10章29話 力の暴走
翌日の朝、ケペトの不安は頂点に達していた。昨夜もほとんど眠れず、心の中の疑問は大きくなるばかり。鏡を見ると、目の下にうっすらと隈ができている。
「ケペト様…」
愛の精霊が心配そうに声をかけた。
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫よ」
ケペトは作り笑顔を見せたが、その瞬間、何かが起こった。
愛の精霊の表情が一瞬で明るくなり、
「はい!ケペト様が大丈夫なら私も安心です!」
と無邪気に答えた。
ケペトは背筋が凍った。今の愛の精霊の反応は、明らかに不自然だった。まるで、自分の「大丈夫」という言葉に強制的に納得させられたような…
「私の力が…」
ケペトは震え声でつぶやいた。無意識のうちに、愛の力が暴走している。
朝食での異変
食堂に向かうケペトの足取りは重かった。自分の力が制御できていないことへの恐怖で、手も震えている。
「おはよう、ケペト!」
ハトホルが明るく挨拶した。
でも、その明るさは昨日の沈んだ雰囲気から考えると、あまりにも極端だった。
「お、おはようございます」
ケペトが返事をした瞬間、食堂にいた全員の表情がさらに明るくなった。まるで、ケペトの挨拶に合わせて感情を調整されたかのように。
「今日はとても良い天気ですね!」
イシスが嬉しそうに言った。
「本当だ!こんなに気持ちの良い朝は久しぶりだな」
セトが同調した。
「みんなとても元気ですね」
ネフティスも微笑んだが、その笑顔はどこか作り物めいて見えた。
ケペトは恐怖を感じた。みんなの反応が、自分の感情に無理やり合わせられているようだった。これは愛ではない。これは…
「支配だ」
小さくつぶやいたその言葉を、誰も聞いていなかった。いや、聞こえていても、ケペトの力によって気にしないようにされているのかもしれない。
アケムとの再会
午後、アケムが神殿を訪れた。いつものように優しい笑顔で、ケペトを見つめている。
「こんにちは、ケペト。今日は調子はどう?」
「あ、アケム…」
ケペトはアケムの顔を見つめた。
その瞬間、彼の表情が微妙に変化したのを見逃さなかった。まるで、ケペトを見た瞬間に「幸せな気持ち」にスイッチが入ったかのように。
「大丈夫?顔色が悪いみたいだけど」
アケムが心配そうに近づいた。
「アケム、少し聞きたいことがあるの」
ケペトは震え声で言った。
「あなたが私を好きになったのは、いつ頃からか覚えてる?」
「えっ?」
アケムは困惑した。
「突然どうしたの?もちろん覚えてるよ。最初に神殿でぶつかった時から、何か特別な感じがして…」
「その『特別な感じ』って、どんな感じ?」
アケムは少し考え込んだ。
「うーん、上手く説明できないけど、君といると心が安らぐというか、自然に笑顔になれるというか…」
ケペトの心は沈んだ。その描写は、まさに愛の力の影響そのものだった。
「もし私がいなくなったら、あなたはどう思う?」
「ケペト、なんでそんなことを…」
アケムが慌てた。
「君がいなくなるなんて考えたくもないよ」
でも、ケペトには分かってしまった。アケムのその反応も、愛の力によって誘導されたものかもしれない。彼の本当の気持ちは、一体どこにあるのだろう?
