7章20話 失われた記憶の謎
パン屋での楽しい一日から三日後。神殿はいつものような平和な朝を迎えるはずだった。
「おはよう、ケペト」
イシスが朝食の準備をしながら声をかける。
「おはようございます。今日も良い天気ですね」
「そうね。洗濯物もよく乾きそうだわ」
「あ、それなら私も手伝います」
そんな何気ない会話をしていた時、神殿の入り口から困惑した声が聞こえてきた。
「あの…すみません。ここは…どこでしょうか?」
記憶を失った青年
振り向くと、そこには見知らぬ青年が立っていた。20代前半くらいで、短い茶色の髪に優しそうな瞳。でも、その表情には明らかに混乱が見えた。
「どちら様でしょうか?」
ケペトが近づく。
「それが…分からないんです」
青年が困った顔をする。
「自分の名前も、どこから来たのかも」
「記憶喪失?」
イシスが心配そうに聞く。
「はい。気がついたら、神殿の前にいて…頭に怪我はないんですが、何も思い出せません」
その時、他の神々も集まってきた。
「どうしたの?」
ハトホルが尋ねる。
「記憶をなくした方がいらして」
ケペトが説明する。
「記憶喪失か」
セトが眉をひそめる。
「珍しいな」
「でも、神殿の前にいたということは、何か理由があるはず」
ラーが考える。
青年はきょろきょろと周りを見回している。
「皆さん、とても美しい方ばかりですね。まるで神様みたい」
みんなが苦笑いした。
「あながち間違いじゃないわね」
ネフティスが小声で言う。
とりあえず保護
「名前が分からないと不便ですね」
ケペトが考える。
「何と呼ばせていただきましょう?」
「そうですね…」
青年が考え込む。
「何か気になるものはある?」
ハトホルが聞く。
青年は神殿の中を見回して、ふと星の装飾に目を止めた。
「星…星が気になります」
「それなら」
アケムが提案する。
「『ホシ』はどうですか?星という意味で」
「ホシ…いい響きですね。それでお願いします」
こうして、記憶を失った青年は『ホシ』と名乗ることになった。
「それじゃあ、ホシ君」
イシスが優しく微笑む。
「記憶が戻るまで、ここにいなさい」
「でも、ご迷惑では…」
「迷惑なんてとんでもない」
ケペトが手を振る。
「困った人を助けるのは当然です」
「ありがとうございます」
ホシが深々と頭を下げる。
ホシの不思議な能力
その日から、ホシは神殿で生活することになった。とても礼儀正しく、手伝いも率先してやってくれる。
「ホシ、水汲みありがとう」
イシスが感謝する。
「いえいえ。お世話になってるんですから」
「でも、すごく手際がいいのね」
確かに、ホシは記憶を失っているにも関わらず、日常の作業がとても上手だった。
「これも覚えてないんですが」
ホシが掃除をしながら言う。
「体が勝手に動くんです」
「体が勝手に?」
「はい。どうやって掃除するか頭では分からないんですが、手が覚えてるみたいで」
セトが興味深そうに見ている。
「面白いな。記憶は失っても、体の記憶は残ってるのか」
「そういうものなんでしょうか?」
「ああ。体で覚えたことは、簡単には忘れないものだ」
音楽への反応
昼食後、ハトホルがいつものようにフルートを吹いていた。
美しいメロディーが神殿に響く中、ホシの様子が変わった。
「あ…」
目を閉じて、音楽に聞き入っている。そして、自然に体が動き始めた。
まるで踊っているような、でも踊りとは違う、独特な動き。
「ホシ、それは…」
ハトホルが演奏を止める。
「え?」
ホシが我に返る。
「すみません、体が勝手に…」
「いえ、謝らないで」
ハトホルが興奮する。
「今の動き、とても美しかった」
「美しい?」
「ええ。まるで音楽を体で表現してるみたい」
「私にはよく分からないんですが…」
