10章28話 愛の迷い
朝の光が神殿に差し込む中、ケペトはいつものように目を覚ました。でも今朝は何となく、胸の奥に小さなもやもやがある。
「おはようございます、ケペト様!」
愛の精霊が元気よく挨拶したが、いつもより少し控えめに見えた。
「おはよう、愛ちゃん」
ケペトは微笑んだが、その笑顔はどこか力がない。最近、こんな気持ちになることが多くなった。理由は分からないけれど、何かが足りないような、自分が浮いているような感覚。
中央広場に向かう途中、ハトホルとネフティスが話しているのが聞こえてきた。
「昨日の音楽理論の研究、とても興味深かったわ」
ネフティスが言っている。
「そうでしょう?音楽と数学の関係って、本当に奥が深いのよ」
ハトホルが嬉しそうに答えた。
二人とも、とても充実した表情をしている。ケペトが近づくと、振り返って微笑んだ。
「おはよう、ケペト」
ハトホルが手を振った。
「おはようございます」
「今日はイシス様と一緒に、新しい料理の実験をするの」
ネフティスが説明した。
「ヌビアの香辛料を使った甘いお菓子を作ってみようと思って」
「素敵ですね」
ケペトが答えたが、心の中では小さな疑問が浮かんだ。みんな、私がいなくても楽しそうに過ごしている。
自然な調和
朝食の時間、神殿の食堂にはいつものように温かい雰囲気が流れていた。セトとアポピスが料理について話し合い、ラーとイシスが今日の予定を相談している。
「今日は王宮からの依頼で、新しい騎士たちに訓練をすることになっている」
セトが説明した。
「それなら、治癒魔法の基礎も教えた方がいいでしょうね」
イシスが提案した。
「戦闘で怪我をした時の応急処置も大切ですから」
「私も参加しよう」
ラーが威厳ある声で言った。
「太陽の力を使った体力回復法を教えることができる」
「素晴らしいチームワークですね」
アポピスが感心した。
ケペトは黙って聞いていた。みんなが自然に役割分担をして、協力し合っている。とても美しい光景だが、その中に自分の居場所が見えない。
「ケペト様はどうなさいますか?」
ホシが尋ねた。
「え?あ、私は…」
ケペトは慌てた。
「特に予定はないので、神殿でお留守番をしていますね」
「そうですか」
ホシが少し心配そうな表情を見せた。
「何かお手伝いできることがあれば、いつでも言ってくださいね」
「ありがとう、ホシ」
でも、ケペトの心の中では、もやもやが大きくなっていた。お手伝い?私が誰かの手伝いをする立場なの?
一人の時間
神々たちがそれぞれの用事に出かけた後、神殿は静かになった。ケペトは一人で中庭を歩きながら、最近の日々を振り返っていた。
「ケペト様、大丈夫ですか?」
愛の精霊が心配そうに近づいてきた。
「大丈夫よ、愛ちゃん」
ケペトは微笑んだが、その笑顔は少し疲れて見えた。
「でも、最近元気がないみたいで…」
「そんなことないよ。みんなが幸せで、神殿も平和で、とてもいいことじゃない」
「確かにそうですけど…」
愛の精霊は言いかけて、やめた。
ケペトは愛の精霊の心配そうな表情に気づいたが、自分でも何が問題なのか分からなかった。客観的に見れば、すべてがうまくいっている。神々たちは仲良しで、街の人々も幸せそうで、何の問題もない。
でも、どうしてこんなに心がざわつくのだろう?
アケムとの会話
昼過ぎ、アケムが神殿を訪れた。いつものように優しい笑顔で、ケペトを見つめている。
「こんにちは、ケペト」
「アケム、お疲れ様です」
「今日は比較的早く仕事が終わったので、少しお話でもと思って」
二人は神殿の庭園を散歩しながら、他愛のない話をした。でも、ケペトの心は上の空だった。
「ケペト、何か心配事でもあるの?」
アケムが優しく尋ねた。
「いえ、そんなことは…」
「いつもより元気がないみたいだけど」
ケペトは立ち止まった。アケムの優しさが、なぜか今日は重く感じられる。
「アケム、私って…」
言いかけて、やめた。
「何?」
「いえ、何でもありません」
でも、心の中では疑問が渦巻いていた。アケムの優しさも、みんなの友情も、本当に自然なものなのだろうか?私の力が、知らず知らずのうちに影響を与えているのでは?
過去の記憶
夕方、ケペトは自分の部屋で一人考え込んでいた。神官になる前の記憶が、ぼんやりと蘇ってくる。
小さな村で生まれ育った頃。家族は優しかったけれど、村の人たちとはどこか距離があった。
「変わった子」「不思議な子」と言われることが多かった。
動物たちが自然に懐いてきたり、喧嘩をしている人たちが自分の前では仲直りしたり。当時はそれが自分の力だとは気づかなかった。
「もしかして、あの頃から…」
ケペトは手のひらを見つめた。この手に宿る愛の力。それは本当に愛なのだろうか?それとも、ただの魔法的な影響力なのだろうか?
