5章13話 愛の試練と新たな力
心の調和会が始まってから一ヶ月。
テーベの街には音楽が根付き、人々の暮らしがより豊かになっていた。そんなある朝、
ケペトは少し寝坊をしてしまった。
「あ、やばい!」
慌てて身支度を整えながら神殿に向かうと、いつものようにみんなが集まっていた。
「おはよう、ケペト」
イシスが微笑む。
「今日は珍しく遅刻ね」
「すみません!昨夜遅くまで調和会の準備をしていて…」
「無理は禁物よ」
ラーが心配そうに言う。
その時、アケムが現れた。
「おはようございます。ケペト、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
二人の自然な会話を見て、神々たちが微笑む。付き合い始めて一ヶ月、二人の関係は順調に育っていた。
街の変化
「そういえば」
ハトホルが話し始める。
「最近、街の様子が変わったと思わない?」
「変わった?」
ケペトが首をかしげる。
「ええ。みんながよく歌うようになったし、楽器を持ち歩く人も増えた」
「そうですね」
アケムが頷く。
「王宮でも、兵士たちが休憩時間に楽器の練習をしてるんです」
「素晴らしいことだわ」
イシスが嬉しそうに言う。
「音楽が人々の生活に根付いている」
「でも」
ネフティスが少し心配そうな表情を見せる。
「変化には必ず反動があるものよ」
「反動?」
「急激な変化を好まない人たちもいるということ。特に、伝統を重んじる人たちは…」
その時、神殿の入り口から厳かな足音が聞こえてきた。
神官長の登場
入ってきたのは、白い髭を蓄えた老年の男性だった。立派な装飾の施された神官服を着ている。
「神官長!」
アケトが慌てて立ち上がる。
神官長─ラメセスは、神殿の最高責任者だった。普段は王宮に住んでいて、滅多に神殿には来ない。
「皆さん、お疲れ様です」
ラメセスが重々しい声で言う。
「お疲れ様です」
みんなが挨拶する。
ラメセスの視線がケペトに向いた。
「あなたがケペト神官ですね」
「はい」
ケペトが緊張しながら答える。
「最近、あなたの活動について多くの報告を受けています」
「報告?」
「街の人々と神々が一緒に音楽をするという、前例のない活動について」
ケペトは不安になった。怒られるのだろうか。
「あの、もしご迷惑をおかけしていたら…」
「迷惑?」
ラメセスが眉を上げる。
「いえ、迷惑ではありません。ただ…」
「ただ?」
「適切な指導が必要だと思われます」
伝統vs革新
「適切な指導?」
ラーが口を挟む。
「はい、ラー様」
ラメセスが丁寧に答える。
「神々と人間の交流は素晴らしいことです。しかし、古来からの作法や礼儀を無視してはいけません」
「作法?」
ハトホルが困った顔をする。
「例えば、神々に対する適切な敬語の使用、神殿での振る舞い方、音楽の際の正しい姿勢など」
「でも」
セトが反発する。
「そんな堅苦しいことばかり考えてたら、楽しくないじゃないか」
「セト様、楽しさも大切ですが、規律も必要です」
「規律って…」
雰囲気が重くなってきた。
「あの」
ケペトが勇気を出して言う。
「もしよろしければ、神官長にも心の調和会を見ていただけませんか?」
「見学ですか?」
「はい。実際に見ていただければ、私たちがどんなことをしているか分かっていただけると思います」
ラメセスは少し考えてから頷いた。
「分かりました。次回の調和会を拝見させていただきます」
準備会議
ラメセスが帰った後、みんなで緊急会議を開いた。
「どうしよう…」ケペトが不安そうにつぶやく。
「大丈夫よ」
イシスが励ます。
「私たちがやっていることは間違っていない」
「でも、神官長が見学するとなると、参加者の皆さんも緊張するでしょうね」