その時、ネフティスが何かに気づいた。
「ちょっと待って」
古い本を取り出す。
「今の動き、どこかで見たことが…」
古代の舞踊
「あった!」
ネフティスが本のページを指差す。
そこには、ホシがさっきやったのとよく似た動きの絵が描かれていた。
「これは…古代の星の舞踊」
「星の舞踊?」
みんなが興味深そうに聞く。
「古代エジプトで、星の神に祈りを捧げる時に踊られた神聖な舞踊よ」
「神聖な舞踊…」
ホシが呟く。
「でも、この舞踊を知ってる人は、もうほとんどいないはず」
「ほとんどいない?」
「ええ。失われた芸術の一つなの」
みんながホシを見つめる。
「ホシ君、もしかしてあなた…」
ケペトが言いかけた時、
「分からないんです」
ホシが頭を抱える。
「何も思い出せない」
愛の精霊の発見
その夜、愛の精霊がホシの周りを飛び回っていた。
「あれ?おかしいな」
「どうしたの?」
ケペトが聞く。
「ホシさんの周りから、とても懐かしい感じがするんです」
「懐かしい?」
「はい。でも、何の懐かしさかは分からなくて」
愛の精霊はホシの手に止まった。
「あ」
ホシが驚く。
「どうしました?」
「今、温かい気持ちになりました。とても懐かしくて、安心する感じ」
愛の精霊が光る。
「私も同じです。ホシさんには、どこかで会ったことがあるような…」
「でも、愛の精霊は憎しみの精霊だった時から、ずっと森にいたのよね?」
ネフティスが確認する。
「はい。でも、この感じは確かに…」
アポピスの記憶
翌日、アポピスがホシをじっと見つめていた。
「どうしたの、アポピス?」
ケペトが聞く。
「このホシという青年…どこかで見たことがあるような気がする」
「本当?」
「ああ。でも、いつ、どこでかは思い出せない」
「アポピス様の記憶にもあるんですか?」
ホシが興味深そうに聞く。
「君は覚えていないか?大きな黒い龍を見たことは?」
ホシは考え込んだが、首を振った。
「すみません。やはり思い出せません」
「そうか…」
アポピスが残念そうにする。
その時、ラーが口を開いた。
「アポピス、君の記憶はどのくらい前のものだ?」
「そうだな…数百年前かもしれない」
「数百年前?」
みんなが驚く。
「ホシ君、見た目は20代だけど…」
イシスが困惑する。
「まさか」
セトが気づく。
「ホシは人間じゃないのか?」
正体の手がかり
「人間じゃない?」
ホシが驚く。
「可能性としては、ありうるわね」
ネフティスが本を調べる。
「星の舞踊を知っている、長い寿命を持つ存在…」
「どんな存在ですか?」
ケペトが心配そうに聞く。
「いくつか候補があるわ。星の精霊、星の神の使者、それとも…」
ネフティスが一つのページで手を止める。
「星の守護者」
「星の守護者?」
「古代エジプトで、夜空の星々を守る役割を持った存在。人間に近い姿だけど、とても長い寿命を持つ」
「それなら、数百年前にアポピスと出会ったかもしれませんね」
ハトホルが言う。
「でも、どうして記憶を失ったんでしょう?」
アケムが心配する。
「それが問題ね」
ネフティスが眉をひそめる。
「星の守護者は、通常は記憶を失ったりしない」
記憶喪失の原因
「何か特別な理由があるはず」
ラーが考える。
「病気?」
イシスが提案する。
「怪我?」
セトが続ける。
「それとも…」
アポピスが暗い表情になる。
「何か悪いことでもあったのか?」
その時、ホシが急に頭を押さえた。
「うっ…」
「ホシ君?」
ケペトが慌てて駆け寄る。
「頭が…痛くて…」
「大丈夫?」
ホシの表情が苦痛に歪む。そして、うわ言のように呟き始めた。
「星が…星が消えて…守らなきゃ…でも、力が…」
「星が消える?」
みんなが聞き耳を立てる。