コンコン、と扉をノックする音がした。
「ケペト様、お夕食の準備ができました」
イシスの声だった。
「はい、今行きます」
ケペトは立ち上がったが、足取りは重かった。
夕食での違和感
食堂では、いつものように賑やかな夕食が始まっていた。セトが今日の騎士訓練の話をして、みんなが楽しそうに聞いている。
「新人騎士の中に、なかなか見込みのある子がいてな」
セトが嬉しそうに話した。
「それは良かったですね」
イシスが微笑んだ。
「私の治癒魔法の指導も、思ったより効果的でした」
「ラー様の体力回復法も、みんな驚いていましたよ」
アポピスが付け加えた。
楽しい会話が続く中、ケペトだけが静かに食事をしていた。みんなの笑顔が、なぜか作り物のように見えてしまう。
「ケペト、今日は静かだね」
ハトホルが気づいた。
「あ、すみません。少し疲れていて」
「大丈夫?」
イシスが心配そうに見つめた。
「はい、大丈夫です」
でも、大丈夫ではなかった。みんなの優しさが、重荷に感じられてしまう。これは本当の優しさなのか、それとも自分の力による影響なのか、分からなくなってきた。
深夜の不安
その夜、ケペトは眠れずにいた。窓から見える星空は美しいが、心の闇は深くなるばかり。
「愛の調停者」
そう呼ばれることに、最初は誇りを感じていた。でも今は、その言葉が重い鎖のように感じられる。
みんなが自分の周りで幸せそうにしているのは、本当に自然なことなのだろうか?神々たちが仲良くしているのも、街の人たちが平和に暮らしているのも、すべて自分の力の影響なのではないだろうか?
「本当の愛って、何だろう…」
ケペトは天井を見つめながらつぶやいた。自分が与えている愛は、本物なのだろうか?相手の自由意志を奪ってしまってはいないだろうか?
そして、アケムのことを思うと、胸が苦しくなった。彼の愛情は本物なのだろうか?それとも、自分の力に魅せられているだけなのだろうか?
翌朝の決意
翌朝、ケペトは重い気持ちで目を覚ました。愛の精霊も、いつもより元気がない。
「ケペト様、昨夜はあまり眠れなかったみたいですね」
「ええ…少し考え事をしていて」
ケペトは窓の外を見つめた。いつものように美しい朝だが、心は晴れない。
「愛ちゃん、聞いてもいいかな?」
「はい、何でしょう?」
「私の力って、本当に愛の力なのかな?」
愛の精霊は困ったような表情を見せた。
「それは…どういう意味ですか?」
「みんなが幸せそうにしているのは、本当に自然なことなのかな?それとも、私の力で無理やり…」
「ケペト様!」
愛の精霊が慌てた。
「そんなことを考えてはいけません」
「でも、もし私がいなかったら、みんなはどうしているのだろう?本当の姿を見てみたい」
ケペトの表情には、今まで見たことのない深い悩みが刻まれていた。
神殿の変化
朝食の時間になっても、ケペトの気持ちは晴れなかった。いつものように神々たちが集まってきたが、今日は何かが違って見えた。
みんなの笑顔が、少し無理をしているように感じられる。会話も、どこかぎこちない。
「おはよう、ケペト」
ハトホルが声をかけたが、その声にはいつもの弾むような調子がない。
「おはようございます」
「今日は何をしようか?」
イシスが提案したが、その提案も心なしか機械的に聞こえる。
ケペトは気づいた。自分の気持ちが沈んでいると、周りのみんなも元気がなくなる。これは偶然なのだろうか?
「やっぱり…」
ケペトの心の中で、不安が確信に変わり始めていた。自分の感情が、周りの人たちに影響を与えている。これが愛の力の正体なのかもしれない。
愛の精霊だけが、ケペトの変化を心配そうに見つめていた。しかし、ケペト自身は、その心配さえも疑い始めていた。
これは本当に愛なのだろうか?それとも、ただの支配なのだろうか?
心の奥の声
食事の後、ケペトは一人で神殿の最上階に上がった。そこから見える景色は美しいが、今日は何も感じられない。
「私がいない方が、みんな自由になれるのかもしれない」
そんな考えが頭をよぎった。恐ろしい考えだが、一度浮かんでしまうと、消えることがない。
愛の調停者としての自分に誇りを持っていた。でも、その力が本当に愛なのか、それとも巧妙な支配なのか、分からなくなってしまった。
アケムとの関係も、神々たちとの友情も、すべてが疑わしく思えてくる。
「本当の愛を知るには…」
ケペトは空を見上げた。雲が風に流されて、どんどん形を変えていく。自分の心も、雲のように揺れ動いていた。
でも、一つだけ確かなことがあった。このままでは、真実を知ることができない。本当の愛とは何か、本当の関係とは何か、それを知るためには、何かを変える必要がある。
ケペトの心の中で、ある決意が固まり始めていた。危険かもしれないが、真実を知るためには、避けて通れない道があるような気がした。