ハトホルが心配する。
「うーん、どうしたものか」
ラーが腕組みする。
「簡単だ」
セトが言う。
「いつも通りやればいい」
「いつも通り?」
「そうだ。俺たちがやってることは、心を合わせて音楽を楽しむこと。それだけだ。それが間違ってるなら、俺は神官長と討論してやる」
「セト…」
「でも、セトの言う通りね」
ネフティスが頷く。
「私たちらしくやればいい」
「そうですね」
アケムが同意する。
「無理に変える必要はないと思います」
ケペトは少し安心した。みんながついていてくれる。
参加者への説明
次の調和会の日、いつものように王宮の庭園に人々が集まってきた。
「皆さん、今日は特別なお客様がいらっしゃいます」
ケペトが説明する。
「特別なお客様?」
「神官長のラメセス様です。私たちの活動を見学されます」
参加者たちがざわめく。
「神官長?」
「あの偉い人?」
「緊張するなあ…」
「でも」
ケペトが微笑む。
「いつも通りで大丈夫です。私たちは何も間違ったことはしていません。心を合わせて、音楽を楽しむ。それだけです」
「そうですね」
ミラが頷く。
「いつも通りが一番」
「みんなで楽しくやりましょう」
ネベト王女も励ます。
神官長の見学
程なくして、ラメセス神官長が到着した。厳かな表情で、少し離れた場所に椅子を用意して座る。
「それでは、始めましょうか」
ハトホルが声をかける。
最初はみんな緊張していた。いつもより声が小さく、動きもぎこちない。
「大丈夫」
ケペトが小さく声をかける。
「いつものように」
そして、いつものように歌から始まった。
最初は小さな声だったが、だんだんと自然な声になってくる。
楽器の演奏も始まる。上手な人も、そうでない人も、みんなで音楽を作り上げていく。
そして、手拍子や足拍子で参加する人たち。
気がつくと、神官長の存在を忘れて、みんなが音楽に夢中になっていた。
ケペトの力
音楽が進むにつれて、ケペトは自然に自分の力を使った。みんなの心をそっとつないでいく。
神々と人間、老人と子供、王族と庶民。
様々な立場の人たちの心が、音楽を通して一つになっていく。
その時、不思議なことが起こった。
ケペトの力に反応して、庭園の花たちが美しく咲き始めたのだ。
「あれ?花が…」
「咲いてる…」
参加者たちが気づく。
でも、音楽を止めることはなかった。むしろ、より美しい音楽になっていく。
花だけではなく、木々も緑を増し、小鳥たちが歌に加わってくる。
まるで自然全体が、音楽会に参加しているようだった。
新たな力の覚醒
ケペトは驚いた。今まで、自分の力は人の心をつなぐものだと思っていた。でも、今は自然とも繋がっている。
『これは…』
心の中で、何かが変わっていくのを感じた。
自分の力が、より大きく、より深くなっている。
人と人だけでなく、人と自然、そして全ての生き物との調和を感じられるようになった。
音楽が最高潮に達したとき、庭園全体が光に包まれた。
優しく、温かい光。
それは愛の光だった。
神官長の反応
演奏が終わると、しばらく誰も動けなかった。
あまりにも美しい体験に、言葉を失っていた。
その時、拍手の音が響いた。
振り向くと、神官長が立ち上がって拍手していた。
目には涙を浮かべている。
「素晴らしい」
ラメセスが声を震わせながら言う。
「これほど美しい光景を見たのは初めてです」
「神官長…」
「私が間違っていました」
ラメセスが頭を下げる。
「作法や規律も大切ですが、それ以上に大切なものがあることを忘れていました」
「それ以上に大切なもの?」
「愛です。心からの愛」
ケペトは感動した。
厳格だと思っていた神官長が、こんなに素直に感情を表現してくれるなんて。