制御不能の兆し
夕方、神殿の庭園でケペトは一人で座っていた。心の中の不安と恐怖が、どんどん大きくなっている。
「ケペト様」
ホシが現れた。彼の表情は心配そうだが、どこか不自然な明るさがある。
「大丈夫ですか?何かお困りのことでもあれば、お手伝いします」
「ホシ、正直に答えて」
ケペトは真剣な表情で尋ねた。
「あなたが私と友達でいるのは、本当に自分の意志?」
「えっ?」
ホシは戸惑った。
「当然です。ケペト様は大切な友人ですから」
「でも、もし私がいなかったら?」
「そんな仮定は意味がありません」
ホシがきっぱりと答えた。
「ケペト様がいるからこそ、この神殿は調和に満ちているんです」
その答えを聞いて、ケペトは確信した。ホシの反応も、自分の力によって歪められている。本当の彼なら、もっと複雑な答えをするはずだ。
「私は…私は何をしているの…」
ケペトの目から涙がこぼれた。その瞬間、庭園の花々が一斉に美しく咲き誇った。まるで、ケペトの涙に反応したかのように。
ホシは慌ててケペトの側に駆け寄り、「大丈夫です、何があっても私たちがいますから」と慰めた。しかし、その慰めの言葉すらも、ケペトには作り物に聞こえた。
神々たちの反応
夕食の時間、ケペトの異変に神々たちも気づき始めていた。しかし、彼らの反応は一様に「ケペトを慰める」方向に向かっていた。
「ケペト、最近元気がないようだが、何か悩みでもあるのか?」
ラーが威厳ある声で尋ねた。
「何でも相談してください」
イシスが優しく微笑んだ。
「そうよ、私たちは家族でしょう?」
ハトホルが明るく言った。
しかし、ケペトにはそれらの言葉が全て「プログラムされた反応」のように聞こえた。本当に心配してくれているのか、それとも愛の力によって心配するように仕向けられているのか、もう分からない。
「みんな…」
ケペトは震え声で言った。
「もし私がいなくなったら、あなたたちはどうする?」
沈黙が食堂を包んだ。神々たちは顔を見合わせた。
「そんなことは考えたくもない」
セトが答えた。
「ケペト様がいないなんて、この神殿は成り立ちません」
アポピスが続けた。
「私たちにとって、あなたは不可欠な存在です」
ネフティスが静かに言った。
その答えを聞いて、ケペトは立ち上がった。
「そう…私は不可欠…」
ケペトの表情は、悲しみと恐怖で歪んでいた。
「でも、それは愛じゃない。それは依存よ」
愛の精霊の困惑
その夜、ケペトの部屋で愛の精霊が困惑していた。ケペトの感情の変化に合わせて、自分の存在も不安定になっているのを感じていた。
「ケペト様、一体何が起こっているのですか?」
「愛ちゃん、あなたは本当に私のことを思ってくれているの?それとも、私の力によって作られた感情なの?」
愛の精霊は答えに詰まった。自分の感情が本物なのか、それとも人工的なものなのか、急に分からなくなったからだ。
「私は…私は…」
愛の精霊の光が不安定に揺らめいた。ケペトの疑問は、彼女の存在の根幹を揺るがしていた。
「やっぱり」
ケペトが悲しそうにつぶやいた。
「あなたも私の力の産物なのね」
「そんなことは…」
愛の精霊が否定しようとしたが、自信がなかった。
距離を置く決意
深夜、ケペトは重大な決意を固めていた。窓から見える星空は美しいが、その美しさも今は虚しく感じられる。
「このままじゃいけない」
ケペトは静かにつぶやいた。
「みんなが本当の自分でいられるように、私は距離を置かなければならない」
愛の精霊が不安そうに光った。
「ケペト様、それは危険です。あなたがいなくなったら…」
「それでこそ、真実が分かるの」
ケペトは決然と言った。
「私がいない時のみんなが、本当のみんななのよ」
「でも…」
「愛ちゃん、もしあなたの気持ちが本物なら、私がいなくても変わらないはずよね?」
愛の精霊は答えられなかった。ケペトの問いかけは、あまりにも的確で、反論の余地がなかった。
その時だった。
王宮の外れにある古い神殿で一人考えていたケペトの前に、時空がゆるやかに歪み、長い髭を持つ威厳ある神が現れた。
「悩み深き愛の調停者よ」
クロノスが静かに語りかけた。
「クロノス様…」
ケペトが驚いて振り返った。
「どうしてここに?」
「君の心の叫びが、時の流れを通じて私に届いた」
クロノスは穏やかな表情で、ケペトの隣に座った。
「私は長い時を見てきた。愛について悩む者を、数え切れないほど見てきたのだ」
「愛について悩む…」
「そうだ。君が今感じている疑問は、真に愛する者なら誰もが通る道だ」
クロノスの瞳には、深い理解が宿っていた。