「みんなが…みんなが困ってる…助けなきゃ…でも、どうやって…」
そして、ホシは気を失ってしまった。
看病
ホシをベッドに運んで、みんなで看病した。
「熱はないようですね」
イシスが額に手を当てる。
「でも、とても苦しそう」
ケペトが心配する。
「さっきの『星が消える』って何のことでしょう?」
アケムが考える。
「分からないが」
アポピスが真剣な顔をする。
「何か大変なことが起こっているのかもしれない」
「大変なこと?」
「星の守護者が記憶を失うほどの出来事」
ラーが窓の外を見る。
「そういえば、最近夜空が少し暗いような気がしていた」
「暗い?」
「ああ。星の数が減っているような」
みんなが窓の外を見る。確かに、いつもより星が少ないような気がする。
「まさか」
ネフティスが青ざめる。
「ホシが言ってた『星が消える』って、本当に星が消えてるってこと?」
夜空の異変
その夜、みんなで屋上に上がって夜空を観察した。
「確かに、星が少ないですね」
ケペトが心配そうに言う。
「昨日より、明らかに減ってる」
ハトホルが指摘する。
「このままでは、夜空が真っ暗になってしまうかもしれないわね」
イシスが不安そうにする。
「星が消える原因は何だ?」
セトが考え込む。
その時、ホシが目を覚ました。
「あ、ホシ君」
ケペトが駆け寄る。
「大丈夫?」
「はい…でも、とても不安な気持ちです」
ホシが起き上がる。
「不安?」
「理由は分からないんですが、何かとても大切なことを忘れているような」
「ホシ」
アポピスが声をかける。
「はい?」
「君は星の守護者かもしれない」
「星の守護者?」
「そして、今、星が消えている」
ホシの顔が青ざめた。
「星が…消えてる?」
窓の外を見て、ホシは愕然とした。
「これは…ひどい」
「何か思い出した?」
ケペトが期待を込めて聞く。
「いえ…でも、胸が苦しくて。まるで自分の家族が苦しんでるような」
「家族?」
「星たちです」
ホシが涙を浮かべる。
「星たちが私の家族のような気がして」
使命の覚醒
「それなら」
ケペトが決意を固める。
「星が消える原因を調べて、解決しましょう」
「でも、危険かもしれません」
ホシが心配する。
「危険だからこそ、みんなで力を合わせるんです」
「そうだ」
セトが同意する。
「仲間が困ってるのを放っておけるか」
「私たちも手伝います」
ハトホルが微笑む。
「星のない夜空なんて、音楽もつまらないもの」
「音楽と星は関係あるの?」
愛の精霊が聞く。
「もちろんよ。星は夜の音楽に欠かせないの」
ホシは感動していた。
「皆さん…ありがとうございます」
「お礼なんていらないわ」
イシスが優しく言う。
「家族でしょう?」
「家族…」
ホシが微笑む。
「はい。皆さんも私の大切な家族です」
調査開始
翌朝、星が消える原因を調べることになった。
「まず、星について詳しく調べましょう」
ネフティスが提案する。
「図書館に行きましょう」
「私は夜空の観察を続けます」
ラーが言う。
「太陽神として、天体の変化には敏感なんです」
「僕は街の人たちに聞いてみます」
アケムが手を上げる。
「何か変わったことがなかったか」
「私は愛の精霊と一緒に、自然の声を聞いてみます」
ケペトが言う。
「動物たちも何か知ってるかもしれません」
ホシは不安そうだったが、決意を固めた。
「私も…記憶を取り戻すために頑張ります」
「無理しないで」
イシスが心配する。
「でも、星を救うためには、私の記憶が必要かもしれません」
こうして、星の危機を救うための調査が始まった。
果たして、ホシの記憶は戻るのか。
そして、消えゆく星々を救うことができるのか。
新たな謎と冒険の幕が上がったのだった。