「皆さんの音楽には、愛があります。神々への愛、隣人への愛、音楽への愛。その愛が、このような奇跡を起こしたのでしょう」
参加者たちも感動していた。
「ありがとうございます」
ケペトが頭を下げる。
「こちらこそ、ありがとうございました。素晴らしい体験をさせていただきました」
新しい理解
調和会が終わった後、神官長と神々、そしてケペトが話し合った。
「ケペト神官」
ラメセスが言う。
「あなたの力は、私が今まで見てきたどの神官よりも強力です」
「そんな…」
「いえ、本当です。そして、その力の源が愛であることが素晴らしい」
「愛?」
「はい。あなたは愛の力で、みんなの心を一つにしている。それは非常に稀有な能力です」
ラーが口を挟む。
「ラメセス、あなたもケペトの特別さに気づいたのね」
「はい。このような神官が現れることを、私たちは長い間待っていました」
「待っていた?」
ケペトが驚く。
「古い預言があるのです」
ネフティスが説明する。
「『愛の調停者が現れるとき、新しい時代が始まる』という」
「愛の調停者…」
「あなたのことよ、ケペト」
イシスが微笑む。
アケムとの時間
その夜、ケペトとアケムは神殿の屋上で話していた。
「今日はすごかったですね」
アケムが言う。
「あの光景、一生忘れません」
「私もびっくりしました。まさか花が咲くなんて」
「ケペトの力が強くなってるんですね」
「そうみたいです。でも、少し怖いです」
「怖い?」
「こんなに強い力、私に使いこなせるでしょうか」
アケムはケペトの手を優しく握った。
「大丈夫です。ケペトは優しいから、きっと正しく使えます」
「アケム…」
「それに、一人じゃないでしょう?みんながついています」
ケペトは微笑んだ。
「そうですね。みんながいるから大丈夫」
「はい。僕も、ずっとそばにいます」
「約束?」
「約束です」
二人は手を繋いで、星空を見上げた。
新たな挑戦の予感
翌朝、神殿に集まった時、ネフティスが興味深い本を持ってきた。
「これを見て」
本を開いて見せる。
「愛の調停者についての記述よ」
「なんて書いてあるの?」
ハトホルが身を乗り出す。
「『愛の調停者は、段階的に力を覚醒させる。第一段階は人と人の調和、第二段階は人と自然の調和、そして第三段階は…』」
「第三段階は?」
「時と空間を超えた調和」
みんなが静かになった。
「時と空間を超えた調和って、何?」
ケペトが不安そうに聞く。
「分からない」
ネフティスが首を振る。
「でも、きっと必要な時が来れば分かるわ」
「そうですね」
ラーが頷く。
「今は第二段階を理解することから始めましょう」
新しい日常
それから数日、ケペトは自分の新しい力について学んでいた。
庭園の花と話ができるようになったり、小鳥たちが集まってきたり、時には風や水とも対話できるようになった。
「すごいなあ」
セトが感心する。
「自然と話すなんて、俺にもできないよ」
「でも、まだ慣れません」
ケペトが苦笑いする。
「花が『もっと水をちょうだい』って言ってきたり、鳥が『おいしい実はどこ?』って聞いてきたり」
「可愛いじゃない」イシスが笑う。
「可愛いですけど、たまに疲れます」
「無理は禁物よ」
ラーが心配する。
「新しい力には、ゆっくり慣れていけばいい」
その時、急にケペトの表情が変わった。
「あれ?何か変です」
「変?」
「動物たちが…ざわついてる」
ケペトは目を閉じて集中した。自然からの声に耳を傾ける。
『危険』『逃げて』『怖い』
様々な警告が聞こえてくる。
「みんな、何か来ます」
ケペトが目を開けて言う。
「何かって、何が?」
その時、神殿が微かに揺れた。
「地震?」
しかし、揺れは地震とは違った。何か巨大なものが近づいてくるような振動だった。