「でも、私の力は…みんなを操ってしまっているかもしれません」
「力があることが罪なのか?」
クロノスが優しく問うた。
「私も時を操る力を持つ。しかし、その力で愛する者を失った時、君と同じことを考えた」
ケペトは顔を上げた。
「同じこと?」
「『この力さえなければ、もっと自然に愛せたのに』と」クロノスは遠い目をした。「クレイアを失った時、私は力を憎んだ。時間を止められるのに、彼女の命は救えなかった。時を巻き戻せるのに、彼女との別れは取り消せなかった」
「クロノス様…」
「しかし、長い時が教えてくれた。力は使う者の心を映すのだと」クロノスがケペトを見つめた。「君の力が人を幸せにするのは、君の心が愛に満ちているからだ。支配を望む者なら、支配の力となる。愛を望む者なら、愛の力となる」
「本当に…そうなのでしょうか?」
「君は誰かを支配しようとしたことがあるか?」
「いえ…」
「誰かを自分の思い通りにしようとしたことは?」
「それは…ありません」
「なら、君の力は愛の力だ」
クロノスが確信を持って言った。
「君が恐れているのは力の暴走ではない。愛の深さに責任を感じているのだ」
ケペトの目に涙が浮かんだ。
「でも、みんなの気持ちが本物かどうか…」
「時間をかけて見てみるがいい」
クロノスが微笑んだ。
「君がいない間の皆の反応を。それが君への真実の答えだ」
「時間が…答えを教えてくれるのですか?」
「ああ。愛は時の試練に耐えてこそ、真実と証明される。君への想いも、時間が経てば明らかになるだろう」
クロノスは立ち上がった。
「そして、君自身も時をかけて学ぶのだ。力を恐れるのではなく、どう使うかを」
「ありがとうございます、クロノス様」
「君の選択を見守ろう。時の神として、愛の成長を見届けるのは喜びだ」
クロノスの姿がゆっくりと消えていく。
朝の決断
翌朝、ケペトは早起きして荷物をまとめ始めた。クロノスの言葉に勇気をもらい、真実を確かめる決心を固めていた。多くは持たない。必要最小限のものだけ。
「ケペト様、本当に行ってしまうのですか?」
愛の精霊が悲しそうに尋ねた。
「しばらくの間だけよ」
ケペトは優しく答えた。
「みんなの本当の気持ちを確かめるために。クロノス様もおっしゃったように、時間が答えを教えてくれる」
「でも、どこに行くのですか?」
「王宮の外れにある古い神殿があるの。そこで一人で考えてみる」
ケペトは愛の精霊を見つめた。
「愛ちゃん、あなたも来る?それとも、ここに残る?」
愛の精霊は迷った。ケペトと一緒にいたい気持ちと、神殿の仲間たちを心配する気持ちが葛藤していた。
「私は…」
「無理しなくていいのよ。あなたが本当にしたいことをしなさい」
ケペトの言葉には、もう愛の力は込められていなかった。意識的に、力を抑制していたからだ。
愛の精霊は、初めて自分の純粋な気持ちと向き合った。
手紙
神殿を出る前に、ケペトは手紙を書いた。
『親愛なるみんなへ
しばらくの間、神殿を離れることにしました。 私がいない間、どうかいつも通りに過ごしてください。 私の愛の力に影響されることなく、本当の自分でいてください。
もし、私がいなくても皆さんが幸せでいられるなら、 それが私にとって一番嬉しいことです。
少し時間をください。 本当の愛とは何かを、もう一度考えてみたいのです。
愛を込めて ケペト』
手紙を書き終えると、ケペトは静かに神殿を後にした。朝靄の中を歩く後ろ姿は、小さくて心細げだったが、どこか決意に満ちていた。
神殿の朝
ケペトがいなくなった神殿では、いつもと違う朝が始まっていた。
「あれ?ケペトは?」
ハトホルが朝食の席で尋ねた。
イシスがケペトの手紙を見つけて、震え声で読み上げた。
「まさか…」
ラーが顔を青くした。
「私たちは一体…」
セトが呟いた。
神々たちは初めて、ケペトの愛の力がなければ自分たちがどうなるのかを知ることになった。そして、その現実は想像以上に厳しいものだった。
愛の精霊だけが、ケペトの後を追うように神殿から飛び立っていった。本当の気持ちに従って。
古い神殿で
王宮の外れにある古い神殿で、ケペトは一人で座っていた。愛の力を意識的に封印し、初めて「普通の人間」として過ごそうとしていた。
静寂が心地よくもあり、恐ろしくもあった。誰の感情も操作せず、誰にも影響を与えない。これが本当の自分なのだろうか?
「私は一体、何者なの?」
ケペトの問いかけが、古い神殿の中に響いた。
クロノスの言葉を思い出しながら、時間が教えてくれる答えを待とうと心に決めた。
真実を求める旅が今、始まったばかりだった。




