してくれるのがあなたの力なの。作り出すんじゃなくて、引き出すの」
「引き出す?」
ホシが説明した。
「星座料理も同じです。材料の良さを引き出すんです。材料を変えるわけじゃない」
アポピスが静かに言った。
「私も最初は敵でした。でも、あなたの力は私の中にあった『愛されたい』という気持ちを引き出してくれただけです。作ったわけではありません」
ケペトは目を見開いた。
「引き出す…」
「そうよ」
イシスが頷いた。
「人の心の奥にある愛を引き出すのが、あなたの力なの。だから、愛がない人には効果がないはず」
「本当?」
「本当だ」
アケムが確信を持って言った。
「僕が君を愛するのは、君の力が僕の中にあった愛を引き出してくれたから。でも、その愛の種は最初から僕の中にあったんだ」
新しい理解
ケペトは神々たちとアケムの言葉を聞いて、自分の力について新しい理解を得た。
「私の力は…支配じゃなくて、解放なのね」
「そうです」
愛の精霊が嬉しそうに光った。
「みんなの心を自由にする力なんです」
ケペトは空を見上げた。夕日が美しく輝いている。
「でも、これからは気をつけるわ。みんなが自分の意志で選択できるように」
「それは大切なことですね」
ラーが頷いた。
「しかし、汝自身を責める必要はない」
「私たちも」
セトが言った。
「もっと自立しなきゃいけないな。ケペトに頼りっぱなしじゃダメだ」
「そうね」
ハトホルが明るく言った。
「私たちも成長しましょう」
帰り道
夜になって、一行は神殿への帰り道を歩いていた。ケペトの表情は、もう不安に歪んではいなかった。
「アケム」
ケペトが恋しそうに名前を呼んだ。
「何?」
「あなたの愛が本物だって分かって、とても嬉しい」
「僕もだ」
アケムがケペトの手をそっと握った。
「君がいない間、本当に寂しかった」
「これからは、もっと対等な関係でいましょうね」
「もちろん」
愛の精霊がくるくると回りながら言った。
「みんなの愛が本物で、私とても嬉しいです!」
「愛ちゃんも、自分の気持ちを大切にしてね」
「はい!」
神殿での新しい始まり
神殿に戻ると、中央広場には温かい明かりが灯っていた。でも、以前とは少し違う雰囲気があった。
「お帰りなさい、ケペト様」
アケトが嬉しそうに迎えた。
「ただいま、アケト」
「みんな、ケペト様を待っていたんです。でも、甘えるだけじゃなく、自分たちでできることは自分たちでやろうって話し合ってました」
ケペトは微笑んだ。
「それは素敵ね」
神殿の仲間たちが集まってきた。でも、以前のように全てをケペトに委ねるのではなく、それぞれが自分の意見を持ち、自分の気持ちを大切にしている様子が見て取れた。
「これからは」
ケペトが言った。
「みんなで一緒に、より良い調和を作っていきましょう」
「はい!」
みんなが元気よく答えた。
新しい関係
その夜、ケペトとアケムは神殿の庭園で二人きりで話していた。
「ケペト、僕たちのこれからについて話そう」
「うん」
「僕は君を愛してる。でも、君の力に頼るんじゃなく、僕自身の力で君を幸せにしたい」
ケペトの頬が赤らんだ。
「私も、あなたを愛してる。本当に」
「それなら」
アケムが真剣な表情になった。
「僕たちの将来について、真剣に考えてみない?」
「将来?」
「結婚のこと」
ケペトの心が高鳴った。でも、今度は不安ではなく、純粋な喜びで。
「私も、それを考えてたの」
「本当に?」
「うん。でも、今度は私の力じゃなく、私たち二人の気持ちで決めましょう」
アケムが微笑んだ。
「もちろん」
二人は手を取り合い、星空を見上げた。これからの人生を、お互いの本当の愛で築いていこうという、新しい決意を胸に。
愛の新しい形
翌朝、神殿にはいつもの平和が戻っていた。でも、それは以前の「問題のない平和」ではなく、「問題があっても乗り越えられる平和」だった。
セトとアポピスは料理について議論していたが、今度は建設的な話し合いになっていた。
ハトホルとネフティスは音楽について意見を交わしていたが、お互いの違いを尊重していた。
「これが本当の調和なのね」
ケペトが愛の精霊に言った。
「はい!みんなが自分らしくいながら、お互いを大切にする。それが一番美しい愛ですね」
ケペトは微笑んだ。自分の力を恐れることはもうない。その力が愛から生まれ、愛のために使われるものだと分かったから。
「愛の調停者として、これからも頑張るわ」
「はい!私も一緒に頑張ります!」
神殿に響く笑い声は、以前よりもずっと自然で、ずっと温かかった。本当の愛に支えられた、新しい日々の始まりだった。