予期せぬ来訪者
神殿の外から、低い唸り声が聞こえてきた。
みんなで外に出ると、空に巨大な影が見えた。
それは龍だった。
古代エジプトの伝説に出てくる、巨大な龍。
「アポピス…」
ラーが青ざめる。
「アポピス?」
「混沌の龍よ。秩序を破壊する古い神」
龍、アポピスは、神殿の前に降り立った。
体長50メートルはあろうかという巨体。鱗は黒く、目は赤く光っている。
「久しぶりだな、小さな神々よ」
アポピスが人間の言葉で話した。声は雷のように響く。
「何の用だ、アポピス」
セトが前に出る。
「おや、セトか。相変わらず勇ましいな」
「答えろ」
「用?」
アポピスが笑う。
「この辺りから、妙な調和の気配がするのでな。確かめに来たのだ」
視線がケペトに向いた。
「ほう、君が愛の調停者か」
ケペトは恐怖で動けなかった。
アポピスの存在は、今まで感じたことのないほど強大で、そして恐ろしかった。
「面白い」
アポピスが興味深そうに言う。
「その力、見せてもらおうか」
「何をするつもりだ」
ラーが警戒する。
「試練を与えるのだ。愛の調停者がどれほどのものか、な」
試練の始まり
アポピスが翼を広げると、周囲に混沌の力が広がった。
花は枯れ、鳥たちは逃げ去り、空は暗雲に覆われた。
「やめて!」
ケペトが叫ぶ。
「やめる?」
アポピスが笑う。
「これが現実だ。世界には美しいものばかりではない。醜いもの、恐ろしいもの、絶望的なものもある」
「でも…」
「その現実を受け入れてもなお、愛を信じられるか?それが試練だ」
混沌の力がさらに強くなる。
街の人々が恐怖で泣き叫ぶ声が聞こえてくる。
「やめて…お願いします…」
ケペトが涙を流す。
「涙か」
アポピスが冷笑する。
「愛の調停者も、結局は無力な少女に過ぎないか」
その時、ケペトの中で何かが燃え上がった。
怒りではない。
悲しみでもない。
純粋な愛だった。
「私は…」
ケペトが立ち上がる。
「私は、この世界のすべてを愛しています」
「すべてを?」
「はい。美しいものも、醜いものも。楽しいことも、悲しいことも。それら全てが、この世界を作っているから」
ケペトの体が光り始めた。
「そして、あなたも」
「私も?」
アポピスが驚く。
「はい。あなたも、この世界の一部だから」
愛の力
ケペトの愛の力が、アポピスの混沌の力と対峙した。
しかし、それは対立ではなく、包み込むような愛だった。
混沌を否定するのではなく、受け入れる愛。
アポピスは戸惑った。今まで、自分を愛すると言った者はいなかった。
「何故だ…」
アポピスが呟く。
「私は破壊の象徴だぞ。秩序を壊し、混沌をもたらす存在だ」
「それでも」
ケペトが微笑む。
「あなたも大切な存在です」
「分からない…」
「破壊があるから、創造がある。混沌があるから、秩序が生まれる。対立ではなく、補完しあう関係なんです」
ケペトの言葉に、アポピスの心が揺れた。
長い間、自分は悪であり、嫌われる存在だと思っていた。
でも、この少女は違う。
自分の存在価値を認めてくれる。
「君は…不思議な少女だな」
アポピスの目から、黒い涙が流れた。
調和の実現
その時、奇跡が起こった。
ケペトの愛の力と、アポピスの混沌の力が融合したのだ。
対立ではなく、調和として。
破壊と創造、混沌と秩序、すべてが一つの大きな調和の中に包み込まれた。
枯れた花は再び咲き、逃げた鳥たちが戻ってきた。
でも、それは元と同じではなく、より深い美しさを持っていた。
苦難を乗り越えた美しさ。
多様性を受け入れた調和。
「これは…」
ラーが息を呑む。
「第三段階の調和ね」
ネフティスが感動で震える。
「時と空間を超えた調和…」
ケペトは、相反するものすべてを包み込む愛を実現したのだった。